EP08-02





 南天を統べる太陽の輝きをブラインドの隙間から覗く。昨晩の出来事の何もかもが夢であったかのように、白昼の光に満ち満ちた外界はあるがままの姿で広がっていた。


 焼け焦げた木々や焦土と化した草原くさはらも、広大な風景と照らし合わせてみれば誤差の範疇でしかない。アンやナギさんが体内に抱えた揺らぎエラーのほうがずっと、ずっとずっと深刻な問題なのだと思い知って胸が締めつけられた。


「……赤潮プランクトンの、干渉?」


 物知り顔を浮かべるテラの言葉を、間の抜けた声で反芻する。円卓と表現するには少しだけ頼りないテーブルを挟んで、不敵な笑みを湛える彼が首肯した。私の右手には、まだ青白い顔をしたクレアが気怠げに腰かけている。私とクレアは、ホムラが目を覚ました直後に気を失うようにして眠ってしまったのだった。


「そう、あの火吹き虫たちが襲来する数分前に、俺の固定端末ターミナルが赤潮の発生を検知したんだ。赤い電極レッドノイズとも呼称されるそれは、大海の潜在意識アーカーシャを書き換えることさえ可能な世界の禁忌なのさ」


 突如として始まった荒唐無稽なおとぎ話フェアリーテイルの意味が分からず、となりのクレアに助けを求める。クレアはサヨさんから支給された鉄剤キャンディをぼりぼりと噛み砕きながら、やれやれといった仕草で解説を始めた。


「今や現代人の生活に欠かせなくなった電極エーテルの運用履歴を、三色の色分けで記した膨大な過去ログが存在する。その名を"電極の走り書きエーテルノイズ"──平たく言っちまえば、世界日誌みたいなもんだ」

「……う、うん?」

「人々が使用する電極エーテルの周波帯域は、それぞれの用途によって明確に分けられているからな。一般居住区をブルー。政府機関をイエロー。工学関連施設をグリーンの濃淡で表すことによって、世界の足取りを俯瞰的に読み解くことができるってわけだ」


 素っ気ない口調で私のほうを見ようともしないクレアは、私を敬遠しているようでさえあった。最初から説明する気がないとまでは言わないけれど、言葉の端々に小さな棘を覗かせている。


「うーん。要するに、赤色の電極エーテルが観測されるなんて普通ならありえないってことね。ホムラが負傷して取り乱した自分の姿を見られるよりも、あってはならないことだと」

「は、はぁっ?」


 私の指摘が図星を指したらしく、クレアは奇声を上げて顔を赤らめた。これは物珍しいものを見せてもらったとばかりに、テラの顔がにやつく。


「いいか? 昨日見たものはすべて忘れろ。俺はいつだって平静で冷血だ。いついかなる時も、冷静沈着フリジディティーそのものだ」

「なにそれ。私を笑い死にさせたいとしか思えない」


 私もテラも、ひどく動揺するクレアを生暖かい目で眺めた。こんなやり取りができるのも、ホムラが一命を取り留めてくれたからこそだ。それでもホムラの苦痛とこの先の困難を思うと、すぐに陰鬱な気持ちに引き戻される。


「まぁとにかく、エリカの解釈で間違ってないよ。突発的に起きた赤潮プランクトンの干渉によって、広報用球体型全面液晶イクリプスビジョンが一時的に無効化されていたと考えるのが自然だ。間接的に、飛翔物たちの侵攻をアシストした存在がいる」


 滑らかな語勢でテラが仕切り直した。つまりはそれが、ナギさんだと言いたいのだろうか。天才の上位互換ニア・シンギュラリティである彼女が、何らかの目的を持って裏で手を引いていると。


「神奈木はシロだ。少なくとも、ハエ共が襲来したこの一件についてはな」


 口惜しそうに断言したのは、意外にもクレアだった。テーブルに身を乗り出してテラが便乗する。


「クレアと同じ意見だね。そもそも俺が神奈木博士ディア・ジニアスの立場にいて、T-6011の亡骸を葬りたいのだとしたら、アルフレッド・ノーベルの遺産でこの研究所ラボごとドカンだ」


 テラの言い分は至極単純なようでいて、実のところごもっともだった。彼は得意げに続ける。


「クレアも知っているとおり、神奈木博士ディア・ジニアス裁断された世界ナンバリングを無効化する際、敵対的摂動APサンプルを空間に展開する。広報用球体型全面液晶イクリプスビジョンの目を晦ますにあたって、これ以上に効果的で効率的な手段は他にないさ」


