幕間 夢の中

 ザシャとクリスが魔王討伐の旅をしていた頃、体を清潔に保つということは難しいことだった。特に人里離れた場所ともなると、入浴どころか体を拭くことさえままならない。そんなとき、きれいな水をたたえる泉や透明な水が流れる川の存在はとても重要だった。


「沼地ばかりだと思ってたけど、こんなきれいな泉があったんだ」


「往きとは多少道がずれたのが幸いしたな。これは一息つけそうだ」


 魔王の重要な施設を襲撃した帰途に、二人は森の中で澄んだ水をたたえる池を見つけた。


「ザシャ、今日はここで野営しない? 飲み水を補充しておきたいし、水浴びもしたい」


「そうだな。当面は急がなくてもいいから、少し早いけどここに泊まろう」


 親友の賛意を得られたクリスは、嬉しそうに近くの木の幹へ荷物を下ろすと鎧を脱ぎ始めた。その素早い動きにザシャは呆れる。


「野営の準備は後回しかよ」


「ザシャがやっておいて! もう気持ち悪いの我慢できないんだ!」


 あまりに素直な主張にザシャは苦笑した。そして、自分も荷物を置いて野営の道具を取り出していく。水浴びは交代でしないといけないので、準備を急ぐ必要はない。


 裸体になったクリスは嬉しそうに水辺へと入る。筋肉質な男の体つきではあるが、どことなく女みたいにも見えるのは体の線が細いせいだ。


「あんまり奥に行くなよ。深みにはまったら面倒だからな」


「うわっ、冷たい! 気持ちいい!」


 ザシャの忠告などどこ吹く風とクリスは水浴びに夢中となっている。掬った水を腕にかけたり、持っている手拭いを濡らして体を擦ったりしていた。


 野営の準備をしているザシャだが、それほど本格的なものではない。一晩使えればいいだけなので用意は最低限のものに限っている。ただ、今回は水を煮沸するために火を焚く場所を作り、薪を集める必要があった。


「近くで薪を集めてくる。なんかあったら呼んでくれ」


「わかった!」


 小さな手斧を片手にザシャは立ち上がると池のほとりから離れた。


---


 薪拾いが終わり、焚き火を熾した頃、クリスが池から戻ってきた。その表情は明るい。


「さっぱりした! 毎日こうやって水浴びできるといいんだけどなぁ」


「今の俺達には贅沢な話だな。俺は貴族でお前は王子なのに、都市住みの平民以下の生活ときたもんだ。何年か前には想像もしなかったことだよなぁ」


 下着を穿いたクリスが焚き火に当たっている正面で干し肉を炙りながら、ザシャは独りごちる。そして、温かくなったそれをクリスに渡した。


「ザシャも入ってきたら? 気持ちいいよ」


「とりあえずお前が服を着てからだな。あと、水を汲んで火にかけないと」


「そっか。ちょっと待ってて。今着るから」


 もらった干し肉を加えたまま、クリスは荷物の中から新しい服を取り出して着る。その間に、ザシャは小さな鍋を片手に泉へと向かった。


「水筒と水袋の中身は全部飲みきっておいてくれ。沸かした湯が冷めたら入れるから」


「わかった。水筒の方は空っぽだね。水袋の方はあんまり残ってないから、干し肉と一緒に胃袋へ入れちゃおう」


「急がなくていいからな。まだ今から沸かすところだから、何時間も先の話だ」


 泉から戻ってきたザシャが小さな鍋を火にかける。焚き火の先端が鍋底を舐めた。


「ご飯の後に水浴びするの?」


「実は火を熾してから、ちょろちょろと食べてたんだよな。中途半端だが先に入るか」


 物を入れた口を動かすクリスに尋ねられたザシャは、少し迷ってから水浴びを選択した。決断してからは迷いなく体を動かし、最初に鎧を、次に服を脱いだ。


「それじゃ行ってくる。鍋の様子を見ておいてくれ」


「わかった。行ってらっしゃい」


 後のことを任せたザシャは、手拭いひとつを持って泉へと入っていく。


「おお、こりゃ思ったよりも冷たい」


 素足で池に入ったザシャは、そのひんやりとした感触に一瞬体を硬直させた。しかし、凍えるほどではないのでそのまま更に先へと進む。


 水面が膝の辺りまでのところで足を止めると、手拭いを水に濡らす。軽く絞って全身をさっと拭いた。再度濡らすと今度は絞らずにそのまま体を拭く。


「冷たい。が、こんなもんかな」


 水の冷たさに慣れたザシャは、そのまましゃがんで水を頭から被る。肉体的な汚れと精神的な疲れがきれいに洗い流される感触に目を細めた。


 やがてひとしきり体を洗ったザシャは、そのまま水の感触を楽しみながら物思いに耽る。


「しっかし、あいつ、前からあんな女っぽい体だったっけ?」


 何度もクリスと一緒に水浴びをしていたことのあるザシャは、自分の記憶と先ほど見たクリスの体つきが一致していないような気がして首を傾げた。些細なことと言えば些細だが、なぜかとても重要なことに思えてしまう。


「いや待て、なんであいつの体のことを最初に思い浮かべるんだよ」


 ザシャは自分が何を考えているのか気が付いて思わず首を振った。


「ふふふ、興奮したかい?」


「ばかやろう、何言ってんだ」


 すぐ背後から聞こえたクリスの声に返事をしたザシャは、その違和感に気付いて目を見開く。ここは池の中で、クリスは今焚き火の番をしているはずだ。


「あれぇ? どうしてそんなに緊張しているのかなぁ?」


 ザシャが振り向こうとするよりも早く、背後のクリスが背中越しに抱きついてくる。その感触は明らかに裸で、更に柔らかい膨らみがふたつ、背中に押しつけられた。両腕は腹部辺りで回される。


「え!? お前、女!? いや、どうやってこっちまできた!?」


「うふふ、がっちがちじゃないの。一体どうしたのさ」


 耳元に口を寄せたクリスが楽しそうに囁く。言葉の後に唇で優しくついばんできた。


 同時にザシャの体がびくんと跳ねる。


「おい、一体どうなってんだ!?」


「かわいいね。こっちの方はどうなってるのかなぁ?」


 まったくザシャの言葉を意に介さないクリスが、腹部に回していた腕を下へと下げていく。その先は脚の付け根にあるものだ。


「おいこらやめろぉ!」


 そしてザシャは、ソファから転げ落ちて目が覚めた。


---


 最初、ザシャは何がどうなっているのかまったく把握できなかった。しばらくして自分の呼吸が荒いことがわかり、ソファから転げ落ちていることに気付く。


「なんだったんだ、一体」


 夢を見ていたことは憶えているが、それがどんなものだったのかは早くも大半を忘れていた。明確に憶えていることといえば、クリスに背後から抱きしめられていたことくらいだ。あと、そこからとても問題のあることをされた気がする。


「まさか」


 そこまで思い至って、ザシャは自分の股間がどうなっているのか気になった。もし問題があった場合、独力で処理をしなければならない。


 恐る恐る触ってみたザシャだったが、幸い寝る前と変わりなかった。自分の心配事が杞憂に終わってザシャは心底安心する。


「ザシャ、どうしたの?」


「うわっ!?」


 手を元に戻したところで声をかけられたザシャは、驚いて声の方に目を向ける。寝台から起き上がって座っているクリスがこちらに顔を向けていた。


「いや、どうも夢見が悪かったらしくて、今起きたんだ」


「そうなんだ。どんな夢を見てたの?」


「起きた途端に忘れたから憶えてないよ。大したことなかったんだろ」


 幾分緊張しながらも、ザシャは努めて冷静に返答した。


「ふーん。まぁいいや。それじゃお休み。あ、一緒に寝る? もう怖い夢を見なくてすむかもしれないよ?」


「どんな夢かわからんって言っただろ。さっさと寝よう。お休み」


 面白がった様子のクリスに対して、ザシャは少し乱暴に言い切って背を向けた。クリスもそれ以上は何も言わず、横になる。


 今度こそ平穏無事に眠れるように祈りながら、ザシャは目を閉じた。

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