第11話・酒場の客
東京に友だちはひとりもいない。仕事場を離れ、江古田のアパートに帰り着けば、深刻なひとりぼっちだ。こうした環境では、まず最初に酒場を探さなければならない。酒こそ友。酒場こそ基地。そんな店を見つけねば。
ぶらぶらと探険がてらに駅前を歩くと、江古田の街は小さいわりに、結構な繁華街をふところに抱えている。三つばかりの商店街が入り組み、その間隔を塗り込める形で、居酒屋、バー、カラオケボックス、その他飲食店が軒を連ねている。名の知れた居酒屋チェーン店にはほとんどお目にかかれるし、気分よく過ごせそうな小規模個人店も数多い。学生街なので、色っぽい店構えのものは少なく、気軽に入れそうな安酒場が大半だ。ウソかホントか、聞いた話によると、テナント数における居酒屋の割り合いが日本一、らしい。なかなかのパラダイスと言える。しかし、学生たちが大騒ぎをするような居酒屋に興味はない。ああいう場所にひとりでいると、よけいにさびしい気分にさせられる。それよりも、脱力してくつろげる「場末の酒場」が好みだ。そういう場所こそ、さびしそうに見えて、居心地がよろしいのだ。一軒の素っ気ないバーが目に入った。街の中央の雑多な地域で、小さな商業ビルの二階に「イングレイン」の看板を掲げている。酒場選びは、直感がすべてだ。降りてきた神託を信じ、入ってみる。
「いらっしゃいませ」
ころりとした体型のマスターが、店の奥のカウンターでグラスを磨いている。のちに同い年とわかる彼は、こちらをひとり客と見ると、柔和な笑みを浮かべて、自分の目の前の席へと促してくれる。そんなマスターの横に、妖怪のようなおば・・・姐さん、と言わねば牙をむかれるが、銀座のママといった感じのものすごい迫力の女性がたたずんでいる。
「おひとりね?」
タバコに荒れた声。厚化粧の奥にうずめられた眼光鋭い目つきで全身を睨めつけられ、値踏みされる。えらいところにきてしまったようだ。
誰もいない四つ五つのテーブル席をパスし、とりあえず、おいでおいでをされるままに、四席しかないカウンターの真ん中に座る。打ちっ放しのコンクリートの壁に、むき出しの配管。簡素にして、清潔。スポットライトを壁の絵に当てるだけのほの暗さ。頭上の大画面テレビに、古いクラプトンの映像。すみっこでは、ひとりの男性客が自分のボトルからバーボンを飲んでいる。どうしよう・・・五千円しか持っていない。しかしメニューを見ると、たいした値段ではない。オレは、ひとりの酒はキリなく飲んでしまうたちなので、ボトルを手酌でないとだめなのだ。ええい、といきなり、いちばん安いジンをボトルで頼む。
「まあ、お強いんですのね」
キのやつ(ショット)を歯ぐきで飲んでいるうちに、カウンター内のふたりと打ち解けていく。マスターは気さくで、場の空気をうまくつくり、おば・・・姐さんは辛辣だが、世間をよく知った風な重石になっている。常連らしき隣の客も朗らかで、頭がよさそうだ。悪い場所ではない。
「実はオレ、マンガ家になるために、先週上京したばかりなんです」
ついに自己紹介をする。賞に引っかかりましてね、へへ、どうですか、なかなかの決断でしょう?マンガ家なんて、珍しくないす?なんてところだ。ところが、これを聞いた隣の客が、
「へえ。ぼくもマンガを描いてるんですよ」
などと言い出すではないか。聞いてみると彼は、のちにドラマにもなる「Dr.コトー診療所」で一世を風靡する山田貴敏さんだった。びっくり仰天ではないか。本物のマンガ家なんて、はじめて見た。しかも、オレはあまり単行本を買わないのだが、彼の「風のマリオ」だけはずっと書棚に置いているのだ。それは少年彫刻家を主人公としたマンガで、美大生にとってはバイブルのような一冊なのだ。東京で最初に飛び込んだ酒場で最初に隣り合わせたのが、その作者だとは。本当に託宣を得たような気分だ。
「だったら、来週、別の店でぼく主催の忘年会があるんだけど、こない?」
山田さんに誘ってもらい、天にも昇る気持ちだ。運が向いてきたのかも知れない。なぜならその忘年会で、さらなる出会いが待っていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます