第15話 『忘れていたレジェンド並木』




「並木知らんなぁー」と云う若い人には、「あのバックスクリーン3連発、日本一になった時の打撃コーチや」というと、「ああ、そうでしたか」と答える。


並木輝男、日大三高在学時は投手として活躍。エース、四番打者として、1955年夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが坂出商に大敗を喫する。翌年の春の選抜にも出場し準々決勝に進出するが敗退。高校野球の並木は知らない。


1957年3月30日の対中日戦に先発出場。いきなりツーベースを打ったような記憶がある。デビユーとしては鮮烈であった。これは、セ・リーグ史上初の高卒新人として開幕戦先発出場であった。ルーキーながら98試合に出場、打率.250、8本塁打、32打点を記録した。同年に記録した高卒新人での8本塁打は1993年に松井秀喜(巨人)が11本塁打を記録するまでセ・リーグ史上最多記録であった。


入団当時は内野手だったが強肩俊足を評価され、開幕前に外野手に転向。


1960年には三番打者、中堅手に定着し、オールスターゲームにも出場。初の規定打席に達し、自己最高の打率.306(リーグ4位)という成績を残す。同年のベストナインも獲得した。1962年、1964年の2度のリーグ優勝に貢献。並木、遠井、鉄仮面藤井と左トリオのクリンアップであった。


1966年オフにチームは若返りの方針をとり、並木は自由契約とされ東京オリオンズに移籍。若返りと云っても高卒で9年目、10年目のボーナス払うの嫌がったのかな?翌1967年のキャンプで右足アキレス腱を切断し、68年限りで引退した。


引退後は1969年に神戸三宮でクラブ「並木」やステーキ店を経営。 その傍ら読売テレビ・サンテレビで野球解説者を務めた。1985年、古巣・阪神の一軍打撃コーチに就任。一塁ベースコーチも担当し、21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一に貢献。大人の対応で、選手個々に応じた指導がチームの打力爆発のきっかけとなり、イッキ攻撃の影の仕掛け人であった。1987年オフに退団。その後はサンテレビの解説者に復帰したが、1988年9月1日、突然脳出血に襲われ急逝。49歳没。


記録としては、60年盗塁23.二塁打は31でリーグ1位。当時長打力がなかったチームにあって63年本塁打16本は貴重であった。生涯打率は. 255

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哀しきタイガース(選手編) 北風 嵐 @masaru2355

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