第10話 喫煙者のコミュニケーション


 宇田津 登未の日常は変わり、一週間が経った。


「ウダさ、最近普通に会社来るよな」

「……そうっすかね」


 登未は言葉を選んだ。

 会話の相手は課長だ。登未を見ながら、課長は煙草に火をつけようとしている。


「おお。30分前には席についてるし、割と管理職で話題になってる」


 会社、特に長く勤めている者の感覚は特殊だ。

 始業前は早く来た方が良い、という感覚だ。

 遅くまで残る残業は、労働組合や総務、そして報道などで問題になるのは知っているようだが、始業前の仕事も残業となることを意識から除外している。


(まあ、いいんだけどね)


 かと言って、その意識を変革しようとは思わない。

 登未は煙を静かに吐きながら、課長との会話を続ける。


「なんだ? 早く帰ってる訳じゃないから、目覚まし時計でも変えたか?」

「そっすね、まあそんな感じですかね」


 実際、目覚ましは変わった。

 毎朝、電話が鳴るようになった。

 寝ぼけながら電話に出て、無駄にご機嫌な挨拶を聞いて目を覚ます。

 そんな日が続いて一週間が経過していた。


(……なんというか、な)


 日中の仕事も少し変わった。

 一日、数度。問い合わせが増えた。

 スマホが胸ポケットで震えた。

 煙草を咥えたまま、登未はスマホの画面を見る。


『どこですー?』


 月夜からのメッセージだった。

 登未は『課長と屋上で喫煙所』と返した。すぐに返信が届く。


(お待ちしております、ね)


 送られたスタンプを眺める。

 登未が使うものと同じシリーズのスタンプだ。

 いつの間にか、全種コンプリートしている。

 登未も専ら、同シリーズのスタンプを使うようになった。


(……なんだかな)


 気持ちのままに、深く息を吐いてしまった。

 息と共に吐いた煙が宙に消えるのを眺めながら、登未はスマホを戻す。

 課長が不思議そうな目で登未を見ていることに気づいた。


「また問い合わせか?」

「……ええ、まあ。5月も後半だってのに、落ち着かないですよね」


 煙草を指先で叩き、灰を吸い殻入れのバケツに落とす。

 中に入った水に灰は落ち、じゅっと音を立てた。


「ずっと電話ばっかしてるよな」

「直接、営業も聞きに来ますし。部内の他の連中もですよ」

「そういや、飯田ちゃんにもよく質問されてるな」

「皆もですけど、なんで他の人に聞かないんですかね?」

「すぐに答えが返ってくるからじゃないのか?」


 課長の即答が全てだった。月夜だけでなく、他の者も挙って登未に訊ねに来る。

 殆どが初歩的なことの見落としであるため、時間はかからないが数が多く、登未の本来の仕事が片付かない。したがって、登未は未だに残業の毎日を続けている。


「実際、飯田ちゃんって、どうよ?」

「どうって、頭は良いと思いますよ? 言ったことは覚えるし」


 登未は率直な感想を告げる。

 しかし口にしてみれば、あまりにも普通なことであり、思わず苦笑する。

 が、世の中は、そんな当然なことすらできない者だらけだ。

 だからこそ、問い合わせも多いと納得してしまう。

 教えたことや、命じたことを忘れないのは、それだけで充分な有能と言えるのが現状だ。


(有能っていうほどじゃないんだけど)


 義務教育とは、いったい――そう思ってしまう連中が多い中、月夜はまともな行動を取る。

 聞いたことはメモを取った。

 書いたメモを見てみれば、きちんと要点をまとめていることも知っている。

 そして、次回以降の問い合わせでは、教えたことはしっかりと実行してきた。


(あの子は、まあ真面目だ。覚える気もあるし、学ぶ気もある。そもそも効率がいい)


 月夜の姿を見ていると、他の人間の不真面目さが目立つ。

 姿勢だけ学ぼうとしている、実際に何も覚えようとしない者は多い。

 当人にとって譲れないポリシーがあるのかもしれない。

 または、指示したことの優先度が高くないと認識しているのかもしれない。


(指示した『簡単なこと』すらできないって、イコール無能なんだがなぁ)


 指示する者を選り好んでいるのだとすれば、間違っている。

 上司から、仕事はどうだ? と考課の一端で訊ねられることを想定していない。

 言ったことをしないのは、やる気のなさの証明でしかなく、評価も下がる。

 無意味な反抗心で、効率の悪い仕事をしていることについて、どう思っているのか。

 一度、聞いてみたいと思うところだ。


(周りに毒されないと良いけど)


 そして考えるのは、月夜のことだ。

 仕事以外の空き時間は、おおむね月夜のことを考えている気がする。

 しかし心配だった。

 朱に交われば赤くなる。

 この場合は黒だろうか。どんな華やかな色でも黒が混ざれば、もう元の色には戻れない。

 ダメな社員の思考は触れさせてはならない。


(まあ。それもあるから、距離を取りたいんだ。ちくしょう)


