第十一話 捕食者と被捕食者

 安らかな旋律。聴毛がその声を捉えた時、黒蜘蛛は目覚めた。初めに視界が捉えたのは、傍で膝を抱えて歌っている白亜の少女の姿だった。

 少女の歌が止まる。動き出した蜘蛛に気がついたのだ。そっと細い指先を伸ばす。温かで柔らかい感触が蜘蛛の腹部を優しく撫でた。

 蜘蛛は朦朧とした頭でぼんやりと思い起こす。自分は雌蜘蛛たちに襲われた。捕らえられ、もみくちゃにされながら、怒り狂った雌蜘蛛の尋問から事の発端を知ったのだ。

 夜間、ある兵士が金蛇の気配を追って塔へたどり着いた。蛇は塔の周りをうろつき、出口に張られた魔力の糸をどうにか剥がせないかとつつき回っていたそうだ。それらを追い払った蜘蛛の兵は、塔の中の異様な気配に気がついた。糸を取り払い、中を覗くと、人間の雌が眠っているのを見つけた。

 兵士は巣に帰り、思わぬ獲物を見つけたと報告した。塔に張られた金色の糸はところどころ漆黒に変色しており、このような奇異な糸を吐くのは黒蜘蛛以外にいないのは明白だった。

 兵士は最長老へ報告したが、どこから漏れたのか、雌蜘蛛たちにも知れ渡ってしまった。

 雌蜘蛛は卵を育てるために誰よりも栄養を摂取しなければならない。それなのに、自分たちに隠れて餌を独り占めしていたとは、許しがたい行為だ。彼女らは怒り狂い、この事実を秘密裏に処理しようとした最長老へ襲いかかり、黒蜘蛛を殺そうとした。

 雌蜘蛛たちに襲われてからは記憶が曖昧である。怒りに染まった真っ赤な背中、怒号と痛み。自らも巨体となり抵抗を試みたが、圧倒的な数の前に為す術もなかった。

 そんな自分が、どうしてここにいるのだろう。

 だんだんと意識が冴えていく。ふいに、触肢が強い匂いを捉えた。血の匂いだ。六つの単眼で周囲に目をこらす。

 蜘蛛の身体は揺り椅子に寝かされていた。クッションに血の染みが点々と、蜘蛛を囲うように落ちている。自身の口元にも血の湿り気を感じた。

 少女の手首に赤い傷跡が見える。噛みちぎったような醜い傷口を見たとき、蜘蛛はある事実に思い至った。

 起き上がり、戸惑う少女の指先を伝い歩く。手首の傷口にたどり着いてじっと観察した。近くで見ると痛々しく、蜘蛛や蛇などの鋭い牙では到底つかない跡形である。確信がますます強くなった。

「気にしないで」

 見上げれば、少女は微笑みをたたえていた。

「なおってほしかったの……」

 蜘蛛の魔力が言葉の意味を脳に伝える。

 蜘蛛は石の床に這い降りた。こわごわ、体内に魔力を巡らせてみる。大丈夫そうだ。少女の血は、思ったよりも蜘蛛の身体を癒やしてくれたらしい。

 蜘蛛は身体を巨大化させた。

 黙って少女の腕をとる。触肢で捉え、口元を近づけた。牙を立てないように慎重に唾液を垂らす。

 しゅうしゅうと煙が上がる。たちまち少女の顔が苦痛に歪んだ。振りほどこうとするが、蜘蛛は腕を放さない。焼けるような痛みを感じているだろうが、信じてほしい。傷つけているのではないのだ。

 腕の傷口が徐々に塞がっていく。痛みに耐えながらも少女は目を丸くしていた。

 蜘蛛の体液には癒しの効果がある。飲めば体力を取り戻し、垂らせば傷が癒えていく。魔力を込めなければ効果を発揮しないため、いちいち巨大化しなければならないのが面倒ではあるのだが。

 やがて蜘蛛がその腕を放したとき、少女の腕は元通りになっていた。

「ありがとう」

 何度も耳にした言葉。この言葉は心地が良い。

 少女は一歩下がって距離をとると、うつむいて体をもじもじとさせた。

「あの……あなたに 謝らないと いけないわ」

 彼女の言葉の意を知り、蜘蛛は首を傾げる。

 何を謝罪するというのだろう。

 戸惑う蜘蛛の目の前で、少女はぼろぼろになった薄布を脱ぎ捨てた。作り物のような白い素肌が露わになる。

「ごめんなさい…… あなたに 食べてもらうには まだ 足りないわよね」

 悲しそうな少女の声。

 蜘蛛は前脚で確かめるように少女の身体に触れた。確かに肉付きは良くない。まだ骨も浮いていて、とてもじゃないが満足に食べられるとは思えなかった。

 しかし今、蜘蛛の中に奇妙な感情が湧き上がっていた。

 自分は果たして、この少女を食べたいのだろうか。

 ぼろ布を拾い上げて少女に被せる。その細い身体を抱き寄せる。蜘蛛の漆黒の巨体に少女の白い身体はすっぽりと収まった。

 初めこそ餌として捕らえていた。いつも雌たちに特上の獲物を奪われ、他の兵士たちにも搾取される毎日にうんざりしていた。差別され忌み嫌われるこの身体を呪った。その腹いせといっても良かった。仲間たちに隠れて、人間という大きな獲物を食する楽しみを味わいたかったのだ。

 しかし今。この湧き上がる感情は何なのだろう。少女にはこれからも餌を与えたい。しかし太らせたいとか、そういった目的はもはや失せている気がする。

 餌を独り占めしたいのではない。ただこの少女を生かしたい。そのために食べさせる。外敵から守る。

 自分の行動は少しずつ変化していたのだ。

 この事実に行き着いたとき、例えようもない感情が胸の内を貫いた。どこか晴れ晴れとした、それでいて切なく苦しい気持ちが湧き出てくる。

 少女が蜘蛛の身体に頭を預ける。安心しきったように瞼を閉じた。蜘蛛は、この小さな白い身体を愛おしいと思った。




 蜘蛛の腕、いや脚は、とても心地が良い。

 少女は蜘蛛の身体に包まれながら幸福を感じていた。この幸福は生まれてから一度も感じたことのないものだった。

 まだ食べてもらうにはほど遠い身体。申し訳なさに泣く泣く晒した貧しい身体を、蜘蛛は許してくれたようだった。そっと、壊れ物を扱うように自分の身体を抱いてくれたのだ。

 あなたの餌になれて、本当に良かった。

 あなたに大切にされるなら、こんな風に抱き包んでくれるなら、どうかこれからも、餌でありたい。

 昔、乳母メアリが「神」の話をしてくれたことを思い出す。もしいるなら、どうか聞いてほしい。わたしからこの蜘蛛を取り去らないで。彼の牙がわたしの身体に突き立てられるその時まで、どうか守ってください。

 瞼を閉じて、少女は乞い願う。

 その時、ふいに蜘蛛の身体が動いたのを感じて目を開けた。

 自分を抱く蜘蛛の視線の先に、小さな金色の蜘蛛がたたずんでいた。

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