星塗り

ほしのかな

星塗り

「はい、それではみなさん昨日話しておいた色鉛筆は持ってきましたか」


 恰幅かっぷくの良い教師が、二度三度手を叩きながら言った。見目にも柔らかそうなその指は、獲れたてのニシンの腹の様にふっくらとしている。先生の指の一本一本が海を泳ぐ様を想像し、僕はげんなりとため息を吐いた。僕がニシンを嫌いなのは、きっとそういう訳なのだ。


「はい、先生」


 きちんと大人しく椅子に腰かける生徒たちが、にこにこと笑いながら一斉に返事をする。僕はもちろん昨日の内に色鉛筆を用意していたけれど、返事をする気にはなれなかった。


「よろしい。では今日君達にしてもらう作業だが……」



「ねえとばり。これを見てちょうだい」


 隣に座るみやが、ちらと大きな缶の蓋を開けて見せた。その動作に合わせて、若草色の髪がふわふわと揺れる。


「それは君の色鉛筆かい?」


 僕は話を続ける先生に見付からない様に、極めて小さな動作で缶を覗いた。


「へーすごいじゃないか。その色鉛筆は。まるで異国の鳥みたいだ」


 ある日先生が特別なフィルムを手に入れたのだと言って、僕らに見せてくれた映像を思い出した。暗幕を張った教室を堂々と旋回する極彩色の鳥が、映写機のかたかたという音を引き連れて僕の中を横切った。


