第四十話 森の獣たち
ざくりと、胸をえぐられたような衝撃が走った。これまで生きてきて出遭った様々な出来事が頭の中に浮かんでは消えていく。
金の蜘蛛に魔女の生まれ変わりだと告げられたとき、だからわたしは愛されなかったのかと、現実を無理矢理受け入れることができた。しかし、自分はただの人間だった――?
「いいえ、違うわ、だってわたし、金の蜘蛛たちに襲われたとき、見えない力がこみ上げてきて……蜘蛛たちの糸を破ってみせたのよ」
「その力とやらがあるから、おまえは完全なる魔女なのか?」
蛇はせせら笑った。
「だったら、その蜘蛛はなんで傷ついている。そうだろ? おまえが本物の魔女なら、連中はおまえを襲えない」
「それは」
続く言葉がなかった。自分は怒り狂った鴉たちの前に無力だった。
「確かにおまえの中には妙な力があるのかもしれない。腐っても魔女の血と魂を受け継いでいるからな。だが獣どもを従えないようじゃ、ただの人間も同然だ。おまえは完全な魔女の生まれ変わりなんかじゃない。まずはそれを受け入れな」
「魔女じゃ……ないなら……」
掠れかけた声でリリーは呟く。白い瞳を震わせ、虚空を見つめながら。
「どうしてわたしは……お父さまや、お母さまに……棄てられなければならなかったの」
「そんなもの知らん。だが人間ってのは恐ろしく鈍い生き物だ。おそらくそいつらはおまえの本質ではなく、その白いガワだけを見て魔女だなんだと騒いだのさ。まったく愚かな連中だ。俺は人間も大嫌いだね」
リリーはしばらく呆然としていたが、はっとしたように顔を上げた。
「それなら、メアリは……彼女も……?」
「メアリ? ああ鴉か? まあ、そうなるな。蜘蛛の長とやらも。あいつらは魔女の狂信者だった。おそらくだが、おまえの『神聖な』見た目と、その蜘蛛を見事に懐柔してみせたことから盛大に勘違いしたんだろう。蜘蛛ってのは縄張り意識が強いし食欲も旺盛でよ、普通じゃ襲われて食われるはずだからな。最も、そいつは全く別の理由でおまえを好いたようだが」
リリーはこわごわと蜘蛛を見下ろした。
全く別の理由というのはよくわからない。彼は自分が魔女だから守ってくれているのかとぼんやり思っていた。
「まあそういうことだ。おまえは過去から現在に至るまで、色んな奴らの思惑の犠牲になった、哀れな人間なんだよ。それがわかったなら、とっととこの森から出ろ。そして二度と戻るな」
「え?」
リリーは目を瞬いた。
「ここから出る……?」
「なんだおまえ、一生ここにいるつもりなのか」
「いいえ、でもてっきり、あなたたちに……食べられるのかと思ってた」
ぷっ、と蛇が吹き出した。再び奇妙な声で豪快に笑いだす。
「お望みなら今すぐにでも食い散らかしてやるよ。その蜘蛛にはダチを殺された恨みもあるし、おまえは柔らかくて旨そうだ。それに魔女の血肉を食えば特別な力が手に入りそうだしな。……だがそうもいかない。こいつらがだめだと言うんだ」
こいつら、と指されたその他の獣たちが一斉にうなずき、或いは触角を揺らして見せた。
「こいつらもまた、魔女の力で生まれた格差に苦しみ、鴉の尻に敷かれて散々苦渋を舐めて生きてきた連中だ。だから、今夜の計画が実行できる日をずっと待っていた。金色の身体を隠して屋敷に侵入し、ただの野の獣に扮しておまえたちを観察していたのさ。それで、ついにおまえが地下の鴉たちの巣を暴いた。俺たちはそれに乗じて鴉たちを一網打尽にしたわけだ」
「どうやってあの場をおさめてきたの? 一網打尽って……」
「俺たち蛇の社会にもよ、当然処刑されてもいいような囚人たちがいるんだ。主に雌や卵を食い荒らすような極悪なやつらだがな。そいつを丸めて、燃える松明を括りつけて、鴉の巣穴へぽいだ。あとは地下の蓋を閉めればいい。今頃丸焼きになっているだろうよ」
恐ろしい光景を淡々と語る蛇に、リリーはぞっとした。蛇はまたおかしそうに笑う。
「話は終わってないぜ。ともかく、今夜こうしてあいつらをやれたのは、まあおまえのおかげだ。おまえが奴らの巣を暴き、俺たちに隙をつくってくれた。だから逃がしてやろうって、こいつらが言うんだ」
皆、また一様にうなずいた。どうやら本気であるらしい。
「……やさしいのね」
リリーが呟くと、蛇はしゅるりと舌を出した。
「おまえの眼は魔女のような力はないかもしれないが、少なくとも嫌いじゃないぜ。嫌な気持ちにならない、優しい眼だ。ああそうそう、おい、あれをもってこい」
蛇の声に、後ろの二匹がしずしずと前へ進み出る。彼らの尾に巻かれた金色の羽毛の塊がばさりと転がり出た。
「蜘蛛が目覚めたらそいつを食わせな。おそらくだが、その蜘蛛はちょっと特別だから、俺の考えが正しけりゃ良いことが起こるかもしれねえ」
目の前に置かれたのは一羽の鴉だった。目を閉じてこときれている。良いこととは何か聞く前に、蛇はするりと背を向けた。
「新鮮な内に食いな。しばらくはこの塔も平和だろう。さっさと蜘蛛を目覚めさせて、とっととどこにでも行け。そして二度と戻るなよ」
蛇たちがするすると壁を伝って塔の出口へ消えていく。他の者たちも一斉にそれに続いた。
ふと、一羽のコマドリが、金色の小柄な身体を羽ばたかせてこちらへ近づいてきた。小さな首を傾げてリリーを見上げ、指先ほどの嘴でそっとリリーの足先に触れた。
――私、あなたの歌、ずっと聞いていた。
柔らかい声が頭の中に響く。このコマドリの声だった。
――私たちコマドリは、魔女から異性を虜にする歌声をもらった代わりに、空を飛ぶ翼を失った。こんな羽根を持ちながら、惨めに地を這い、鴉たちに見下ろされて生きてきた。そこへ、あなたの歌が聞こえてきた。とても純粋で、素朴で、透明な声だった。あなたの声をきくために私は地上にいられたの。
コマドリはそっと嘴を離し、ぱたぱたと不器用に跳びながら去っていった。後に残ったのは鴉の死体と凪のような静寂と、手のひらの蜘蛛だけだった。
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