65

 遥が言うと、なんだかとても説得力があるな、と夏は思った。

「そうなんだ。そんな人、どこにもいないんだ」

「うん」

 そう話す遥は、なぜかどことなく嬉しそうな表情をしているように夏には思えた。

「それさ、ちょっと貸してよ」夏が言う。

 夏が言っているそれ、とは編み物をしている棒のことだ。

「だめ」

 と遥が即答する。

「どうして?」夏が言う。

「だって夏、編み物できないでしょ?」

「確かにできないけどさ、ちょっとだけ挑戦してみたいんだよね」夏が言う。

「挑戦?」

「そう。なんか面白そうだからさ」

 笑っている夏の顔を遥がじっと見つめる。

 数秒の間。

「やっぱりだめ」

「けち」

 そう言って夏が拗ねる。

「じゃあ、そっち貸してよ。そっちならいいでしょ?」

「そっちって、これのこと?」遥が言う。

「そう。それのこと」

 そう言って夏は赤い毛玉を見る。

「そっちならいいよ」遥が言う。

「ありがと」夏が言う。

 遥が赤い毛玉を手にとって、夏に手渡した。それを受け取った夏は、なにかとても珍しいものでも見るように赤い毛玉をじっと眺める。

 遥は夏の様子を伺いながら編み物を続けた。

 遥と夏の間に赤い糸が一本、床にまで垂れ下がって、くるくると渦のような形を作って、伸びている。

 それを夏は見つめる。

 雛ちゃんがいたら、この糸であやとりでもするのかな? と、そんなことを考える。

 夏は頭の中で、笑いながら赤い糸であやとりをする雛の姿を思い浮かべる。

 上手に橋の形を作った雛は、どうですか? うまいでしょ? とでも言いたそうな顔をして、にっこりと笑いながら夏を見る。

 夏は頭の中で、上手だね、という。

 すると頭の中で、ありがとう、と雛が答えた。

 いつの間にか夏は話すことをやめていた。

 遥も編み物をするだけで、なにも話しをしなかった。

 だからこの話はまるで初めからこの場所に、二人の間に存在していなかったかのように、静かに、泡のように消えてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る