2.



  今朝はやけに騒々しい。


目覚めてすぐに、そう感じた。


城内全体の気配が、一定した日常とは異なり、舞踏会の始まりを待つ娘たちの浮き足だったそれに似ている。


なぜだろう、舞踏会の予定などないのに。


ベッドから冷たい床に両足を下ろし、素早く立ち上がってローブを羽織った。



いつ頃のことだったろう。


目には見えぬはずの人の感情が、こうして大気を伝い届くようになったのは。


それは猛り狂う怒りであったり、絞り出す悲愴であったり、踊り出すような歓喜であったり。



頭痛を伴い感じたり、動悸に混ざって届くこともあるその思念の持ち主を知る術はないのだけれど。


それでも、今朝のように大勢から同じ感情が押し寄せるようなことは、初めてかも知れない。


窓のカーテンに手をかけたその時、扉が派手に打ち鳴らされた。


「オネット様! お目覚めでございますか? オネット様!」


「……起きてるわ。朝からずいぶんと賑やかね」


苦笑いと、思った通りという内心を秘めて、跳ねるように開いた扉を真正面から出迎える。



侍女のジルが、何から告げようかと口内に溢れる言葉を踏みとどませるのに難儀をする表情で立っていた。


オネットの一日は、ジルで始まりジルで終える。


オネットの双眼が世界を映し始めた時から、ジルはそこにいた。


十六年を迎えるオネットの全ての悲哀も歓喜も、ジルを交えての記憶しかない。


暁から黄昏までのアジェンダを把握している侍女ジルは、オネットの世話係でもあり教育者でもあり、話し相手でもあった。


先ほどオネットが手をかけたカーテンまで、ふくよかな身体に不似合いな機敏さで駆けていき、左右に開く。


小柄なジルが両腕をいっぱいに開いてすら、端まで届かないカーテンの背後には、目映い大虚が視界の許す限りに広がっている。


本日のお召し物、と、どこか得意気に差し出した衣装を、オネットは躊躇いながら受け取った。


「……やっぱり、何か舞踏会の予定でもあったかしら」


「何を仰います! もしやオネット様、今日という日の重要な意味をお忘れですか? それとも戯れですか?」


「戯れではないから、お忘れの方ね、残念ながら。私は常に真剣なのよ、ジル」


仰向けに倒れてしまうのではと、手をさしのべかけるほどに反り返って驚くジルを刺激しないよう、オネットは眉尻を下げて小声で告げた。


オネットには本当に心当たりがない。


そして今朝のような、城内にとどまり得ぬ浮わついた空気は、感じたことのないものだ。


「ついにこの時が来たのですよ、オネット様」


ジルは幼子に内緒事を打ち明けるように瞳孔を大きく丸く開いて、丸みのある両手を胸の前に組重ねた。


「この時?」


「最後に謁見があったのは、一体いつのことでございましょう。ハルス国王が王位を継承する以前であることは間違いありません。民が、いいえ! 万民が待ち望んでいた伝説にまみえる事が叶うのです!」


「………」


興奮するジルを滑稽に眺めながら、それでもオネットは、その言葉が示す重大性だけは、理解した。


この国には古より、幼子に熱心に謳って聴かせる物語がある。


それは生まれたばかりの赤子の安らかに上下する胸元に手を添えながら、母親が謳う子守唄。


いつしか幼子は、その小さな耳に幾度となく繰り返し奏でられた唄を胸に刻みこみ、やがて自らの子へ伝承する。


それが【世界創世記】であり、【七竜の伝説】なのだ。


オネットも例外ではなかった。 ジルによる唄は、他の誰よりも熱が込められていた。


しかしそれがオネットにとって、微かな背反めいた感情を生み出す要因となったことは、皮肉な現実として胸に秘めている。


「『七竜を御する者、世界を統べる王とならんと』」


「そうでございますオネット様! 我が王国が封印している竜は、七竜の中でも強大なもの。きっと、これを撃ち破れば……」


「まだアンフィスバエナがいるわ」


「おおおおオネット様!! なんとも恐ろしい! 安易にその名を口にされてはいけません!」


「もしも七竜を支配する事が叶ったとして、世界は一体どうなるの? 凶悪な竜を倒すほどの人間が、必ずしも善だとは限らない。まだ、竜に支配されていたほうが幸せだった、なんてことにはならない?」  


  オネットの背反の根源はそこにあった。


皆は何か勘違いをしているのではないか。


伝説から300年という壮大な年月が過ぎ去ろうという今、確かに世界は動き始めた。


竜が封印された各七地方の警備を固め、不運にも自らの領地に含まれた貴族達は、兵隊の強化に躍起になっている。


ハルスバード王国の常備軍は、領地の拡張などというお遊びに興じている場合ではないのだ。


そんな情勢の中、各地に竜討伐を掲げる強者達が名乗りを挙げ始めた。


彼らはドラゴン=シールダーと呼ばれ、『竜を封印する者』として、国や領主から特別の資金と特権を与えられるようになった。


ハルスバード王国の力が安定している世界で、各国の情報が届くのは早い。


その情報の中に朗報は何一つなく、ハルス国王が密かに嘆いていることを、オネットは知っている。


それどころか、世界安寧のもたらしを目的とせず、己の私欲のために特権を利用している者達もいる。


いや、と、オネットは静かに首を振った。


最も恐ろしいのは、特権乱用などという下品な事ではない。


シールダーとしての力を真に持ち合わせた者の心が、邪悪であったとしたら。


彼らの活躍を安易に歓喜することは、邪悪に加担するに等しいのではないか。


「そんな心配は御無用ですオネット様。ドラゴン=シールダーに悪人はいません。もっと質が悪い者は、仕事もまともにこなさないのに噂話ばかりに興じる新任侍女達ですオネット様」


ジルの神妙な顔付きに、思わずオネットは吹き出してしまった。 ここ最近毎日のように聞かされているジルの嘆きは、どうやら切実らしい。


各々の信心は自由であり、それを否定することは、その者への侮辱を表す。


  「それで? 今日は、何処かのドラゴン=シールダーが我が国に馳せ参じるというわけね」


「左様でございますオネット様! 十余年ぶりのドラゴン=シールダーの謁見にございます!!」


一転、輝きを取り戻したジルの目に、オネットは納得した。


それならば、民のこの異様なまでの浮わつきも無理はない。


自分はこの国の王女として、父の隣で見物していれば済む話なのだ。


四の五のと、起きてもいない不吉な想像に世を憂いているより、生まれ持って与えられた地位から、ひざまづくドラゴン=シールダーを見定めよう。


ジルの着付けでドレスを纏い、見習い侍女達の元へ飛んで行く背中を見送ると、朝陽差す回廊を進んだ。


眩しい。


不思議だ。


万物が祝福しているかのように、穏やかな空気がオネットの頬を撫でて過ぎる。


平穏な朝の訪れを祝福するように、鳥は唄い、雲はたなびく。


一方、城の賑やかさは尋常ではなかった。


いつもならば城外の荘園を警備している兵士が、朝から正装して忙しげに歩いている。


普段は厳めしく口を絞った家令の表情は弛み、陰口を叩き合っている司祭と並んで談笑している。


兵士も弓兵も馬丁までもが、誇らしげに胸を張って槍を掲げていた。


オネットの姿を目にとめると、彼らの視線には敬愛と情愛が込められた。


成人の儀を翌年に迎えるオネットの身が、一体どこの高貴な若者のものになるのか、それが専ら彼らの話題の中心だということを、オネットは知っている。


『愛』ではなく『地位』を交わす婚礼など、永遠に来なければいいと願っている。


彼らの挨拶に笑顔と尊厳を振りまきながら、オネットは謁見の間へ急いだ。


父、ハルス王の姿は、先程司祭と立っていた家令と共にあった。


「おはようございますお父様。おはようコシュール」


「オネットか」


「おはようございますオネット姫」


全身で敬礼して直ぐ様、コシュールは曇った表情で王を振り返った。


「たった今、司祭より届いた報せなのですが、どうやら執鋭のドラゴン=シールダーは、手負いのようでして」


「なんと! では、早急に医師を呼べ!」


「いえ、それには及ばないとのことです。相応の治癒を施したとのことで。……ただ……」


「ただ、なんなのだ」


コシュールの歯切れの悪さに、焦れた王は法衣の裾を翻した。


  コシュールは右手で拳を作り、口元に当てて囁いた。


「北山脈を越える旅路で不遇にも過酷な吹雪に見舞われ、身なりが酷い有り様だということで……」


オネットは王と顔を見合わせた。


次第に込み上げてくる笑いを堪えきれず、二人で吹き出した。


「笑い事ではございませぬぞ! 北街道の宿駅に現れた彼らを、野伏りと勘違いしたという話ですから!」


「野伏りか!! それはまた大仰なことよ!」


「何か衣装を用意させましょうか。このような荘厳な場に相応しい衣装を……」


王は豪快に笑ってコシュールを御した。


「身なりなどどうでもよい! 即刻呼んで参れ! 皆を謁見の間へ!!」


「は!!」


弾かれたように広間を後にするコシュールの背中を、オネットは黙って見送った。


一体どのような者が現れるのだろう。


冠辞を以て表されるシールダーなど、今まであっただろうか。


恐らくは、それなりの戦歴と功名あってのことに違いない。


「……お父様」


「なんだオネット」


「なぜ執鋭のドラゴン=シールダーの謁見を、私に話して下さらなかったの?」


コシュールが消えた扉に視線を投じたままで、オネットは低く問う。


王は自らの玉座の肘置きを、愛でるように撫でながら、同じ様に扉を見据えた。


「お前はシールダーが嫌いであろう」


「嫌いだなんて、そんなこと。ただ、闇雲に信用するのはどうかと言っているだけ」


「同じことだ。愛は信頼に通ずる。信頼出来ぬ対象には憎悪が生まれる。ジルは興奮してお前の元へ向かったが、儂はお前が謁見に立ち合わずとも構わないと思っていた」


「この目で見定めます」


凛と答えたオネットの横顔に、王は初めて目を向けた。  










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