僕らは自分を愛せない

深海 悠

prologue 遠い日の記憶

 余命一年。それが僕に残された時間らしい。

 体育の授業中に突然意識を失い、病院へ搬送された僕は、朧げな意識のなかで医師の言葉を反芻した。

 一年後には死んでいるのだと思うと、恐怖と不安で泣き叫びたくなった。

 あちこちの病院へたらい回しにされた後、最後の砦と呼ばれる離島の病院へ連れていかれた。病院へ着くと、白衣を着た外国人と思われる男から一冊のノートを手渡された。

 ありがとう。お礼を言うと、男は微笑を浮べて去っていった。

 看護師に名前を呼ばれ、僕はもらったノートを片手に病室へと向かった。病室の真正面に大きな丸い形の窓があり、その向こうには海が見えた。月夜に照らされた海はキラキラと光り輝き、思わず綺麗と呟いた。

 病室には空のベッドが数台並んでおり、部屋の最奥にあるベッドだけがカーテンで覆い隠されていた。自分以外にも入院している人がいると思うと、少しだけ心が安らいだ。

 入院してから数日が経ったが、隣人との接点は皆無だった。読書が好きらしく、起きている間はずっとパラパラと本をめくる音が隣から聞こえてきた。男か女か、子供か大人か、それさえも分厚いカーテンのせいで分からない。生活音が限りなく少ないため、本をめくる音が聞こえない時は、もしや死んでいるのではないかと不安になった。

 入院生活に慣れ始めた頃、トイレから病室へ戻る時だった。母と医師の声が聞こえた。検査データの数値がかなり悪く、一年も持たない可能性があると医師が言った。その時は何事もなく病室へ戻ったが、それ以来、彼の言葉を思い出しては泣くようになり、ある時、精神的に不安定になった僕はベッドで泣き叫び、看護師に拘束されるまで暴れ続けた。鎮静剤を打たれ、しばらくの間僕は眠り続けた。

「ねえ。起きて。早く起きて」

 耳元で誰かがそう囁いた。誰だろう。母でも兄でもない。はじめて聞く声だった。

 目を開けると、枕もとに見知らぬ少年がいた。透き通るように白い肌。エメラルドのように鮮やかで深みのある緑色の瞳。幼いとはいえ、目鼻立ちがはっきりした顔は、まるで童話に登場する王子様のようだった。

「・・・・・・王子?」

 僕の言葉に、彼は目をパチパチとさせ、それから首を横に振った。

「じゃあ、誰?」

「ボクはハル。君の名前は?」

「渚」

「渚か。いい名前だね」

 視線を彼からカーテンへ向けた。いつもは固く閉ざされているカーテンが、今は少しだけ開いていた。

「ハルは、どうして今までオレに話しかけてくれなかったんだ?」

 僕の問いに、ハルは少しばかり躊躇してから口を開いた。

「ここに連れてこられた子たちは皆、すぐに死んじゃうから、挨拶するのは一か月以上経ってからと決めているんだ。そうじゃないと、辛くなるから」

 淋し気な彼の表情を見て、尋ねたことを後悔した。仲良くなれそうだと思い、声をかけても、すぐに死んでしまう。その悲しみを、彼は幾度となく味わってきたのだろう。死を突き付けられる環境で、彼は今までどうやって自分の精神を保ってきたのだろうか。

「オレと仲良くしても、きっとお前はまた後悔することになるけど、それでもいいの?」

「・・・・・・ボクと友達になってくれるの?」

 彼の頬や耳が赤く染まるのを見て、思わず笑みがこぼれた。

「もちろん。病院生活も飽きてきたし、オレと友達になってよ。お前が一緒なら、きっとこの生活も楽しく過ごせそうだし」

「嬉しい。ありがとう」

 彼の瞳がキラリと光り輝く。それは、まるで人形に命が吹き込まれた瞬間のようだった。

「これからよろしくね、渚」

「ああ、よろしく」

 彼に手を差し伸べた時、僕はぎょっとした。造り物のように整った顔がぐにゃりと歪むその様は不気味以外の何物でもなかった。後に、それは笑顔だということを僕は知った。



 同年代ということもあり、ハルとはすぐに打ち解けた。彼は読書が好きで、僕が知らないことをたくさん知っていた。出会った頃に彼が見せた不気味な笑みをもう一度見ようと、僕はありとあらゆる方法で彼を笑わせようとした。変顔を連発し、彼が目に涙を浮かべて笑ってくれた時は素直に嬉しかったし、自然に笑う彼の顔は可愛かった。

 意識して笑う時だけ、彼はなぜか不気味な表情をしてみせる。僕は彼に笑顔の特訓をしようと提案し、彼もそれに応じてくれた。僕と笑顔の練習をするうちに、彼は上手に笑顔を作れるようになった。

