忘却曲線 弟×姉

「ねえさん」

背後から声がかかる。振り向くと、居間の戸口に肩をもたれさせて弟の瑞穂が私を見ていた。

「ねえ、おれのミュージックプレーヤー知らない?」

首を横に振る私へ、そっか、と彼は少し眉を下げた。困ったような顔だ。屈託無く情けない顔ができる瑞穂は、高校に上がってもまだ可愛い少年という印象が抜けない。いつからか男性恐怖症気味になった私にとっては、緊張しなくてもいい弟の存在はありがたかった。

居間をぐるぐるしていた瑞穂は、しばらくして諦めをつけ、私にも捜索を依頼する。

「見つけたらすぐに教えて、ねえさん。今日、おれまだ聴けてないんだ」

どうやら私の弟には毎日聴きたい曲があるらしい。にわかに興味が頭をもたげた。うんうんわかったと首肯しつつ、見つけたら少し聴いてみてもいいだろうかと考える。

まだ家の中を探してみるつもりのようで、居間から出ようとした彼がふと足を止めた。私のそばまでやってきて、放置していた空のジュースパックを手に取る。

「これ、捨てとく」

そして、返事も待たずにすたすた去っていく。彼は男子高校生にしては綺麗好きだった。しばらくソファでだらけてから、用事を思い出して私も立ち上がった。


瑞穂のミュージックプレーヤーは冷蔵庫の中にあった。どうしてだ。彼は朝にすこぶる弱いので、たぶん寝ぼけてでもいたんだろう。

イヤホンを巻かれたままキンキンに冷えた電子機器を手にとって矯めつ眇めつしていると、視界の端に大きな影が映って、身体が跳ねる。

「あ……ごめん。でも冷蔵庫は閉めろよ?」

影の正体は兄だった。彼は謝りながら冷蔵庫の扉を閉めて、それから私の手のミュージックプレーヤーに気づく。それ瑞穂の? という質問に頷いて返す。

「瑞穂、部屋にいたと思うけど。俺が渡しておこうか?」

兄は優しい。なのに少し緊張してしまうのは、彼の体格がしっかりしているからだろうか。

兄の申し出は遠慮させてもらった。断った理由は特になく、ただ兄に頼む必要性も感じなかったから。

瑞穂の部屋へ向かいつつ、気になってプレーヤーを起動した。想像と違って画面に曲名は一つも表示されず、ただずらりと年月日が並んでいた。

これは何だろう? とっさにイヤホンを片耳に嵌め、一番上の一つを選択する。五年前の日付だった。瑞穂の部屋の前まで来て、勝手に足が止まってしまった。

再生ボタンを押すと、途端弾けるような少女の笑い声が流れ出す。

『瑞穂! ほら、ロウソク消して!』

応えるように、ふー、と風の音、次いで歓声。十歳おめでとう、と口々に祝う言葉たち。

私はこの少女の声を知っていた。それだけじゃなく、他の人たちの声も、全て。両親、兄、弟、それから私。それは五年前の、瑞穂の誕生日会の音声だった。

ただ混乱する私の手を、ミュージックプレーヤーごと誰かが掴んだ。誰か、じゃない。瑞穂の手。

部屋の前で止んだ足音を訝しんだのだろう。彼が扉を開けたことにも、私は気づかなかったのだ。

「……ねえさん」

疲れたように、諦めたように、弟が私を呼んだ。

扉の隙間から、彼が捨てたはずのジュースパックが丁寧に畳まれているのが見えた。


姉の深月はぼやぼやしていて、その上やたらと気が長いので、何時間でも人を待つことができた。

五年前、おれの誕生日の翌日、おれは姉と二人で買い物に行くことになっていた。何か買ってあげると姉がだいぶゴネて、気がつけば二人で出かける約束を取り付けられていたのだ。

その約束をおれは忘れた。

付近で不審者の目撃情報が相次いでいた日だった。その夜、姉は家に帰ってこなかった。次の日警察に保護された時には、彼女は男性恐怖症と失声症、軽度の記憶障害を発症していた。前の晩の記憶を、全て失っているらしい。けれど、たとえ彼女が覚えていなくとも、何が起きたのかは明白だった。

きっと、おれが死ぬ間際に真っ先に思い出すのは、この時の姉の姿だ。

きょとんと見開いた目元は赤く腫れて、まだ涙の筋が残っていた。顔にも身体にも、節操なく青黒い痣が散る。実の父や兄相手にびくりと怯み、そんな自分の反応に戸惑っているようだった。ゆるく結ばれた唇から言葉が発されることはこの時からついぞなくなった。

そしておれは姉に関することを忘れるのが怖くなった。彼女が飲んだジュースの味も、使ったペンの色も、割り箸の割れ方すら。忘れると何か恐ろしいことが起こる気がした。だからできる限りで収集して、保管した。

それでも声だけはだめだった。姉は今もって話せないので当たり前だ。日々思い出せなくなる声に、気が狂いそうでたまらない。だから自分のミュージックプレーヤーに過去の動画の音声を入れていた。それだけの話だ。

姉は片耳にイヤホンをつけたまま、いつかと同じきょとんとした表情でおれを見上げていた。父や兄のように、この人に怯えられたくなくて、必死に可愛い弟を演じていたのに。

彼女の目に映ったおれは絶望を固めたみたいな顔をしていて、笑えた。


「声、を……忘れたくなかったんだ」

掠れた声で、低く瑞穂は言った。

「聞いてる時だけ、落ち着けた。……だから」

明るい廊下の中、見つめた瞳だけが深海の鮫のようにぽっかりと黒い。光のない場所で、長い時を生きていた目だ。

倒れるのに近い動作で、瑞穂は私を抱きすくめる。身体の芯が震えた。人の体温が、私には少しこわい。どうしてだろう。

でも、ねえさん、と瑞穂が呼ぶから。怯んで跳ねる心臓を胸の奥に隠し、私は彼を抱き返した。

本当に久しぶりに、何かを喋ってみたくなった。けれどもう私は、声の出し方をすっかり忘れてしまっていた。

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