7
ディオが目覚めると、日付が一つ刻んでいた。頭は大分すっきりとした心地で、スコールが用意してくれた粥を食べながら、教育へ出発する前のヒバリが見舞いの品に届けてくれたという花の香りを楽しむ。
しかし、ノルディス・クラウディアが診察に離宮を訪れる直前辺りから、また頭がぼうっとし始めた。診察に来た彼もやはり、「まだ熱が下がりきってないね」と、困り顔をした。
通常、発熱は薬や魔法を処方して下げるものらしい。今回の診断は心因性という事で、精神力を魔法へと変換する魔術者相手にはそのどちらをも処方できないそうだ。ディオにできるのは、ひたすら眠って体を休める事だった。
「体、なまっちゃうなぁ」
そうむくれた顔をすると、診察を終えたノルディスは苦笑いをした。主人の声にスコールはいつも通り、眉を怒らせて反応する。
「何言ってるのよ。フランチェスカ様に、ヒューゴ様にクラウディア様。ただでさえ騎士様達にご迷惑をかけているんだから、黙って寝てなさい。手水と湯浴み以外でベッドから降りたら、ただじゃおかないわよ」
彼女の正論に「はぁい」とディオは唇を尖らせる。ノルディスも念を押すように言った。
「まだ熱は下がりきってないし、ここ二三日は体を休ませる事に専念してね。明日の朝、また診に来るよ」
言って背中を見せた彼を見送る為に、スコールも部屋を出た。ディオは致し方ないと尖った唇のまま、布団に潜り込む。
厚い布団を口元までかけると、ツンとする頭に昨日の記憶が蘇った。気を失う前、マイクロフトに運ばれながら確か、熱に浮かされて何かを言った様な気がする。
自分の発した言葉は曖昧模糊としていても、直後に彼が何と言ったかは、鮮明に覚えていた。
『黙れ』
そう。目も向けられず、そう言われた。思い出すだけで、胸の辺りを何か鋭いもので貫かれた様だ。
初回の護身術教育では、直々に手合わせをして貰って、彼はディオの実力を認めて、言葉をくれた。
だというのに、体調の管理も出来ずに無理をして倒れ、この様だ。きっと、思ったより頼りない奴だったと、呆れられたに違いない。
悔しい。戻れるなら、倒れる前に戻りたい。今度は気なんて失わずに、耐えきる。面倒なんてかけさせないから、呆れないで欲しい。
ぐっと、頬を噛みしめた。全ては熱のせいだ。この火照る頭が、嫌な考えばかりを持ってくる。
襲い来る負の感情から自分を守る様に、彼女は布団を頭まで引っ張り上げると、その中で丸くなった。
・
・
・
『見込み違いだったな』
頭の中に直接囁かれたかの様な声に、がばりと身を起こす。心臓がドキドキと脈打っている。
短い夢だった。何があったのか思い出そうとする程、夢は頭の中からこぼれ落ちていく。もう思い出す事は出来ない。
しかし、その言葉を言った声が誰だったかは思い出す事が出来た。
「フランチェスカ様……」
布団に涙が落ちる。マイクロフトに面と向かってそれを言われて、自分の足下が崩れ去り、一気に落ちた。夢から覚める直前、彼女を取り巻いていたのは、恐れと、不安と、後悔。
高鳴る胸を落ち着かせようとしていると、部屋の中が妙に静まりかえっている事に気付いた。天蓋のカーテンに手をかけて、開いてみる。
そこには誰もいなかった。時計を見る。さっきスコールがノルディスを送りに部屋を出てから、三十分が経っていた。
「……」
世界から取り残された様な感覚が、彼女を襲う。
きっと、みんな嫌になってしまったのだろう。こんな、頼りない、発熱如きで倒れてしまうみっともない彼女を、みんなが見限ってしまったのだ。
この時間も、ヒバリは一人で頑張っている。もしかしたら、足手まといがいないおかげでいつもより教育がはかどっているかもしれない。楽しそうに笑って騎士達から教育を受けるヒバリの幻想が、頭を掠めた。
「ヒバリ……」
窓の外で鳥が鳴いた。そちらに目を向ける。
身の丈ほどもある大きな窓の外には、バルコニーが突き出ている。その外、手を伸ばせば触れあえそうな距離で、庭園の木の枝から一羽の小鳥が飛び立った。
彼女はうつろな頭のまま、手すりに足をかける。
☆
昼食に戻ったヒバリとその侍女を慌てた様子で迎えたのは、スコールだった。馬車を降りた彼女に、神妙な面持ちで駆け寄る。
「どうしたの、スコールさん?」
「あの女、見なかった?」
答える彼女の声は、震えていた。
「あの女?」と、ユフィーは首を傾げたが、ヒバリにはピンときた。
「ディオの事? 部屋で寝てるんじゃ」
「そのはずなのよ……。でも、少し目を離した隙にベッドからいなくなっていて――バルコニーの窓が開いていて……」
焦燥に前髪をくしゃりと掴んだ彼女の肩を、ユフィーは冷静な声で掴んだ。
「スコール、落ち着いて。どなたか、騎士様に連絡は?」
「――落ち着いてるわよ……。今、騎士様を呼びに行かせたわ。もう……あいつどこに……」
答えるスコールの手は、震えていた。ユフィーは友人を主人に任せる。
「ヒバリ様、彼女をお願いします」
そう早口に言うと、ユフィーは駆けだして離宮に向かった。不安と焦燥に駆られるスコールの肩を、だいじょうぶよ、と抱いたヒバリだったが、スコールは震える声で彼女に問うた。
「……もし、いなかったら?」
「え?」
呟く様な彼女の声に顔を向けると、不安と混乱に犯された彼女の顔が、ヒバリを向いた。
