第12話「Pretender」


 世界に色が無かった頃、ぼくはすぐに死んだ方がいいと、本気で思っていた。でもその頃の記憶は、色がないぶん、ほんとうに淡い。



 大切なものたちを、いくつも失った。



 19歳のとき、1年間付き合っていた同い年の彩美が、忽然と行方を晦ました。それが発端だった。最初のうちは、高校を卒業してから別に好きな人ができたんだ、と思っていた。けれど、事実はもっと残酷だった。行方不明になってからひと月後に、彼女が死んでいたことが明かされたのだ。


 ぼくは葬儀に呼ばれなかったけれど、きっと彼女の母親はぼくを慮って——しかし、それを隠しきれなかったのだろう——彼女が死んだという事実とともに、ぼく宛の遺書を渡した。「こうして生き続けることが耐えられなくなってしまった」。要約すればそういう旨だった。


 ぼくだって、生き続けていることがほんとうに苦しかった。父母から押しつけられた期待を背負って、休まる間も無く勉強を重ね、怒鳴られながら小遣いを稼ぎ、歯を食いしばって生きてきた。苦しいときにあって、彼女こそが、ぼくを辛うじて生きているという状態に繋留している綱のような存在だった。でも、それに甘え過ぎてしまったから、最悪の事態を招いてしまった。


 大切な存在がもうここにはいないという絶望。もういないという状態をぼく自身が築いていたという罪悪。モノクロームの世界は、さらに弱々しい輪郭でかたどられる。ぼくを死のうという気にさせるには十分な条件が揃った。


 誰にも悟られぬよう、ひっそりと睡眠薬を買い占めた。かつて、手首にカッターナイフを当てがったり、ビルの屋上から身を乗り出したりして、自殺の真似事をしたことはあった。だが今回ばかりは、心臓の鼓動が強く波打つことはなかった。もう死ぬ、と決めた以上は、決してその心は揺らがなかったから。


 自室のベッドの上で、三瓶ほどの錠剤を迷うことなくすべて口に放り込み、ペットボトルの水を呷った。それでぼくは死ぬはずだった。







 長い眠りだったのか、それとも一瞬意識が飛んだのか、分からなかった。

 目覚めると、そこは変わらずベッドの上だった。真っ暗な部屋。消し忘れた豆電球が、幽かにオレンジ色の光を投げかけている。床の上には、蓋の開いた薬瓶が3つ、転がっている。


 そのときはじめて、激しい寒気に襲われた。失敗した! そう思わざるを得ない状況がぼくを一層怖がらせた。呼吸が荒くなり、動悸が燃えるように胸部を躍らせた。逃げなくては。でもどこへ? こんな無様なぼくを匿ってくれる誰かがいる?


 こめかみから冷や汗が滴る。その時だった。

「ハルキ」


 背後から、弱々しく、ぼくを呼ぶ声があった。聞き覚えのある声。長い間聞くことのできなかった声。すぐに分かった。


「彩美……」


 ゆっくりと振り返る。そこには、虚な目でこちらを見つめる、真っ白なワンピースを着た彩美がいた。


「彩美」


 すぐさまベッドを飛び降り、彼女の両腕を、その透き通るほど白い、細い腕を、しっかりと掴んだ。


「ハルキ、ごめんね」


 彩美はそう言って、今までぼくの前で見せたことのない涙をぽろぽろと落とした。ぼくもその時、感情を抑制できず泣いていた。


 それ以上彼女に何かを言わせる必要はなかった。彼女の唇に、強く自らを押し当てた。冷たい両手が、ぼくの背中を包み込んだ。冷たいけれど、たしかにぼくは彩美の温もりを感じた。そこに確かに感触があるということを。


 揺るぎない、彼女の感触。しかしそれは氷のように、少しずつ溶解していった。ぼくの意識とともに。






 ぼくの世界は、それを契機に大きく変わることとなった。






 父も母も、ぼくの「未遂」を、「無かったこと」にしたらしい。そうとしか思えない。2度目に目覚めると、ベッドには彩美も、薬瓶も、残されていなかったからだった。


 ぼくは、普通の生活に引き戻された。でも、そこから少しだけ変わったことがある。


 ひとつは、世界が色づいたこと。あれだけ熱心にぼくに努力するよう要求していた両親は、口数が減り、あんたのしたいことをしなさい、と言ってくれるようになった。バイトも辞めた。今のうちは貯金があるから、と、母親から月10万ほどの小遣いをもらえるようになったからだ。


 それでぼくには余裕が生まれたのだろう、なんだか、毎日、生きていることに感謝できるようになった。世界に色がついて、街で遊んだり、美味しい料理を食べたりすることが楽しくなった。


 でも、それが心から楽しいと思えるようになったのには、もうひとつ、要因がある。


 ぼくは、誰にも内緒で、彩美が生きているふりをすることにしたのだ。彩美はもうここにはいない。けれどぼくの心の中には確かに生きている。それがだんだん、ぼくの前にくっきりとした形で見えるようになってきた。


