第5話 白狼の始まり
「赤山先生、えらくお疲れみたいですけど」
「そうですかねえ、三十年の教師生活で初めての管理職って事でその……」
「まあ今夜は一杯飲み明かしませんか?」
その夜、修二を城田一郎と言う四年二組担任の教師が飲みに誘った。
「お客さん…」
「赤山先生って本当に真面目な方ですね……って言うか焼き鳥位は食べて下さいよ」
酒は一日コップ一杯と修二は決めていた。城田に誘われた焼き鳥の屋台でもその方針を崩す事はなく、一杯飲み干した後は全く手を付けなかった。
「いや、その実は、この後自炊して」
「今何時だと思ってんですか」
城田にしてみれば深夜まで飲み明かすつもりで誘ったのに、まだ六時半の内にそんな事を言い出されては正直誘った甲斐がない。食べた焼き鳥もレバー二本だけであり、嫌々なんですかと言われてもしょうがない事を修二はやっていた。
「店主の方には大変申し訳ない事は承知の上なんですが……」
「随分固い人だねえ」
「ちょっと神経が強張ってるんじゃないですかねえ、あれに出くわしちゃったみたいで」
「あれ?ああ白狼か」
修二にしてみればあんな物がしょっちゅう現れては正直やっていられない。にも関わらず、城田も焼鳥屋の店主もまるで意に介していない。
「うーん、私があの学校に赴任した一年目に初めて出たんです」
「城田先生って教師生活何年目でしたっけ」
「十五年目ですよ」
いつ出始めたんですかと言う修二の問いに対して城田はそう答えた。小学校の教師になってからずっと、城田は白岩小学校で教鞭を取って来ていた。要するに、十四年前からあんな白狼がいたと言うのだ。
「そりゃあまあね、大騒ぎになりましたよ。でも……」
何でもその白狼が最初に現れたのは、十四年前の七月だったと言う。
十四年前、教師一年生であった城田は五年二組の担任を請け負ったのだが、そこに一人の児童がいた。
「阿波建設って知ってます?」
阿波建設と言えば土木企業としてこの地域では老舗のメーカーであり地域からの信頼も厚かった。だが十年ほど前から急速に資金繰りが悪化、一昨年吸収合併されて消滅した。新聞の片隅で見た名前を思い出した修二がうなずくと、城田は待ってましたとばかりに口を開いた。
「阿波喜一って子がいましてねえ」
阿波建設の社長の息子、要するに御曹司であった阿波喜一は、当時の白岩小学校五年二組のクラスの児童の五分の一の親が阿波建設に務めていた事を楯に、父親の権力を振りかざして好き勝手やっていた。
もっとも喜一は元より美形であり地元野球チームで三番サードを担う程度の身体能力もあったので、女子児童からの支持は集めていた。顔良し、運動神経良し、金ありとくればモテない方がおかしいと言う物だ。
「ただ勉強だけは良くなくて……」
そこで喜一はクラスの女子を金で釣っていた。しかし、それでもって彼女たちから勉強を教えてもらったのならばさほど問題はなかった。
「丸写し……」
「はい」
実際には女子のノートやら何やらを書き写していただけであり、要するにまるで勉強していなかったのだ。
「不徳ながらその事をなかなか察せられず……」
「テストの答案とかからわからなかったのですか?」
「どうも隣に座っていた女子がからめ取られていたようで」
城田は確証はありませんがと言いながら恥ずかしげに頭を掻いた。喜一に惚れていた女子が喜一に進んでカンニングをさせていたと言う事なのだろう。喜一と言う少年も悪知恵は働く物で、百点ではなくわざと一問だけ間違えてこちらの目を逸らしていた。
「もちろんそうそううまく行くものではないんですがね」
そんな小手先を振りかざした所で気付かれない物ではない。この悪だくみを見抜いた児童が一人いたのだ。だが折悪くと言うべきかその児童は成績こそ良いが社交性に乏しく容姿も喜一より劣っていた。
「ったく、何がチクるですか、悪い事は悪いと言えない子は困るんですよね」
お説ごもっともではある、しかし教師歴十五年目の三十七歳にしては随分青臭いなと感じた。世の中すべてがうまく行くのであれば、とうの昔に戦争などなくなっている。児童たちの流れを感じ取り良き方向に向く様に指導するのが教師の役目ではある、だが往々にして自分たちの考える良き方向とその子にとっての良き方向は食い違う、残念ながら百パーセントの児童に理想の教育を施すのは無理である。
それに実際問題、カンニングは現行犯でもない限り捕まえづらい。まさか小学校の教室に監視カメラを置く訳にも行かないし、元々そんな事をして本当の学力をつける機会と習慣を逸している奴は後で痛い目を見ても知らないぞと言う気風が日本にはある。勝手にすればと言う事であり、反面教師になってくれればいいと言う事だろう。ところが現実と言うのはなかなかうまく行かない。往々にして狡猾に立ち振る舞い、それでいて何の制裁も受けずに過ごしている人間がいる。死んでから裁きを受けて地獄に落ちると言い聞かせた所で、現世で生きている分には何の関係もない。そういう現実を見せられている子どもたちに、ずるい事をやっているといずれ痛い目に遭うと言う理屈が理解できるのだろうか。修二にとっても頭の痛い問題である。
