八、極楽荊姫

 柔らかい光を目蓋に感じる。柔らかな温かさを全身に感じる。

 それらの柔らかさに幸福感まで感じながらも、棗は閉じていた目蓋を開いた。

「やあ、おはよう、棗。よく眠れたかい?」

 目蓋を開いた先に居てくれたのは、棗の悪い視力でもはっきり視認出来る愛しい兄。

 そう言えば、と棗は思い出す。昨日は兄ちゃんに添い寝を頼んだんだっけ。

 昨夜、風呂から上がった後も棗は時折襲い来る恐怖に鳥肌を立てざるを得なかった。油断するとまた吐いてしまいそうなほどに精神的に追い詰められていた。全ての尻拭いを仲間の魔女達に押し付けておいて情けない限りだが、久方振りに感じた生命の危機の恐怖からはしばらく立ち直れそうになかった。

 その棗の様子を見た燕が言ってくれたのだ。僕に出来る事があるかい、と。

 温かさが欲しかった。優しさと柔らかさが欲しかった。抱き締めて欲しかった。

 それで棗は燕と同じ布団で眠る事を希望したのだ。

 燕は軽く苦笑したが快く了承してくれた。燕はそういう兄だった。

「おはよう、兄ちゃん。昨日はありがとね」

 少し照れたが棗は微笑んでみせる。燕と添い寝するのは久し振りだったから、自分でお願いした事とは言え何となく照れ臭かった。燕と前に添い寝したのは二ヶ月前だったはずだ。前の添い寝からそんなに間が空いてしまうとは棗自身にとっても意外な事実だった。

「いいよ、僕も久し振りに棗と一緒に寝られて嬉しかったからね」

 言ってから燕が微笑んだ。棗の柔らかな髪を撫でながら、また笑う。

「おや、凄い寝癖だよ、棗。昨日お風呂上がってすぐに布団に入っちゃったからだね」

「兄ちゃんだって」

 棗の言葉通りだった。棗のショートボブと同じくらいの長さの燕の髪はあちこちが見事に逆立っている。成人した兄妹が同じ様に寝癖を作ってしまったという事実に、棗達は苦笑せざるを得ない。同時に、幸福だった。こんな何でもない事を幸福に思う。それはほんの数ヶ月前、棗が悪魔と契約するまではまず有り得なかった事だった。

 故に、思う。この幸せを手離したくない。兄ちゃんとずっと笑っていたい。そう強く。

「そう言えば棗は今日、大学に行くんだっけ?」

 不意に燕が話題を変え、棗は燕の寝癖に手に伸ばしながら応じた。

「うん、そうだよ。今日は出なくちゃいけない授業が入ってるんだよね」

 大学も四年生になって棗の出るべき授業は減っていた。卒業見込みも出ているので、授業に出るよりは就職活動に精を出すべき時期でもあった。むしろ遅いくらいではある。しかし棗は就職活動をするべきかどうか迷っていた。

 魔女の仕事が楽しいというのはある。瑞帆と主に組んで数ヶ月、いくつかの事案に関わって来たが刺激的だったし報酬も高かった。この数ヶ月で棗は実に二百万円を稼ぎ出している。就職活動などせずに、このまま魔女の仕事を続けるべきかと考えた事も一度や二度ではない。その方が燕への恩返しにもなるだろう。

 けれど、昨日白い少女を目撃してしまってから、棗の考えは揺らいでしまっている。

 考えが至っていなかったのだ。自分が魔女を標的にしている以上、他の魔女から自分が標的にされるかもしれない可能性に。自らの行動を棚上げして警察機構を逆恨みする犯罪者など星の数ほど存在する事は知っていたはずだというのに。

 だからこそ、迷う。魔女の仕事を続けるべきなのだろうかと。

 魔女になってしまった以上、自分が魔女であるという現実から逃げる事は出来ない。大なり小なり魔女連盟とは関わらねば生きていけないのは分かっている。それでも薄い関わりで生きていく事は出来るはずだった。例えば魔女薬をたまに提供するだけでも十分魔女連盟の会費にはなるだろう。いや、魔女連盟は会費の徴収など行ってはいないが。

 棗は岐路に立たされているのだ。それこそ魔女になる事を決心した時以上の岐路に。

 棗の表情が軽く曇った事に気付いたのだろう。燕は布団から身を起こすと、棗の膝裏と背中に腕を伸ばすと棗の身体をそのまま抱え上げた。俗に言うお姫様抱っこの体勢だ。棗が魔女になるまで幾千度もしてくれていた体勢だった。

「大学に行くんならまずはその寝癖を直さないと。そうじゃないと僕の可愛い妹が大学の皆に笑われちゃうからね」

「ちょっと、もう、兄ちゃんってば……」

「どうしたんだい?」

「もう、抱っこしてくれなくても大丈夫なんだよ、あたし」

「あっ、ごめん、棗。つい、癖でさ……」

 燕の表情が少し曇る。妹を傷付けたと思ってしまったのかもしれない。

 棗は胸が痛んだ。そんなつもりの言葉ではなかったのだ。ただ単にもう護られてばかりの妹じゃないと主張したかっただけなのだ。一緒に肩を並べて歩く事が出来る妹になれたのだと、そう伝えたかっただけなのだ。

 しかし、少し急ぎ過ぎたのかもしれない。あれから数ヶ月しか経っていないのだ。新しい環境に慣れるにはまだ早過ぎる。少しずつ二人で慣れていくしかない。

 棗は精一杯の微笑みを見せてから、燕の首筋に腕を回してその頬に唇を重ねた。

「ううん、別にいいよ、兄ちゃん。これからは一緒に歩きたいなってそう思っただけだから。でも、抱っこだって嫌いなわけじゃないよ。兄ちゃんの抱っこ、嫌いじゃないもん。だからね、今日は抱っこで連れてって欲しいな」

 棗の言葉に燕は微笑んだ。その頬で棗の頭を軽く撫でる。

「うん、分かったよ、棗。次からは一緒に歩こうね。でも、たまには棗を抱っこさせてくれると嬉しいな。棗がもう大丈夫なのは分かってるけど、そんな事は関係無く棗は僕の可愛い妹なんだから。それくらいさせてくれないと寂しくなっちゃうよ」

「もう、お兄ちゃんなのに寂しがり屋だなあ……」

 そう言い合ってから、二人して笑う。

 燕が笑顔で棗を化粧台まで運んでいく。

 移動途中、棗は不意に玄関に放置してある車椅子に視線を向ける。

 もうあたしには必要無いんだ、要らない物なんだ……。

 考え、燕の首筋に回した腕に強く力を込める。最愛の兄を胸の中に抱き締める。

 もう二度と、この幸福を手放さないように。

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