そのよん
その次の日も、朝一番、開店と同時に布団屋に行った。杉ちゃんが支払いに不安があるのはよく知っていたから、蘭もついていった。
「どうせなら、シルクの布団カバーがいいよ。寝心地もいいだろ。白はなんだか、経帷子みたいだから、やめておく。」
と言って、杉三は、一枚の布団カバーを売り台から取った。
「いや、僕は洗える素材のほうがいいと思うな。だって、そのほうが、また汚した時に、洗ってやれるじゃないか。」
と、蘭がそれを止める。
「そうか、そういうこともあるなあ。でも、僕は、化学繊維というものは正直、好きじゃないんでね。どうせなら、それでは綿とか麻とか、そういうものにするか。」
それでは、と蘭は一枚の生成り色の布団カバーをとった。
「こっちにしてやれ。少し高いが、僕が少し出すから。」
と、言った。
「おう、そうしよう。じゃあ、支払ってくるわ。」
「多分きっと、杉ちゃんの金では足りないかもしれない。だから今日は僕が買うから、杉ちゃんは待っててくれ。」
蘭は、財布の中から、クレジットカードを取り出した。
「はあ、そんな通行手形みたいなものもって何になるんだ?」
杉さんはクレジットカードを持っていなかった。サインすることが出来ないためである。
「いや、単に支払いを延期しろというカードだよ。」
蘭はそういう解説をした。杉ちゃんはそうかとしか言わなかったので、まず良かったなととりあえず思う。もし、納得するまで聞かれたら、クレジットカードについて、長々と説明しなければならない。そんなことしていたら、時間の無駄になってしまう。
二人はレジへ行って、値段を聞くと、一万円と表示された。税金と合わせて、一万八百円。確かに現金でここまでの買い物をする人は少ないので、蘭のカード支払いで、調度良い所だった。
「よし、これを水穂さんとこ持ってくわ。多分汚い布団で寝るのは嫌だと思うから、喜ぶぞ。じゃあタクシー呼んでくれ。僕は、昨日買った寝間着と、この布団カバーを持っていく。」
持っていた風呂敷包みを指差して杉三が言った。蘭は黙って、タクシー会社の番号をダイヤルしてやる。当たり前のように電話を受け取って、タクシー一台お願いねと、話している杉ちゃん。本当は、僕がこれだけしてやったんだから、お礼くらいしてくれと言いたいが、何故か今回蘭はそんな気持ちにはならなかった。それはそれで良かったのだろうか。
「じゃ、ありがとな。十分くらい待つけれど、タクシー来るってさ。僕はこのまま製鉄所に行くからよろしくね。」
なんだ、ありがとうって言えるのか。でも、この発言が出てくるのは、月に一度か二度くらいだと蘭は知っている。杉ちゃんにはお礼なんて期待してはいけない。
「しかし蘭。今日、お前さんはちょっと変だったぞ。」
杉三は笑いながら言った。
「なんでた?」
蘭が聞くと、
「だってあの時、布団カバーを、こっちにしろと言ったでしょ。今までお前さんが、僕の買い物に指示を出したことは、あったかなあ。」
「ええ?気にしないでくれよ。僕はただ、シルクより、こっちのほうが、洗濯に強いから、いいんじゃないかって思っただけだよ。」
蘭は何食わぬ顔をして、杉三に言った。
「ふーん。それだけの思いで、お前さんがそう言ったのか。それは、笑えるなあ。お前さんは、いつも金がないないで、ケチケチしているはずなんだが?」
「馬鹿なこと言わないでくれる?僕だって、買い物はするさ。」
二人が、そんなことを話していると、白いワンボックスカーがやってきた。前方には、岳南タクシーと書いてある。
「あ、来たきた。じゃあ、このまま製鉄所に行くぜ。水穂さんに、晩ごはんをくれてから帰るから、帰りは多分夜になると思う。そういうことでよろしく。」
杉三の前でタクシーは止まった。大体、水穂の世話係は杉三が勤めていた。時々由紀子が手伝う事もあるが、仕事があるので、世話係の中心選手は、杉三なのである。本当は、自分がその役を貰いたかったが、蘭には無理だと言われていた。その無理な理由も蘭は知らなかったが、昨日、勝代からもらったメールに、こう書かれていたのを思い出す。
「蘭さん、蘭さんのできることは、その人がお金の勘定ができないとか、そういう事情がある人なんでしょう?だったらそっちのことをしてあげればいいのよ。あたしだって主人の世話ぐらいできたらしたいけどね、でも、それは無理だから、病院に預けて、やってもらっているのよ。病院では専門的な知識を持った人がいるから、素人のあたしたちが、何かしでかして怪我でもさせたら困るじゃない。それと同じだと思って、そういうことは、杉ちゃんに任せなさい。でも、杉ちゃんには、お金の勘定ができないんだから、それを補助してあげれば、水穂さんの世話にあなたも関わっていることになれるわ。」