「その子もすぐ諦めたようですけどね、でもね」
色男金と力はなかりけりとは世間に知れ渡った俗謡だが、ごくたまに金と力もある色男も存在する。そしてそういう存在には嫉妬する輩が集まるのは世の常である。頭はともかく金も力も顔も劣っていそうな人間がその存在に対しマイナスの言葉を言ったとして、多くの人間はひがみ根性がさせた揚げ足取りとしか思わないだろう。例え証拠を突き止めた上で話した所ではいはい御苦労様で終わればまだましで、そこまでやるなんて暗い人と思われるのが落ちである。いや下手をすれば証拠すら捏造したと思われかねない。あの人がそんな事をするはずがない、その思い込みが視野を曇らせ耳を塞ぎ、正統なる理屈の上に積み上げられた現実を否定し、捏造であると言う答えを出してしまうのだ。そういう結論が見えてしまっているから男子児童は事を起こそうとせず、自然に離れるようになって行ったのがせいぜいであった。学校において事なかれ主義が横行している事は周知の事実であり問題なのだが、この場合は下から起こっているのだからより性質が悪かった。
そんな淀んだ情勢が急変したのは六月の中旬である。
阿波喜一の父親、阿波建設社長・阿波喜多夫は社長室で首を捻っていた。新たにビルを建てるに当たり確保した土地の近隣住民から、突如反対声明が上がったのだ。日照権その他の交渉は既に済んだはずなのになぜ今さらと、喜多夫は全く理解できなかった。
「そこに白狼が眠っていたって言うんですか」
「そうなんです、数百年前に暴れ回った白狼の魂がその地に眠っていたんです」
喜多夫がその事を知らなかった訳ではない、だから半年前に土地を確保するにあたりちゃんとお祓いを済ませ社内に社を置く事で解決したはずだった。それがまたなぜ急に、喜多夫がそう首を捻るのも無理からぬ事である。
「それでも結局工事は施行されたんですがね。まあ反対声明の方もそれでは不足だ、とにかく危険ですからとか……」
その反対声明の根拠が乏しかった事もあり、結局喜多夫は無視と言う答えをもって声明に反応し工事を施工させた。
施行日から数日後、いつものように喜一は登校していた。その日はちょうど算数のテストの日であり、また例によって例の如く喜一は隣の女子児童に縋る気満々であり、女子児童の方もまたいつでもどうぞ状態である。ある意味ラブラブカップルと言えなくもない。そんな二人を男子は切歯扼腕して、女子は羨ましそうに見ていた。
「校内が何か騒がしいようだけど一体何事が起きたのか、そう思ったんですよ」
城田が廊下の方から聞こえて来る音を気にしつついざ始めと言いながら手を振り下ろした直後、大変だと言う大声が聞こえると同時に教室のドアもまた大きな音を立てながら開けられた。
何事だと城田が声を上げる暇もなく、一メートル以上ある白い毛並みをした四肢の生き物が教室に飛び込んで来た。城田はその白い毛並みの生き物を追いかけて来たと思しき教師たちと共にあわてふためきながら取り押さえにかかったが、生き物はするりと教師たちの手を抜け喜一へと飛びかかった。そしてその生き物は喜一にのしかかると言うかじゃれつくような感じで飛びつき喜一のトレーナーをまくり上げ、そして半ズボンに前脚をかけ一気に引きずりおろし、そして三階の教室の窓から平然と飛び降り、何事もなかったかのように着地しその後走り去って姿を消した。これだけでも十二分に一大事なのだが、問題の本番はむしろこの後だった。
「仕方ないとは思いますがねえ」
喜一の口からはよだれ、目からは涙、鼻からは鼻水が垂れ流され両手は激しく震えていた。口からはよだれだけでなくうめき声までが漏れ出ており、いつもの美少年の面影はどこにもなかった。さらに悲惨だったのは下半身である。半ズボンと一緒にブリーフまで引きずりおろされ、小さな陰部を衆目に晒していた。白い獣の乱入に一同が愕然として声を失っていた中、最初に上がった声は失笑だった。
「私は自分の以外の大きさなんて知らないんですがね」
小さな陰部と先に言ったが、実際喜一の陰部は小学校五年生のそれとは思えない位小さかったらしい。女性における乳房と同様に、その大小によって優越感やコンプレックスを感じるケースは少なくないらしい。修二は修学旅行や林間学校で児童たちと一緒に入浴する際に児童たちの陰部を見分した事があったが、教師一年生だった城田にはそのような経験はなかった。もちろんその様な事とは関係なく城田は慌てながら喜一のズボンとパンツを引き上げたが、それでもなお嘲笑の声は止まなかった。
「その日を境に彼の株は暴落しまして」
陰部の大きさについては個人差と言う物がある以上仕方がない。だがいかに日常ではありえない大きさの生き物が、突然教室に飛び込みそしてむしゃぶりついて来ると言う非常時その物のケースとは言え、喜一が全く無抵抗のままほぼ全裸にされ自慢の面相を崩壊させられると言う醜態をさらした現実は消えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます