第30話 意外とかつやは侮れない
登未と月夜が外に出たとき、どっぷりと日が暮れていた。
「夜じゃねえか」
予測した事態ではあるが登未は呆れてしまう。思いのほか、盛り上がった。最初は自分で曲を選んでいたが、登未が『これ歌えるか?』と月夜の歌声で聞いてみたい曲を選んだのがきっかけで、互いに相手の歌う曲を選び始めた。
(アニソンだけでなく邦楽、洋楽なんでもござれだったなぁ)
有名曲であったが、月夜は洋楽も知っていた。知識を持っている者が相手だと、歌える曲は多い。次第に何でもありの混戦と様相を変えた。
(なんで、デュエット曲ばっかになったのか)
確か、月夜が言い出したのがきっかけだった。テンションの上がった月夜が、面白いバンド名の男と女のツインボーカル曲を入力する。自棄になって歌い始めたが、一人で歌いきるのは不可能だった。しかし月夜がマイクを握って参戦して以降、流れは決まった。二人でマイクを握ることになり、常に歌い続けることとなってしまった。
(延長料金で無駄に金を浪費するよりは良かったけど、まさか、こんな長時間とはな)
この戦は長くなる、と早期段階で登未は理解してしまった。延長を繰り返すことを早々と諦め、改めて3時間ほど席を取ってしまった。結果として、合わせて6時間という長時間を過ごすことになる。
(汗臭い)
自分の服を摘まんで、登未は臭いを確認する。熱中し、更に熱唱もしていたため、多大な汗を掻いていた。己の汗の臭いは、不快だ。登未はむうと唸りつつ、傍らの月夜に視線を向ける。
「いやあ、歌ったねー」
紅潮した顔を帽子で扇ぎながら、月夜は笑っていた。相変わらず距離は近い。
登未は何となく、鼻をひくつかせてみるが、月夜から届く匂いに汗の要素がない。
シャンプーなのか、コロンなのかわからないが、いい匂いがする。
(なんだ? 美人は人間としての構造が違うのか?)
汗は掻いているはずだ。接近して匂いを嗅げば、さすがに汗の臭いは確認できよう。
しかしあからさまに顔を近づける訳にはいかず、登未は首を傾げるに留めた。
「さっきまで熱いくらいだったのにね」
「俺なんか、汗臭くて今すぐにでも風呂に入りたい」
言外に、離れて欲しいと思って口にしたが、月夜に怯む気配は見られなかった。
むしろ登未に顔を近づけて、鼻を動かした。
「本当だ。登未くん、汗いっぱい掻いてたもんね」
「……汗臭い言ってるのに、わざわざ臭い嗅ぐなや。イジメか」
「別に、臭いとか言ってないし。わたしは嫌いじゃないし」
自分の服の襟元を引っ張り、月夜も自分の臭いを確認した。
登未に向けて、苦笑を浮かべる。
「わたしもちょっと汗臭いかな」
「どれ」
「あ、せんぱい、近づかないでもらえます?」
「てめえ。人にやっておいて、自分が逃げれると思うなや」
月夜が距離を取り始めたので、登未は追走する。
悲鳴混じりで月夜が逃げていくので、登未は追いかける。
マジ走りではないので、捕まえようと思えば捕まえられる。
しかし、捕まえて首筋に鼻を埋めるような真似はできない。
月夜と登未は、そんなことが許される関係ではない。
登未は早々と追撃を諦める。許可が得られないのに、匂いを嗅ぐのは少々よくない。
また下手に動いて、再度汗を掻くのは御免だった。
「なんだかな……」
登未は頭を掻きながら、顔に風を受ける。
日も落ちて、気温は下がっていた。冷えた夜風が火照った身体を冷めるのを感じた。
登未が足を止めたのに気づいたのか、逃げていた月夜が戻ってきた。
汗を掻くような運動ではないが、月夜は風を受けて気持ちよさそうにしている。
「風が冷たくて気持ちいいね」
「本当にな。夜だもん、風だって冷たくなる」
「風も強めだよ。天然の扇風機で良い感じ」
「てか、こんな時間になるなんて、想像もしてなかった」
「わたしもだよ。手ぶらでこんなに出歩くなんて、女としてちょっとどうかと思ってるよ」
朝、軽い気持ちで散歩に出たはずなのに、日が暮れている。
歩いて、狭いカラオケの部屋で熱唱し汗を流した。
月夜からすると汗で崩れた化粧を直すこともできないまま、ずっと過ごしているのだ。
どのような心情でいるのか、男の登未には計り知れない。
(まあ、化粧が落ちてもさほど変わらないのが、凄いわな)
何か変わったのか、と思ってしまうほどだった。化粧など必要なのかとも考えてしまう。
しかし、そんなことは口にはできない。
男の思う化粧と、女性の考える化粧の概念は大きく異なる。
下手なことを口にして、気分を害させるのはよくない。
「まあ、そろそろ帰ろうか。俺は、一刻も早く風呂に入りたい」
思えば昨日もシャワーだけで済ませた。朝もシャワーだけだ。
ゆっくりと湯船に入りたい。
登未の本心だった。
「うん。わたしもお風呂入りたい、けど……」
月夜も登未の言葉に同意した。しかし、言葉を続けながら月夜は腹部に手を当てる。
「わたしは、かなりお腹が空いている」
悲しそうな顔で月夜は登未を見上げた。
目が訴えている。風呂よりも飯だと。
「ん。腹が減ったのは同意だ」
昼食を軽食で済ませ、その後6時間歌い続けたのだ。カロリーの消費量は計り知れず、空腹度は強い。登未とて腹が減っている。今すぐに何かを胃に入れたかった。
「どこかに寄って、食って帰るか?」
「ちなみに、何を食べるの?」
「んー、そうだな。がっつりと食べたいところだな」
「おー! すごく魅力的だね!」
話ながら、登未と月夜は歩き出す。汗を気にしていたのは、どこに言ったのやら。
月夜は定位置になりつつある、登未の左脇を歩いた。
「こっちのルートを帰れば、カツ丼にありつける」
「たしか、チェーン店があったような」
「おう、そこだ」
「……あそこかぁ」
月夜はがっかりした声をあげる。なるほど、街案内ついでに、美味い飯屋を紹介してくれると期待していたのだろう。食事を取るのにチェーン店へ行くのは、少々期待外れかもしれない。
「へっ、この辺に美味い飯屋がいっぱいあるなら、自炊なんかしねえし」
「んー……、それなら登未くんのご飯が良いなぁ」
「作るのは、やぶさかじゃないけど。でも、ぶっちゃけ疲れてる」
「だよねぇ」
「次の機会を待つがよい」
「じゃあ明日あたり?」
「はええな」
明日と言えば平日だ。仕事帰りに家に寄れと言うつもりか。
月夜の言葉に登未は検討してみる。月夜の家の広いキッチンが使えるのは魅力的だ。
「……、まあ別にかまわんけど」
「なら、今日のところはチェーン店で良しとしましょう」
「おお、偉そうだ。全力で匂い嗅ぐぞ?」
「えー。お風呂上がってからにしてくれるかな」
「……風呂上がったら、いいのかよ」
「まあ、それなら。登未くんならいっかなって?」
「俺をなんだと思ってんの?」
「わたしに興味が無い人?」
「……正しい認識だ。今の俺は、お前さんの匂いに興味津々だけど?」
「え、変態さんなの?」
「人の匂いを嗅いだのは、お前さんが先だ」
「うー。少しだけなら」
「どれどれ」
「うう……、鼻息がくすぐったい」
「……臭くねえじゃねえか。いい匂いだぞ、こら」
「汗を掻いた状態で、その言葉を聞くのはかなり嫌なんですけど」
「それを言うなら、お前さんだって似たようなことを言っている」
「むう」
月夜と話ながら道を歩く。冗談の応酬で、月夜の顔は笑顔のままだ。
カラオケに入った当初の沈んだ顔もなく、また朝から続いていた観察するような顔でもない。
(なにか、決着が付いたんだろうかね)
登未は歩きながら、小さく息を吐く。何に悩んでいたか、正確にはわからないが、気が晴れたならそれでいい。貴重な日曜日という休日を全て月夜に費やしたのだ。そうでなくては、困る。登未は笑顔満面で隣を歩く月夜の顔を眺めて、そしてふと家の中にある洗濯物をどうしようかと、溜息を吐いた。
◆◇◆
「……びっくりだよ」
月夜がお茶を飲んだ後、呟いた。登未も湯飲みを片手に隣に座る月夜に視線を向ける。
「……こんなに美味しかったっけ?」