「この藍色は素敵だな。これを僕にくれないだろうか」


 宮の缶から深い青の色鉛筆を取り出す。彼女は何が可笑しいのかクツクツと笑うと言った。


「それは駄目。私の一番好きな色なのよ」


「それは意外だね。君はもっと華やかな色が好きなのかと思ってた。ところでこれだけの色を何処で手に入れたんだい?」


 問うと、宮は大袈裟な程きょろきょろと周りを見渡した。他の生徒の視線が無い事を確認すると、僕にそっと耳打ちをする。


「……彗星よ。彗星を捕まえたの」


「彗星って──まさか君、あの運河を越えたのかい?」


 運河を越える事は校則で禁じられている。運河の向こうは未開の地。未加工の星々が衝突を繰り返す、危険な場所だ。


「そうよ」

 宮は得意げに言った。


「けれども子供はあそこへ行ってはいけないじゃないか」

「それでは、私はもう大人だわ」


 ちゃんと運河を越えて帰って来れたのだもの。そう言う彼女の白い頬は、淡い桃色に染まっている。


「……君はまったくすごいな」


 虹色の尾を引く彗星を捕らえれば、色を集めるのは格段に楽になる。僕は彼女の行動力に心の底から感嘆の声を漏らした。


 その反応に満足したのか、宮ははにかむ様に笑った。


「帳はどんな色を集めたの。見せて頂戴」

「……君のを見る前なら、もう少し堂々と出すことが出来たのだけれどね」


 僕はくすんだブリキの缶に詰め込んだ色鉛筆を、ちらりと見せた。


「貴方ったら、青だの群青だのばかりじゃないの」


 そう言って笑う宮の目が、僕の色鉛筆のどの”青”より綺麗に煌いた。


「好きなんだ」


 僕は宮をちらりと盗み見ると、何でも無い事のように呟いた。


「けれども一番欲しい青はここには無い」


 彼女の電気石トルマリンの瞳に、睫が長い影を落とした。

 一層深い色合いになったその繊細な青が、僕は本当に好きだと思った。

 たとえどれだけ彗星を捕らえても、その青に勝るものはどこにも無い。

 僕はそれが寂しく、そして嬉しかった。


「どうして? 捕まえられないの?」

「……まあね」


 目を丸くしていかにも不思議そうに尋ねる宮から目を逸らす。

 自分自身を見る方法があれば、宮はこの言葉の意味に気がついてくれるだろうか。


「帳って、時々不思議だわ」


「おい、そこ聞いているのかね?」

 僕達の内緒話を遮るように、先生が一つ大きな咳払いをした。


「はい、聞いています」

 僕が慌てて返すと、宮は小さくクスクスと笑った。


「では2班は大地、3班は生き物を……」


 先生はもう僕に構う様子も無く、太い声で分担を発表している。

 今度の週末までには、完成させなくてはいけないのだから、少なからず焦っているのかもしれない。


「私達1班は空よ。早く終わらせて帰りましょ」


 宮が銀河紙ぎんがしを広げて言った。


「何色に塗るのが良いかしら? 火の星の空は少し重すぎたわよね」


 確かにあの空は重かった。大地の班と空の班が喧嘩をしていたものだから、色調のバランスが狂ってしまったのだ。


 星を塗るのは一度きりだ。失敗しても塗り直すわけには行かない。

 そう思うと、僕ら子供に任された作業は責任重大だ。


「まずは日が当たっている時の色だけど……」


 班員と言葉を交わしながら、宮は手際よく銀河紙を埋めていく。


 大きな紙の上を滑る白く細い指は、僕の知らない彗星を思い起こさせた。

 僕の目と心は衛星のようにその軌道を追って軽やかに弾む。


「ねえ帳、聞いているの?」


 突然視界に飛び込んできた青い結晶に息を呑む。

 輝く星雲を飲み込んだ様なその美しい色合いは、僕の世界をも一飲みにした。


 (触れたい)

 反射的に手が伸びる。


 (触れたい)

 この手で触れて一言呟けば、きっとこの目は綺麗な色鉛筆になる。


「帳?」


 けれどもそうすれば、このくるくると色の変わる青は二度と僕を映さないだろう。


「……青……僕は青が良いと思う」


 体中を駆け巡るその衝動をどうにか押さえ、そう言った。

 

 新たに作る星は、命の溢れる暖かな星にするのだと言う。

 命を包む空が、彼女の瞳の様な色だったら、それは本当に素敵に違いない。

 大地に生まれた命は、手を伸ばしても決して触れられないその青に、永久に焦がれればいいのだ。

 ──僕の様に。


「……いいんじゃないか」


 班員の一人が言った。


「海の班も青を使うと言っていた。きっと良い色合いになる」


 宮は少し考え込んで、笑った。


「ではそうしましょう。青なら帳が沢山もっているから、きっと面白い色が塗れるわ」

 

 決まるが早いか僕らは、銀河紙を色々な青で塗り始めた。悪ふざけをした班員が一部を橙や紫で塗ったりもしたが、なかなか順調に作業は進んだ。


 気がつくと教室の片隅にある鉱石ラジオから、遠い星雲せいうんの知らない言葉が流れていた。誰かが適当にスイッチを入れたのだろう。途切れ途切れに聞こえる信号にしばらく耳を傾ける。


 一体どこの星の言葉だろうか。

 低く揺れる言葉は、不思議に心地良い。体の芯にじんと響くその声音に手を止めると、ふいに宮の色鉛筆が目に入った。


 宮がどんな思いで彗星を捕まえたのかは分からない。

 けれど、これを使わないのは酷くもったいない気がした。


 僕はその中から適当に幾つかの色を選ぶと、青い空の片隅に七色のアーチを描いた。青い空のほんの一角。わずか一時だけ、宮の捕まえた彗星の虹色が浮かぶ。その情景を想像すると、自然と笑みが零れた。

 

「ねえ、日が落ちた空にはこの藍を使ってもいい? バランスはそんなに悪く無いと思うのだけど」


 宮は自分の持ち場を塗り終わったのか、夜の空を塗り始めようとしていた。

 彗星から取り出した深い藍。宮が一番好きな色だと言った、あの色鉛筆だ。


「別に構わないけど……」


 それは確かに綺麗だったが、空に塗るには暗すぎるように思えた。月が陰ってしまったら何も見えなくなってしまわないだろうか。


「そんなに暗い色で良いのかい?」


 僕が躊躇いとまどいがちに聞くと、宮は眉間に皺を寄せて応えた。


「暗い? いいえ。素敵な色だわ。命を癒す、安らかで素敵な色。それに──」


 宮は暫く口の中で言葉を転がしていた。

 快活な宮が言葉に詰まるのは珍しい。


 心配になって覗きこむと、宮は頬を染めて言った。

 

「それに、これは貴方の瞳の色だもの」

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星塗り ほしのかな @kanahoshino

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