 仕事での関わりは最低限にしたいと思っていた。本来ならば指導役の社員がしなければいけないような、正論での考え、正論から外れるが状況的に正しい考えをケースに分けて登未は月夜に教えていた。思いの外、月夜が優秀だったから始めてしまった。


(自分で首を絞めているなぁ……)


 遠い目で屋上に広がる灰色の空を見ながら、登未は煙を大きく吐き出した。

 本日は曇天なり。午後から雨が降ると聞いた。梅雨入りは近い。


「いや。そうじゃなくて、だ」


 課長が呆れたように登未の思考を中断させた。

 特に有益な何かを考えていた訳じゃないので、すぐに課長に向き直る。

 課長は唇を歪めて、登未を見ていた。好奇の色が瞳に混ざっているように感じる。


「飯田ちゃん、わざわざお前に聞きに来てるんだろ? 嬉しいだろ」

「ははっ、そういうことでしたか」


 笑顔とは便利だ。目を細めれば、瞳の大半を隠せ、口角を上げれば感情を隠せる。

 登未は内に湧き出る不快感を表に出さないことに成功する。

 感情を表に出さない顔は、もう一つある。

 登未はすっと表情を変えた。


「あの子が可哀想なんで、やめてあげてくださいな」


 登未は真顔になって、課長を見る。課長は数度瞬きをすると、深く溜息を吐いた。


「あー……。お前、そういうの気にするもんなぁ」

「色んな人の、見てきましたからね。こんなのと噂にされちゃ、可哀想ですよ。茶化しでも言わない方がいいっす」


 社内の噂はよく広がる。誰それが手を繋いで歩いていた、と目撃したという情報について、地方の営業所の所長から、本当か? と転送されてきたときは、どん引きした。

 登未は煙草の吸い殻を、バケツに放り捨てる。課長も吸っていた煙草を捨て、屋上から階下へ繋がる扉を開けた。


「枯れてんなぁ。普通、美人が寄ってきたら、最低でも喜ぶだろ?」

「あー……。目の保養にはなってますけど、それくらいっすかね。それに」


 課長に続いて階段を降りながら、登未は苦笑を浮かべた。


「それに?」

「ほら、高校とかで、やたらと教師につるみたがる人いなかったっすか?」

「ああ、いたな」

「たぶんですけど、あんな感覚じゃないですかね?」


 教諭を先生と呼ばず、友達か何かのように呼んだり接したりする学生は割と多い。

 馴れ馴れしいと思わないのだろうか。しかしギスギスするよりも良いのだろう。


「宇田津先生ってか。そのうち、名前で呼ばれんじゃねえの?」

「さあ。もしするんだったら、職制にはしないよう注意しときますけど」

「たしか、ちゃん付けとかしてたよな? 呼ばれてえ」

「俺はごめんです」

「ほんっと、枯れてんなぁ」


 肩をすくめる課長の背中を見ながら、登未は心の中で、口には出せない言葉を加える。


(実際に、枯れてるんで)


 登未のスマホが、震えた。

 月夜からのメッセージだった。戻るのが遅いから、探しに向かう所存らしい。

 すぐに戻るから少し待て、と月夜に送り、登未は足を止めた。


「あ、すんません。缶コーヒー買って戻ります」

「おう。俺は会議に入るから、何かあったら頼むわ」

「へい」


 課長はそのまま階段を降りていき、登未は階下のフロアを進む。昨今の会社は、大抵自動販売機が置かれている。登未の会社では、自販機は最上階に設置されていた。


(自分で口にしてアレだが、教師か)


 尻ポケットから小銭入れを取り出しながら、登未はふと考える。

 月夜の登未への接し方について、『教師』は言い得て妙だと思った。

 月夜自身も、『先生みたい』と口にしていたことも思い出す。


(そういや、明日はもう土曜日か)


 自販機の前に立ち、取り出した硬貨を入れる。

 点灯したボタンの中から、ブラック缶コーヒーの下のボタンを選んで押下した。


(せっかくだし、現役がどう対処してるのか訊いてみるか)


 休日ではあるが、友人と集まって飲むことになっている。

 集合時間が異様に早く、嫌な予感がしたが、いつものことなので気にしないことにした。

 取り出し口に手を突っ込み、取り出した後、ふと新製品が増えていることに気づいた。

 缶コーヒーの並ぶ中、異質なピンク基調の飲み物だ。

 名前はいちごミルクと書いてある。


「ん……」


 悩んだ後、登未は硬貨を自販機に入れて、点灯したボタンを押す。このまま戻れば、まず月夜からの問い合わせを受ける。待たせた詫び、そして教えを守って事前に情報を集めていることに、多少の何かがあっても良いはずだ。


(ま、褒めることは良いことだ)


 鼻を鳴らした登未は、ピンク色の缶をスーツのポケットにねじ込んだ。

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