月夜がカツ丼の入っていた器を見ながら、呆然としていた。チェーン店と侮っていたようだ。最初は渋々と言った感じで食べていたが、すぐにがっつき始めた月夜は、見ていて愉快だった。
「美味かったな。でかいフライヤー使っているだけある。揚げ具合は絶対勝てる気がしない」
「え、登未くんの腕でも敵わないの?」
「俺を料理のプロかなんだと思ってんの?」
目を丸くし驚愕する月夜を見て、登未は呆れた視線と共に溜息を吐く。
味付けはともかく、油をたっぷり使った揚げ物の仕上がりには、敵う訳がない。
家庭料理では肉を入れた際に、油の温度が下がってしまう。
からっと揚げるのは、揚げ物用の調理器具を備える店の方が上手だ。
「揚げ物は奥が深いのだよ」
「ううん。一度味わってみないと判断できないんで、まずは唐揚げからでお願いします」
「食べたばかりで、よくも次の食事を考えられるな」
さりげなく大胆に献立をリクエストしてきた月夜の額を小突き、登未はお茶を啜る。
そして空になった丼を眺めて、心の中で首を捻る。
月夜ではないが、登未も今日のカツ丼は美味しく感じていた。
(……今日のバイトの腕がよかったのかな?)
予測を立ててみたものの、すっきりしない。直感で原因が違うと思っているようだ。
疲れて空腹だったことを差し引いても、納得できず、ふうむと小さく唸る。
答えを模索しようにも、よくわからない。
己で、五分を超えるような悩みは、途中で止めるように決めている。
思考を止めて、登未は茶を飲み干すと、卓に湯飲みを置いた。
「じゃ、行くかね」
「うん」
席を立つと月夜も続く。会計を済ませ、外に出ると既に真っ暗だった。
スマホで時刻を確認すると、19時を超えている。
冗談ではなく、日曜日が終わってしまった。
せっかくの休みをデートで費やす。
とびきりの美少女とデートだ。それは良い。とても素晴らしい。
しかしながら、会社の後輩だ。
発展のしようもない人間を相手にしていると思うと虚しさは
何をしているのだろうと、苦笑を浮かべてしまう。
「ね、登未くん」
スマホから目を離して、月夜を見る。
月夜は登未から少し離れて、胸の前で指を組んでいた。
顎を引き、上目遣いで登未を見ている。
もはや慣れた。そして覚えた。
何かをねだるときの、月夜の表情だ。
「はいはい。なんでしょうかね、お嬢様」
「もう少し歩きたいなって」
食後の運動を申し出てきた。引きこもりが言ってくれると、登未は笑みを浮かべる。
ここまで来た以上、月夜に付き合いきるのも一興だ。
「承った。どこか行きたいところは?」
「昼に行った海!」
月夜が指を立てて、登未に笑顔を向けた。
よほど気に入ったようだ。
しかし一度行った場所を見て面白みがあるとは思えない。
「いいけど……、何もないぞ?」
「いや、夜の海って見たことないなって」
登未は頷く。確かに、夜の海など行こうとしなければ見たことはないだろう。
しかし、ただの公園に面する海であり、船の灯りや夜景も望めない場所である。
満足するのだろうかと、登未は躊躇うが、見たいと言われれば見せてみようと考えた。
「ま、いいけどね。まだ入れるし」
「へ? 入れなくなるの?」
「九時を越えたら、門が閉まるんだ」
区の運営する公園だ。夜間に荒らされては敵わないため、立ち入りを防ぐのは当然だ。
しかし時間はまだ残されている。のんびりと何もない海を飽きるまで眺めてもお釣りが来る。
「じゃ、行きますか」
「うん」
登未は月夜を伴い、道を進む。夜になり、人気は減っている。
歩く者は、買い物帰りなど帰路につく者ばかりだ。
この調子では、公園には誰も居ないはずだろう。
(夜の海ね。言葉の響きは良いけど、がっかりすんだろうなぁ)
風情も何もない海を見て、月夜はどのような反応をするのか。
月夜の姿を想像し、その後にどんな慰めの声をかけようか。
登未は考えながら、道を歩いた。
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