そうか、そういう見方もあったか。蘭は、そうかそうか、と、やっと嬉しい気持ちになる。一人だけ、どこかから外されてしまっているような、つらい気持ちだったからだ。勝代が送ってくれたこのメールは、間違いなく、蘭の心に活気を与えている。杉ちゃんも、妻のアリスも、偉い人たちも、誰も教えてくれなかった、蘭が求めていた答えだった。
とにかく、今回は勝代のアドバイスのおかげで、少し楽になれた。それは本当に良かったなあと、蘭は思う。
蘭は、自分も自宅に帰るため、スマートフォンを出した。文字が読めず、何でも電話で済ましていた杉ちゃんとは違い、自分はスマートフォンのアプリでタクシーを呼び出していた。そこも杉ちゃんとは違う、自分にできることであった。
蘭は、正直に言うと、水穂の看病で、自分は何もできないのかと、劣等感を持っていた節がある。杉ちゃんが読み書きできないくせに、看病では重宝されているのが、ある意味くやしかったのだ。でも、勝代さんがあんな風に言ってくれれば、僕はまだまだ価値があるのかと、嬉しい気持ちになれるのだった。
家に帰ると、さっそく勝代にメールを送った。
「勝代さん、昨日は本当にありがとうございました。おかげさまで僕は、ほんの少しだけ、杉ちゃんのやっていることに手を出すことができて、やっと僕も水穂の看病に参加させてもらえることができたように思います。勝代さんがそういってくれたから、僕は、その通りにすることができた。本当に、本当にありがとう。僕はこれからも、もう少し頑張ろうという気持ちになれそうです。」
しかし、勝代の送り返してきたメールは、何か覇気がなかった。
「よかったわね。蘭さん。これからも、水穂さんの看病、頑張ってください。」
それだけしか書かれていなかったのだ。
蘭は、勝代さんに何かあったのかと、心配になった。こないだの借りのこともあり、何とかしてやりたいなと思う。そこで、
「あの、何かありましたか?僕でよければ、お話聞きますよ。この間、僕の事を助けてくださったお礼もあって、今度は、勝代さんのお話を聞きたいと思います。」
という内容のメールを打ったのであった。
「蘭さんにはわかるはずないわ。蘭さんは、きっと奥さんもいて、刺青のお客さんだってたくさんいるでしょうに。」
返信されてきたメールには、こう書いてあった。
「でも、勝代さんのお役に立ちたい。」
蘭は、もう一度メールを打つ。
「勝代さん、あなたは、僕に対して、ただ唯一の適切な答えを言ってくれました。勝代さんは、僕にとって、そうやって答えを出してくれた。それが、今日、どんなに役に立ったか。僕は、そのお礼がしたい。それはいけないのでしょうか?勝代さん、どうか、悩んでいることをおっしゃってください。僕は、勝代さんの役に立ちたいんです。そりゃ、答えを出すことはできないかもしれないですけど、誰かに話せば、きがらくになることは、結構あるでしょう。」
暫く間が開いて、蘭のパソコンが、メールの受信音を鳴らしてくれた時、もうお昼の時間は過ぎていた。
「勝代さん、、、。」
蘭はメールを声に出して読んでみる。
「主人の、具合があんまりよくないんです。それで、姑からこういわれました。勝代さんは、自分のやりたいことばかりやっているから、木田の健康管理もしっかりできていなかったんじゃないかって。そんな自分勝手な嫁を持った覚えはないって。」
まあ確かに、大変なことになれば、そういう発言も飛び出してくるだろう。日本では、一人の人間に何かあった場合、それは本人のせいだけではく、妻や親などのせいにしてしまうのである。どこの家でもそうだ。それに、女が自分の好きなことに打ち込める家庭というのは、大体男のほうが、意志薄弱であるとか、又はその逆でよほどの大金持ちであるとか、そういう特徴がある。
「自分勝手ですか。でも、勝代さんだって、家計に何も関与してなかったわけではないでしょう?」
蘭は、そうメールを送るが、勝代は次のように答えた。
「まあ、それは確かにそうなんですが、あたしは、なんだか違うような気がするんです。家計にお金を入れていたとしても、うちの年収の半分以上は、夫がやっていましたので。」
蘭は、彼女の悩んでいることに、答えになっているかわからないが、次のように送った。
「でも、勝代さんは勝代さんです。ご主人に年収の一部を担当し手いてもらったとしても、勝代さんとして、活動してはいけないなんて言う、法律はありません。それに、もう、家に縛られる時代ではないと思うし。勝代さんだって、刺青師としてちゃんと芸名もあるんですから、それを忘れずに、生きて行って下さい。」
「そうね。ありがとう。ちょっと楽になれたかもしれない。まあ、主人のことは、お医者さんに任せて、あたしはあたしらしく行きますから。蘭さん、今日は聞いてくださって、ありがとうございました。」
蘭は、今日は良い日だなと思って、昼食を食べることにした。
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