「ありがとう」

 陽だまりのようなその笑顔を見て、僕は特訓に付き合ってよかったと心から思った。だが、その平穏な日々も長くは続かなかった。



 ハルは身体の筋肉が徐々に動かなくなっていく病気を患っており、日を追うごとに彼の身体機能は衰えていった。彼はスプーンやペンを持つことさえも難しくなり、床に物が落ちる度に僕はそれを拾い、彼へ渡した。彼の謝罪の言葉を聞く度に、僕の心はチクチクと痛んだ。

 入院してから半年後。寒い冬の日だった。

 ハルの泣き声で目を覚ました僕は、すぐに彼のいるベッドへ駆けつけた。ほんの少しの距離を移動しただけでも、僕の心臓はバクバクと音を立てる。自分の身体よりも、ハルのことが心配だった。

「ハル、どうした?どこか痛むのか?」

 ボロボロと涙を零すハルに、僕は少なからず動揺した。

「先生に何か嫌なことでも言われたのか?」

 彼は力なく僕の服の袖を引っ張ると、「行かないで」と言った。

「なに言ってるんだよ。オレはどこにも行かないし、行けないよ」

 ハルは首を横に振って泣き続けた。彼の発言に疑問を抱きつつも、彼を安心させたくて、僕は彼の小指に自分の小指を絡めた。

「指切りげんまんって、知ってるか?たとえ離れ離れになったとしても、オレたちはずっと友達だ。約束するよ」

 指切りを交わした後、僕は彼の頬に流れる涙をテッシュで拭った。

「ほら、もう泣くな。綺麗な顔が台無しだぞ」

 彼の気を紛らわせようと、僕はテッシュ箱のそばに置いてある折り紙の袋を手に取り、数枚をベッドの上へ置いた。

「ハルは何色が好き?」

「・・・・・・あお」

「オレも青が好き。でも、一番は赤色かな」

「どうして?」

「だって、戦隊ヒーローのリーダーはいつも赤色の服着てるから」

「そういう理由?」

 ハルの枕もとに、紙ひこうきや紙風船、紙で作った向日葵を置いた。

「向日葵、上手だね」

「母の日に、兄ちゃんと一緒に作ってプレゼントしたんだ。兄ちゃんはなんでも作れるんだぜ。この間も・・・・・・」

「渚」

 ハルに名前を呼ばれ、僕は口をつぐんだ。

「もし元気になったら、どうしたい?」

「元気になったら?そうだな。ハルと一緒に学校へ行って、放課後は一緒に遊んで、同じ家で寝る。兄ちゃんと三人でゲームもしたいな。兄ちゃんは賢くて優しくて、漫画のヒーローみたいにカッコいいんだ」

「渚はお兄ちゃんのことが本当に大好きなんだね」

「もちろん。兄ちゃん、どうしてるかな?早く会いたいな」

 兄の顔を思い浮かべると、急に眠気が来た。僕は折り紙を片付けると、自分のベッドへ戻った。

 その日、家族で食卓を囲む夢を見た。母と兄と僕、そしてハルの四人で食事をした。食事の後は皆でゲームをして、ハルと一緒のベッドで眠った。とても、とても幸せな夢だった。



 目を醒ますと、僕は見知らぬ部屋にいた。隣にはハルではなく、機械がピッピッと音を立てていた。

「目が覚めたのかい?」

 聞き覚えのある声だったが、顔が思い出せない。

「ここは、集中治療室だよ。君は助かったんだ。おめでとう」

「・・・・・・ハルは?」

「彼はもうここにはいない。それよりも、君は心臓を提供してくれた人に感謝するんだな。その人がいなければ、君は死んでいたのだから」

 術後の経過は良好と判断され、あっという間に退院日が決まった。退院の日まで、僕は病院中を歩き回り、ハルを探した。だが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。彼は「行かないで」と僕に言ったけれど、本当は彼が転院することになって離れ離れになりたくないという意味だったのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、ハル探しは断念した。

 退院日。退院手続きを終え、病院を出ようとしたその時だった。母と僕の前に、白衣を着た男が現れた。母は深々と頭を下げ、僕も同じように頭を下げた。

「手術をしてくれた先生よ」

 母の声が震えていることに気づき、僕は母の顔をそっと覗いた。涙に濡れたその顔は決して嬉し泣きではなく、むしろその逆だった。母の表情に戸惑いを感じていると、前方に立っている男に肩をぽんと叩かれた。

「良かったな、少年。これから一生をかけて、お兄さんに感謝するんだな」

 貼りつけたような笑顔を向けられ、僕は後退りした。

 お兄さんに感謝するんだな。その言葉の意味に気づいた瞬間、僕は号泣した。

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僕らは自分を愛せない 深海 悠 @ikumi1124

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