第20話・沈降

 マンガ家としてデビューは果たした。引っ越しも終えた。おまけにカノジョもできた・・・という形にはなったが、人生は順風満帆とはいかない。いや、天気は晴朗で、航路は洋々とひらけている。なのに、肝心のオレ自身のテンションがダメなのだ。とにかく、マンガを描きたくない。考えてみれば、この仕事がたいして好きなわけでもない。これでは熱量は上がりようがない。上京するために「マンガを描く」という手段を「なんとなく」選択したに過ぎないので、この道に賭ける意気込みもなければ、野望も情熱もまるでないのだった。上手ではあっても、やりたいわけではない、というわけだ。

 スピリッツのありがたき担当編集氏は、とにかくよくしてくれる。なにもわからないこのペーペーの若造に、懇切丁寧に指導をしてくれるし、一緒になって悩んでくれるし、アイデアを出してもくれる。美味いものを食わせてもくれれば、麗しきお姉ちゃんのいる煌びやかな世界でお勉強をさせてもくれる。なにからなにまで面倒を見てくれる。なによりもありがたいことに、読み切りの枠をくれる。

「20ページ、ネームを描いてくれるかなっ」

 描いて、持っていく。

「いいねっ。原稿にしちゃってよっ」

 ペンを入れて持っていく。

「いいねっ。三週後の号に掲載しとくよっ」

 三週後にスピリッツを買って読んでみると、自分の作品が載っている。トビラには必ず「俊才、デビュー」だの「俊才の新作」だのと、輝かしい装飾がわがペンネームの上に据えられていて、読者の期待を煽っている。オレはどうやら、マンガ界の俊才、らしい。

 しかし、マンガ業界は活況を呈していて、次から次へと新人が誕生している。オレがスピリッツ賞を受賞する少し前の世代には、「ピンポン」の松本大洋や、「伝染るんです」の吉田戦車がいて、ちょっと後には「いいひと」の高橋しんがいる。みんなオレと同様に、出版社のパーティーで空きっ腹を満たし、そこで英気を得て作品を描き、大金持ちになっていった人物だ。そんなまだ磨かれていない玉が輝きの片鱗を垣間見せるたびに、恐怖におののく。自分に才能がないなどとはツユほどにも感じたことはないが、とにかくオレには、決定的に体温が足りないのだ。彼らと等質のエネルギーがない。つまり、やる気、が。

「次号の枠が空いたから、四日間で急いで14ページ描いてっ」

 徹夜で描く。酒場の仲間に集合をかけ、ベタぬりやトーン貼りを手伝ってもらう。Gペンを使っていては間に合わないので、ピグマという、つまり細線のマーカーを使うしかない。絵がポップで軽いものになる。なんだか急につまらなくなってくる。

「よくできたねっ。載せとくよっ」

 翌週号を見ると、本当に載っている。ありがたや、担当編集様。彼には頭が上がらないし、足を向けて眠ることもできない。感謝しかない。期待も理解も優しさもありがたい。しかしオレははっきりと、マンガを描くことがつまらなくなりはじめている。それは、「マンガ家になり」「上京すること」をゴールとして設定していたために、そこをスタートとする今ひとたびのテンションを湧き起こすことができないことに第一の理由がある。結局、自分の腕試しをして、そのラインがクリアできさえすれば満足だったのだ。継続は力だが、オレはその力をスタート地点で使い果たしてしまった。そして、オレの力の源泉は「自由」なのだ。自由な主体性だけが、自分に力を、やる気を与える。逆に言えば、求められることがめっぽうに苦手なのだ。期待されればされるほど逃げたくなる、という厄介な性質なのだった。

 電車に乗ると、座席の誰もがマンガ誌を読みふけっている(携帯電話もない時代なのだ)。スピリッツを手にした会社員が開いているページをチラ見してみると、ちょうど「俊才」氏の徹夜作品の部分だ。彼は一心に読み込み、たまに、くすり、と笑ったりしている。すごいことではないか!信じられない気分だ。高揚する。なのに、逃げ出したくなる。次の作品を描かなきゃならない。悦ぶべきことなのに、壊れていく。描きたくない。オレはついに、電話にも出られない状態になった。

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