2-9 『ピアノのために1.プレリュード』&『献呈~君に捧ぐ』

翌朝、出かける前に携帯を見ると慎一からメッセージが入っていることに真智子は気付いた。

―昨日はありがとう。今日は課題曲の候補を聞かせるから楽しみにしていて―。

そういえば、そろそろそんな時期だったと思いながら、真智子は返信を返した。

―体調のことが心配だったけど、元気そうでよかった。楽しみにしてるね―。

真智子も候補はほぼ決めつつあったが、自分のレベルで弾きこなせるだけでなく、大切にしたい曲という意味でまだ少し迷っていた。


 放課後、真智子は帰り支度を早々に済ませると、音楽室に急いだ。音楽室にはすでに慎一が先に着いて、待ちかまえた様子でピアノの椅子に座っていた。

「慎一、顔色、良くなったね」

「なんか、吹っ切れた感じ。真智子のおかげだよ。とにかく芸大受験、頑張らなきゃと思って」

「うん。吹っ切れてよかった。今日は自由曲の候補を聞かせてくれるんだよね」

「コンクールで入賞したのがドビュッシーの『ピアノのために1.プレリュード』だから、先ずこの曲を聞いてくれる?この曲をコンクールで入賞した頃は母がまだ生きていて、思い出の曲なんだ」

「けっこう難易度高い曲だよね。コンクールで入賞なんて凄いね」

「母がドビュッシーが好きだったから、頑張ったんだ。あの頃は母のために弾いていたようなところもあったから。母は僕にピアノを熱心に教えてくれたからね。僕が頑張ると母は嬉しそうだったし……」

「きっと慎一のピアノが生きがいだったんだね」

「母は身体が弱かったから余計にそうだったんだと思う。ピアノを弾くときはいつでも母が側にいたから、亡くなった後もずっと側にいるような気がする―」

そう言うと慎一はしばらく黙った。真智子も何も言えず、ピアノに向かって気持ちを集中している慎一の横顔を見つめていた。

「じゃあ、今から弾くね」

真智子に向かってそう言うと、再び、慎一はピアノに向かい、そして弾き始めた。軽やかな指捌きではじまった音の波がだんだんと激しく渦を巻くような重厚感を増し、躍動感とともに弾け出した後、静まり、広がる―そして再び躍動感とともに広がるさらなる展開がグリッサンドを含み華麗に繰り広げられていく―。素晴らしい演奏に真智子は深々と聞き入った。そして慎一がピアノを弾き終えると真智子は目を輝かせて拍手した。


「それで、この曲を越える曲にシューマン作曲、リスト編曲の『献呈~君に捧ぐ』にしようと思うんだ」

「わあ、流石、慎一、とてもロマンチック!」

「『献呈~君に捧ぐ』は真智子に最初に聞いてもらいたかったんだ」

そう言うと、慎一はピアノに向かって深呼吸し、やがてピアノを弾き始めた。真智子は慎一が奏でるピアノの演奏に聞き入りながら、心臓がどんどん高鳴り、溢れ出すような感動の思いで一杯になった。そして、それとともに込み上げてくる涙を抑えることができなかった。


 慎一の演奏が終わると真智子は再び拍手して言った

「とても素晴らしい演奏で……ほんとうに感動した……」

「ほんとうに?しばらく練習してなかったからこれからもっと頑張らないと。でも、真智子にやっと聞かせることができた」

「しばらくって、ここで練習しはじめる前のことだよね」

「まあね、こっちに引っ越す前に練習してた。その頃からこの曲を課題曲にしようって決めて練習してたんだ」

「流石、慎一。私はまだ練習不足で……」

「自由曲のこと?」

「うん……。私、課題曲はまだ自信がなくて慎一に聞かせられない」

「ごめん、またプレッシャーかけちゃったかな……」

「そんなことない。そろそろ、課題曲に集中しなきゃいけない時期だよね……」

「僕も真智子も今は先生なしでピアノを弾いてるから、いろいろ戸惑うのは当たり前だよ、でもだからこそ自分がほんとうに弾きたい曲を選べるんじゃないかな。だから、真智子も、もっと気楽に考えて、自分が弾きたい曲で頑張ることも大事なことだと思う」

「そうだよね。的確なアドバイスをありがとう。わかった。一週間ぐらい、自分ひとりで家で練習してみる。それで、自信を持って弾けるようになったら、慎一に聞かせにこの音楽室に来るよ。突然、ごめんね。慎一はそれまでこの音楽室を独占して思う存分、練習してね」

「真智子がそう言うなら、それまで待ってるよ」

「うん……慎一に聞かせられるように頑張るから……」

「必ず聞かせろよ、楽しみにしてるから」

「もちろん。一週間後、必ず聞かせに来るよ。だから、慎一も頑張って……。じゃあ、今日はさっそく家に帰って練習するね」

「わかった。真智子も頑張ってると思ってここでピアノを弾いてるから……」

慎一は寂しさを振り切るように言った。

「じゃあ、またね」

真智子も音楽室から廊下に出ると慎一に向かって小さく手を振ると、歩き始めた。しばらく歩くと慎一が奏でる『献呈~君に捧ぐ』が聞こえてきた。真智子は後ろ髪引かれる思いを振り切り、小走りになった―。


※ドビュッシー『ピアノのために1.プレリュード』

※ロベルト・シューマン/リスト 『献呈~君に捧ぐ』


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