3-5

 綾野先輩との一件から数日、いよいよ夏休みが片手で数えられるほどの日数にまで迫っていた。それに伴い夏の日差しは更に強くなり、市内では私を含め日焼けをしている人が何人か見かけるようになっていた。

 今日も電車に揺られながら、学校へと向かう。隣には、普段と変わらない親友がいて、一緒に通うこの時間が私にとっての日常としてすっかり見慣れた光景になっていた。


「あの、明希ちゃん」


 改札を通り過ぎ、陸橋へと繋がるガラス扉の近くに来たところで、後ろにいた陽奈から呼ばれて足を止める。多くの人が往来するところでもあったので、邪魔にならない隅に寄ってから、改めて振り返って様子を窺っていた。


「どうしたの?」


 何かを言いにくそうに口籠らせ右へ左へと目が泳いでいたが、大きく息を吸うのと合わせてこちらにしっかりと顔を向けていた。


「夏休みに入ってから二週間ほどですけど、クラスの子の紹介でアルバイトをすることにしました。だから、しばらく会えないかもしれないです」


 きっと、陽奈の言ったことは普通ならなんでもないことで、高校生にでもなれば一度は経験することの一つなのだろう。

 今の幼馴染にある積極性は、あらゆる事に対して迷いなく進んでいける長所になっている。それは間違いなかった。


 けれど、私には耳を疑いたくなるようなことだった。


「……何でまた急に?」


 騒つく胸を抑えながら、そのことを悟られないようにゆっくりと尋ねる。

 返事を待つ間、電車の走る音や蝉の鳴き声も全て塞がれ、肌を焼くような暑ささえ感じなくなり、あの時の言葉だけが強く響いていた。

 しかし、陽奈は苦笑するだけで何も答えようとはしない。よく見ると、私の顔を見ながら困惑の表情を浮かべていた。

 そこで、落ち着いて聞こうとしていた態度が返って問い詰めるような形になってしまったことに気づき、慌てて弁明をする。


「べ、別に、変に詮索したりとかそんな意味じゃなくて、ただ気になっただけで」


 言葉を手繰り寄せて間を繋いでいくけれど、はやる気持ちだけが先走り気の利いた台詞は何も思いつかなかった。


「……全部は言えないけど、ちょっと欲しいものがあって」

「そっか……」


 焦る私にようやく返ってきたのは、至って単純で分かりやすい理由だった。けれど、それ以上のことはまだ内緒のままだった。

 もっと、他にやり方はあったんじゃない。

 その一言を口にしようとしてしまう私を、もう一人の私が静止させていた。



 それを言ってしまえば、私の一方的な押しつけることになるんじゃないだろうか。

 悪事を働いているのならまだしも、自分で決めたことにどんどん取り組んでいく陽奈に向かって、考え直せだなんて口出しする資格なんて、持っているはずがない。

 それに、彼女の意志に口を挟んでしまえば、親友と呼ぶには相応しくないような気もしていた。

 今は陽奈の気持ちを尊重すべきだ。



 冷静になればなるほど、今やろうとしていることの危うさに気づき、背筋が凍りそうになる。この関係を崩してまで、彼女の変化を止めることなんてできなかった。


「変なこと聞いてごめんね。バイト、頑張りなよ」

「ありがとう」


 落ち着いて朗らかな笑顔を作ってみせる。その顔に安心してくれたのか、表情も晴れやかになりよく見る形に戻っていた。


 けれど、胸の痛みは以前よりも増していて、簡単には収まりそうになかった。


「あの時の約束、忘れずに待っててね」


 幼さの残る顔立ちで優しく見つめながら、私にしか届かないほどの声量でそう告げてくる。

 突然言われて一瞬何のことかと首を傾げそうになったが、夜の駅で二人で話をしたあの日が脳裏を過ぎっていた。大会が終わったら二人で遠くへ出かけようという話だったが、それ以降話題になることはなかったので、記憶から薄れてしまっていた。

 それに加え、今は自分の気持ちの行き場に困っているため、そのことにまで気が回っていなかった。


「うん。楽しみにしてる」


 先の見えない未来に、少しだけ希望が差し込む。

 こうして約束を覚えているのは、まだ私との仲を繋げているものがあるという証明でもあり、そのことを知れただけでも今は良かった。

 一通り話し終えると、消えていた周りの様子が目に映りこんでくる。人の流れに合わせるかのように陽奈はみ通学路を歩き、先を進んでいく。その後を追いかけるようにして並び、私もいつもの日常の中に戻っていた。



 私にとって、過去の臆病な姿も今の明るい姿も同じ陽奈でしかなくて、そんな親友をずっと支えたいという気持ちに今も変わりはない。

 でも、変わっていくその背中を素直に押してあげられない自分が少し憎い。

 どんどん前を行く彼女の後ろで、未だ足がすくむ幼い手を引いていないと、その子が少しずつ色褪せていき、やがて消えてように思えてしまうから。

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