 彩美と手を繋いで街路を歩くふりをしたり、寝る前に隣にいる彩美の頭を撫でるふりをしたり。そうしたことを積み重ねると、ほんとうに彩美がまだここにいるような気がしてくる。いや、すでに実像としてここに存在している。それどころか、彩美はどんどん理想的なぼくの恋人になっていく。


 月日が経つにつれ、彩美がいるふりをしているのではなく、彩美が蘇ったようにも、ぼくには感じられた。ぼくはこんなに幸せでいいのだろうか、どこかでバチが当たらないだろうか、と思うこともあった。





 だが、転機は意外な形で、ぼくの前に現れることになる。








 初秋だった。あの時から、半年ぐらいが過ぎた頃だろうか。


 3人で夕食を終えた後、父と母が「話がある」と言って、自室に戻ろうとしたぼくを引き留めた。少し怖かった。彩美がいることを悟ったのではなかろうかと、勘ぐった。


「話って、なに?」


 やや間があって、母が口火を切った。


「ハルキ、あんたはまだ、生きていたいと思う?」


 思いがけない質問に、ぼくの視界の映像は一瞬停止した。そして、3つの薬瓶の残像が脳裏をかすめた。が、すぐに、


「もちろんだよ、生きたいに決まっているじゃないか」


 と返答した。


「あんたは——」


 母は強張った表情を崩さない。



「いちおう、知っとくんだ。あんたは、あの時死んだんだよ」



 ぼくは、目を瞬かせて、そして深呼吸を繰り返した。なんのことだ、死んだっていうのは。


 唇を横一文字に結んだ父の隣で、母は半ば矢継ぎ早に、まくし立てるように語った。


「あの夜、あんたは睡眠薬を飲んで、死んでしまった。病院に運ばれたけど遅かったんだ。それですぐ葬儀になった」


「待ってくれ。ぼくはいまここに、確かに生きてるじゃないか」


「そうじゃないんだよ。父さんと母さんはね、あんたに、まだ生きてほしかったんだよ。まだあんたに居てほしかったんだよ。だから、あんたを生きていることにしたんだ」


「生きている、ことに?」


「あんたはね、あんたじゃないんだよ。母さんだけじゃない。あんたに関わるすべての人にお願いしに行ったんだよ。頼むから、ハルキが生きているふりをしてくれ、って。そうすれば事実上、ハルキは生きていることになって、存在が認められるから」


 母は息を荒げて、語り続ける。ぼくはただ茫然として、その話を聞いた。


「いいかい、こうして、あんたは生きていることになった。そしてこうして話もできる。あんたがこれからさき生きていくなら、きっとね、生きているふりをしていることの不便さを感じることもある。だから知っておいてほしかったんだ、そのことを」


 グラスに入った水を一気に飲み干して、母はいちど深呼吸した。


「これから先も生きるかい、ハルキ」


 精悍な眼差しをぼくに向ける母。


「……そういうこと、だったんだ」


 母はゆっくりと首を縦に振った。やや間があって、ぼくは覚悟を決めた。


「当たり前だ、母さん。ぼくはもう、前のぼくじゃない」


 ぼくは、右手を母に差し伸べた。母はもういちど頷くと、同じように右手を近づけた。ふたつの手が交わる。が、それがしかと結ばれることはなかった。ぼくの右手は半透過して、母の手をすり抜けたからだった。





 もう命がない。でもそれは決して不幸なことではないと、ぼくはおもう。


 生きているふりをするのは、確かに身勝手かもしれないけれど、これが、ぼくの一生に射し込む一筋の光であるならば、これ以上の僥倖はない。


 自室のドアを開けると、そこには彼女がいる。


「ハルキ、おかえり」


「ただいま。待たせちゃったね」


 黒くて艶々した髪。乳白色の柔らかな肌。青と白の花柄が入ったワンピース。世界でいちばん大切な、ぼくの恋人だ。


 いつこの幸せが途絶えるかはわからない。回り続ける世界は、回っているふりをしているだけで、突然暗黒に包まれるのかもしれない。でも、それでいい。


 彩美は両手を広げて、ぼくにサインを送っている。彼女を抱きすくめ、お互いに笑った。彼女の体温で、心まで暖かくなる。ぼくはまだ、「心」というものが存在することを、大切にしようと思う。


「ね、ハルキ」


「どうしたの?」


「さっき、なにか話してた? お母さんと」


 ぼくは、少し返答に迷ったけれど、すぐこう言った。


「ぼくは、いや——ぼくたちは、ちゃんと生きていくよって」


 彩美は、ぼくに回した手にぎゅっと力を込めた。泣き顔を隠しているようにも見えたが、詮索する必要はなかった。そして、ひそやかな声で言った。


「わたしも、ずっとハルキと一緒にいるよ。あの時、ハルキはわたしを、助けてくれたから」


 彼女の温もりが冷めないよう、いつまでもぼくと彼女の物語が終わらぬよう、きつく彼女をいだいた。

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