 APサンプル。聞き慣れない言葉に戸惑いながらも、、という部分については感覚で理解できた。アンは再現階層レイヤーを用いた拡張空間オーグメントを、空間座標上で展開する。その原理を、私は頭に思い浮かべてみる。


「……世界を構成する情報クォークやレプトン複製コピーするのか、誤認させるのかの違い?」


 思わず独りごちてしまった私の声に、テラとクレアが目を瞠った。


「なぁお姫様チャーミィ。一度じっくり訊いてみたかったんだが、お前が俺とホムラを盗み見ていた時、お前は風景模写ヴィネットに似た機能に頼っていた。そうだな?」

「うん。それって最初に会った時にホムラが言ってたやつだよね。私はあなたたちの目的のひとつが、工学技術泥棒テクノロジーハントなんだろうって踏んでた」


 少しだけ考える素振りを見せたクレアを、テラがじっと見つめている。


「"世界を構成する情報クォークやレプトン複製コピーする"と、今お前は何でもないことのように言った。エリカ、お前が利用していた風景模写ヴィネット再現性クオリティはどの程度だ」


 やたらと怖い顔で問いかけるクレアの剣幕に、心騒ぎを覚えずにはいられなかった。けれど私は、思うままを答える。アンの高性能ハイスペックは、今さら疑いようもない。その点について、やましいことなどひとつもないのだから。


「たしかに風景模写お絵描きだけどね、天才ダ・ヴィンチのお絵かきは原子論哲学デモクリトスの領域なの。エリア096の支配者、琥珀色の脳アンバー──私がアンって呼んでいる彼は、巨大な論理回路サーキットを使った極限計算エミュレートによって、並行世界パラレルワールドを導き出せる」


 意図せぬ沈黙が場を包んだ。クレアはともかくとして、多弁が取り柄のテラまでもが黙り込んでしまう。


「……簡単には信じられない感じ? それとも私には到底理解できない理論で、赤潮を引き起こしたのがアンだって断定したわけ?」


 二人へと問いかける声の中に、押し殺せなかった苛立ちが滲んでいた。顔を背けて目を閉じれば、焼け爛れたホムラの左腕が脳裏に浮かぶ。事の元凶がアンである可能性を、今までだって一度も考えなかったわけじゃない。


 だけどそれでも、その事実が確定してしまったら。


 足元が揺らぐような感覚があった。草むらに伏せて状況を見守っているだけだった私は、自らの責任を軽く見積もり過ぎているのかもしれない。


 自責の念なら、もちろんある。

 けれど──。


「エリカ。馬鹿なことは考えるな」


 クレアが私の腕を引き、真剣な眼差しで私を覗き込んだ。彼女の手を反射的に振り払おうとした私の口に、無理やり鉄剤キャンディが捻じ込まれる。そしてクレアは、口元を塞いだ手をそのまま離さなかった。ふがふがと抗議の声を上げる私。クレアの目配せを合図に、テラが口を開く。


赤い電極レッドノイズを放った最重要容疑者はね、沓琉くつるトーマという名の狂人だった。108つのジレンマを作り出した張本人は、今までに何度も同じ手口で大海の潜在意識アーカーシャを改変してるんだ」


 テラが語って聞かせたのは、先ほどの荒唐無稽なおとぎ話フェアリーテイルの続きだった。輻輳する大海原ワールドウェブに漂うすべての記録や事象が、狂人の掌の内にあるなどといった幻想にして妄想──。


「エリカ。君はもう今さら、俺の話が妄想だと断言できるのかい?」


 テラが雄弁に問いかけた。私が力なく首を横に振ると、クレアはやっと私を解放する。舌の上の鉄剤キャンティを転がしてみれば、甘さと鉄の味が混ざり合ったケミカルな味わいが口中を満たした。


「酷な話だけどね、最重要容疑者を更新するしかない。おそらく君の親愛なる琥珀色の脳ダ・ヴィンチは、沓琉トーマや神奈木博士ディア・ジニアスに等しい能力を持っている」


 私はもう一度、無言のままに首を振った。

 アンの能力がどうかなんて関係ない。


 私の知る彼はポンコツで、どこまでもポンコツで仕方のない育ての親でしかなかった。




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