第20話 前に進む


「すみません、大きいサイズの胃酸ください」

 僕は商店街の薬局に来ていた。

「あら、お母さん、また胃の調子が悪いの?」

 僕は「はい」と言って「僕はあなたの息子さんが嫌いです」と心で言いながら、思い切って訊ねる。

「あの、文哉くん、いますか?」

 今日、ここに来たのは母に頼まれた薬以外に目的は二つしかない。どうしても文哉くんでないといけない用事があったのだ。

「文哉と遊びに来てくれたのね。喜ぶわ、あの子、ちょうど宿題もせず暇にしてるところだったから」

 文哉くんのお母さんが大きな声で「文哉っ」と呼ぶと奥から眠そうな顔の文哉くんが出てきた。

「なんや、村上か」

 文哉くんの顔にがっかりしたような表情が浮かぶ。こっちだって文哉くんと遊ぶ気などない。

「俺に何の用事やねん?」

 僕は文哉くんを商店街の外の通りに呼び出すとポケットに手を突っ込んで中からビー玉を取り出した。

「こんなん見たことないやろ」

 僕は前に買ってきておいたビー玉のうちのひとつを文哉くんに見せた。

「すげえ、むちゃくちゃ綺麗や、こんなんどこに売っとったんや」

 ビー玉を見ると文哉くんの表情がみるみる変わるのがわかった。計画通りだった。

「駅の近くの駄菓子屋や」

「この前、父ちゃんと行った時こんなんなかったけどなあ」

 文哉くんは悔しそうにビー玉を見ていた。

「これ、文哉くんのビー玉と交換せえへんか?」

 目的の一つ目を切り出す。

「どのビー玉や?」

「あのおっちゃんに小川さんから取り戻してくれって言うとったやつや」

「あれ、まだ戻ってきてへんのや」

「このビー玉やるから、あのビー玉が戻ってきたら僕にくれ。戻ってこんでも僕のもんということや」

 僕は文哉くんにビー玉を握らせた。これでそのビー玉は小川さんのものにできる。

「ええけど、あのビー玉、おまえ、見てへんやないか?」

「おっちゃんと文哉くんの話を聞いているうちに欲しくなったんや」

 文哉くんはどうも納得がいかない様子だった。

「ふーん、なんか訳ありやな」

 文哉くんの顔を見てるうちに今でのことが消えていくのを感じた。

「よっしゃ、別にかまへんぞ!あれは村上のもんちゅうことにしとく」

 人との関係はこんなものだろうか。なぜか急に文哉くんがいい奴のような気がしてきた。 でも僕には文哉くんを絶対に許せない言葉があったことを思い出した。

「ひ、ひとつ、訊いてええか?」

 僕は勇気を出して話を切り出した。

「何や?」文哉くんが鬱陶しそうな顔を向ける。

「小川さんが妾の子って言っとったけど、あれほんまか?」

「ほんまやで」

「ほんまやったら、小川さんのお父さんって誰なんや?」

 これが今日文哉くんに会いに来た理由の二つ目だった。

 僕がそう言うと文哉くんは溜息をついた。

「おまえ、この町のことを何も知らへんのやなあ」

 ショックだった。僕がこの町のことを何も知らない? 一体何を?

 だったら文哉くんは僕よりもこの町のいろんなことを知っているというのか。少なくとも町のことなら僕より何でも知っている大人だ、と言うのだろうか。

 でも僕は文哉くんの言うとおり何も知らないただの子供かもしれない。

 小川さんや香山さんのことどころか、父や母のこと、叔母さんのことだって何も知らないのかもしれない。

 叔母さんとプールに行った時、迎えに来てくれた男の人だって、銭湯のおっさんのことだって何も知らない。

 目の前にいる文哉くんが意外といい奴だって今まで知らなかった。

「母ちゃんが薬局の商売やってるからな、いろんな話聞くんや。母ちゃんとお客さんとの立ち話だって自然と聞いてしまう。聞きたくないことかて聞いてしまうんや」

 文哉くんがこんなに僕と話すのは初めてだ。やっぱり文哉くんは僕より大人なんだろうか?

「小川って大人しいやろ、大人しい奴は損なんや。陰でみんなに好き勝手言われるんや、俺も陰で言うけどな。あいつ、朝礼の時よう倒れるやろ、あれ、栄養失調らしいわ」

 僕は学校でいつも何を見ていたのだろう。

 小川さんが朝礼で倒れた時も僕はみんなが心配しているんだと思っていたけど、陰ではきっと悪口を言っていたんだろう。

「近所のおばちゃんもクラスの奴らもみんな小川のことになると口が止まらんくらい悪口を言うんや」

 陽射しが強くてだらだらと汗が首を伝って流れ落ちる。

 文哉くんは通りを歩く人たちの視線を気にしながら言葉を続けた。

「いろんな噂話の中で、小川の父ちゃんがそこの高台に住んでる香山の親父やっていう話がよう出てくる・・これ内緒やぞ」

 香山さんのお父さん?

 噂話の一つを聞いただけなのかもしれないけれど文哉くんの言葉が真実を語っているような気がした。

「小川の母ちゃんって働いてへんのにアパート暮らししてるやろ。あれ、香山の親父が毎月、金を出してるらしいんや」

 どれくらいのお金だろうか。僕には見当がつかない。幾らあったらちゃんとした暮らしが出来るのだろう?

「見たことあるやろ。あそこのアパートの汚らしいなりのおばはん・・香山の母ちゃんに無茶苦茶嫌われとるらしいで。香山の親父もなんでよりによってあんなおばはんと・・」

 僕は会ったことのないあの高台の家に住む香山さんのお母さんを想像したあと、あのシュミーズのだらしない女を思い浮かべた。想像の中だけでも違って見えた。

「香山もあの家に近づくなって自分の母ちゃんに言われとるらしいけど、そりゃ無理やで、なんせ姉妹なんやしな、会うなって言うのが無理な話や」

 僕にはわからない大人の世界のように思えた。大人のことはわからないけれど小川さんや香山さんの気持ちは少しわかる気がする。

 いつ二人がその事実を知ったのか、その時二人がどう思ったのか知らないけれど、それを知って僕はどうする?


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