第39話 夜は明けて

 時田翠子はベッドで仰向けに寝ていた。唇が咀嚼そしゃくするような動きを見せる。瞬く間に表情が緩んだ。

「……トン、カ、ツ……メンチ、カツ……コンカツ……う、うう……」

 寝言の最後の単語が引き金となって苦しげな表情に変わる。子供が嫌がるような仕草で顔を左右に振った。首の付け根がグキッと鳴って目覚めた。

 瞬間、掛布団が吹き飛ぶ勢いで上体を起こす。ショートの髪を振り乱して周囲に目をやる。

 自宅のマンションの一室は仄明るい。カーテンの合わせ目から光が漏れていた。雀の囀りも聞こえる。

 ベッドと並行して敷かれた布団には時田赤子が横向きの姿勢でいた。光を失った黒目で翠子をじっと見詰めている。

「赤ちゃん、無事だったんだね!」

「姉様のおかげなのです」

「そうだ、玉藻はどうなった?」

「相当な傷を負っているようなのです。絶命の可能性もあるらしいのです。全て姉様が鬼神おにがみとなって戦ってくれた、おかげなのです……」

 赤子はねたように口を尖らせる。白い頬が力むようにほんのりと色付いてきた。

「その~、鬼神ってなに? お姉ちゃんはよく覚えてないんだけど、誰かが助けてくれたんじゃないのかな」

「絶対に姉様なのです。父様ととさまが見て話してくれたのです」

 赤子は寝返りを打った。翠子の言葉を拒絶するように背中を向ける。

「あの場にお父様がいた? それはないでしょ~。だって閉鎖された空間なのよ。あ、もしかして、あのヘンな虎柄ワンピースが、お父様に適当な報告をして赤ちゃんが勘違いしたのかもよ」

「隠しても無駄なのです」

 背を向けたまま、赤子は強い調子で返す。掛布団から少し出た肩が戦慄わななく。

「そうは言っても、お姉ちゃんにはなんのことなのか」

「……姉御、おはようございます」

 取り繕ったような笑みで仙石竜司が部屋に入ってきた。白い特攻服は通常と同じで透けていた。

「おはよう。あんたも赤ちゃんに説明してよ。あの虎柄が適当なことを言ったみたいで、なんか誤解されて本当に困るわ」

「その件なのですが、あの姿は仮初かりそめであって……正体は酒呑童子でした」

「それってお父様なんだけど。あんたに話したことは、確か無かったよね?」

「無いので驚きました。それと、あそこまで姉御が凄いとは。全国制覇どころか、世界制覇を狙えると思いましたよ」

 赤子はくるりと回った。怒った顔を隠そうともしない。暗黒の目を翠子に向ける。

「そ、そうなんだ。知らなかったな~、お父様が化けられるなんて。あー、そう言えば前に出会った老婆の生首が、そんなことを口走っていたような……全然、気付かなかったよ。傑作だね、あははは」

「笑えないのです。赤子の跡目計画が木端微塵なのです」

「えっと、ほら、赤ちゃんは頑張り屋さんだからなんとかなるよ」

「頑張り過ぎて過労死するのです。天と地の差を努力で埋められるのなら世の中に天才はいないのです」

 赤子は上下の唇を開いた。無表情で歯をガチガチと鳴らす。竜司は慰めの言葉が思い浮かばないのか。困ったように笑った。

「ま、まあ、取り敢えず、朝ごはんにしようよ。お姉ちゃん、お腹がペコペコなんだよね」

「この傷心の赤子に頼むのですか」

「ほら、気が紛れるし、お腹が膨れたら元気になるかもよ。赤ちゃんの料理はとても美味しいし……ダメかな」

 翠子は手を合わせて頼み込む。媚を売るような態度に赤子は無言で接して起き上がる。無表情で手早く布団を畳み、押し入れに突っ込んだ。

 立て掛けていたテーブルを出して台拭きで拭いた。キッチンで戸棚を漁り、包装を破るような音がした。ほとんど待たせることなく、滑るような足取りで戻ってきた。

「これが朝ごはん?」

 パジャマ姿の翠子はベッドから這い出し、定位置に座った。目の前には筒状の容器が置かれ、蓋が捲れ上がらないように箸が載せられていた。対面の赤子はテーブルの上に頬を引っ付けて生気のない姿となった。

「お姉ちゃんは手料理が出るのかと思ったんだけど」

「先人の発明を侮ってはいけないのです。お湯を注ぐだけで完成する総合栄養食には数百年の英知が秘められているのです。発売された後も味と品質の改良が日々、行われて今日こんにちの過当競争とも言える食品業界の荒波の中を立派に生き残ってきたのです。その偉大な功績を見た目の陳腐さだけで判断するのはあまりにも早計と」

「あ、ごめん。麺が伸びるから食べるね」

 翠子に止められた赤子は無表情で歯をガチガチと鳴らした。

 ズルズルと麺を啜る。丸っこい肉の塊を箸で摘まみ、口に入れた。

「なんか美味しく感じる」

「世界を崩壊させたのです。なにを食べても美味しく感じるものなのです」

「それ、よく覚えてないんだけど。あと、どうやって戻って来たのかな」

 何気ない一言に赤子の頭がプルプルと震え出す。近くにいた竜司が素早く翠子の側にいく。

「空間を繋げたのは姉御の父親ですが、ここまで運んできたのは妹さんです。激しい戦いで汚れた身体を丁寧に洗って着替えさせて、あ、想像ですよ。俺は何も見ていませんから」

「そうなんだ。赤ちゃん、ありがとう」

「赤子も姉様に助けて貰ったのです」

 口を尖らせて目を逸らす。頭の震えは収まっていた。

 翠子は微笑み、豪快に麺を啜った。残りの汁を一気飲みして容器をテーブルに置くと表情が一変した。

「玉藻の懸賞金の2600万は!?」

「俺に聞かれても」

「生け捕りに出来なかったのです。生死を確定させる証拠もないのです。懸賞金は出ないのです」

 テーブルから頬を引き剥がし、赤子は姿勢を正した。

「姉様はどうして懸賞金の額を知っているのです」

「あ、カンなんだけど。もしかして当たった?」

「……姉様には秘密が一杯なのです」

「そんなことはないと思うよ。今回の鬼神だっけ。あれも無我夢中でよく覚えてないし、意識して出来るもんじゃないから実力とも言えないよね」

 一瞬、赤子の表情が明るくなった。

「そうであっても父様に見られてしまったのです」

 自身の言葉で即座に項垂れる。翠子は精一杯の笑顔を見せた。

「お父様も火事場の馬鹿力と思ってくれるかもよ。あんたもそう思うよね」

「そうかもしれないですが、どうでしょう」

 竜司はぎこちない笑みを返した。

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