「もし……もし入り込んだ何者かに誘拐なんてされていたら……!? ……私は……私は、どうしたら……!」
背中に嫌な汗を掻きながら、ヒバリは既視感を覚えていた。村で昔、似たような事があったのだ。
まだ幼かったディオが、夕刻になっても戻らないと彼女の家族――村長夫妻が血相変えて、ヒバリの所まで探しにきたのだ。
あの時、村中の人たちが大声で探し回る中、森の入り口から一人ケロリとして帰ってきたディオは、父親である村長に大目玉を食らってたっけ。
そう、あの時もそうだった。誰よりも強いディオが誰かに拐かされるなんて、そんなことはある筈が無い。
蒼白な顔をするスコールを勇気づける様に、ヒバリは語りかける。
「落ち着いて、スコールさん。その心配なら絶対に無いわ」
「……そんなこと、わからないじゃない!」
「だって私、ディオとはずっと一緒に育ってきたもの。あの子は強いの。大丈夫だよ、きっと」
ヒバリの瞳の中に折れない芯を見て、スコールは迷いながらも、頷いた。
☆
ディオは晴天の中、王都をうらうらと歩く。途中に度々視線を感じたのは、彼女が着の身着のまま、寝間着姿で歩いているからだろう。
庭園の木を伝って宮殿を抜けだした彼女は、高い門をも軽々と乗り越えた。熱があるはずの体は、意外にもよく動いた。門に詰める騎士達にも恐らく気づかれていないだろうが、そこまでは頭が回らなかった。
後ろ向きな感情に押されて宮殿を出ては来たが、どこに向かったものなのか彼女自身分かっていなかった。
貴族街を抜けた辺りで少し冷えた頭が「引き返せ」と言った声を、彼女は無視した。
かと言って、王都の中に行く当てがある訳でも無い。この世界でディオが帰れる場所は、故郷のヴィゼアーダしか無い。
馬を使っても丸一日の距離だと教わった。野宿をすれば、何とか徒歩でも行けるだろう。命を繋ぐための狩りは、今まで散々やってきた事だ。
しかしそう思うと、頭をもたげるのは親友との決意だった。
女王様からの手紙が届いたあの日。二人月を見上げて『みんなの為になるなら』と、共に手を取り合って決意した、あの日。
親友と握り合った筈の手を見る。――自ら放してしまうのか、私は。
もどかしい気持ちを抱えて足の向くままに任せていると、見覚えのある通りに出た。日の曜日に巡回中の高位騎士達と遭遇した、あの通りだ。あの時、見知らぬ女性達に向けられた言葉が耳に蘇る。
『まだほんの子供じゃない!』
『女王候補!? あんなに田舎くさい娘達が!』
彼女達を黙らせられる様に、しっかりと女王候補をやろうとヒバリに言ったのは、自分ではなかったか。
ディオにはもう、分からない。自分がどうしたいのか、どうありたいのか、何も分からなかった。
「私は……」
ヒバリを裏切りたくは無い。女王様を裏切りたくは無い。しかし、戻って『何故戻ってきた』と問われるのはもっと怖い。
ふらふらと歩いていると、不意に肩がぶつかった。ぶつかった男に一瞬邪険な目を向けられたが、彼はディオの顔色を見ると態度を一瞬のうちに軟化させた。
「――っ、お、お嬢ちゃん、大丈夫かい……!? 随分、具合が悪そうだが……」
おろおろと人の良さそうな様子を見せる彼に、ディオは小さく答えて背を向ける。
「……大丈夫だ。……ぶつかって、ごめん」
背中に男の視線を感じながら、そんなに具合が悪そうに見えたか、とディオはどこか他人事の様に考える。
人混みにも疲れてきたし、周りに無用な心配をかけないように、その後は人や店を避ける路地を選んで歩いた。
そのままどれくらい歩いただろう。気づくと街外れに出ており、家も人もほとんど見当たらなくなっていた。先ほどまで、石で舗装されていた道も、土塊の道に緑が目立ってくる。そうして歩き進む内に、全くの草原に出た。どうやら王都までもを出て来てしまった様だ。
小高い丘で立ち止まった時、気持ちの良い風が吹いた。新鮮な空気を胸いっぱいに吸う。
「――――はあ……」
深く呼吸して、息を吐く。気付けば太陽は空高く昇っており、離宮ではとっくに昼食の時間を過ぎているだろう。風を受けて目覚めた様な体に、腹の虫が鳴る。
ふと、悪戯な風に乗ってきた香りが、鼻腔をくすぐった。香ばしく表面を焼いたバターロールと、甘いスクランブルエッグの香り。つい、足がそちらへ向いてしまう。そこに見えている木立の方角からだった。いつの間にか、うんと体が軽くなっていた。
木立を上り伝って進むと、そこは森に囲まれた大きな土地だった。ぽつんとひと棟の建物が建っており、やがてディオは、そこがいつも護身術教育で使う演習場である事に気付いた。
廠者から一般の騎士が出入りしており、鼻腔をくすぐる香りはそこから流れてきている。建物から離れた所では、その他の騎士達がこちらに背中を見せて二つの固まりを作っており、見事な整列をしていた。
「礼!」という、聞き覚えのある声が鋭く響く。整列を崩さない騎士達は、号令に合わせて剣を掲げた。
彼らが構える剣は、ディオやヒバリに与えられているものより刀身が長い。それを片手で軽々と、しかも一糸乱れぬ動きで眼前にピタリと構えるその精錬された美しさに、木の上からそれを見ていたディオは思わず感嘆のため息を漏らした。
もっとよく見たい。騎士達の動きを観察する為に、いい位置取りを捜して猿のように木の枝を渡り歩くと、突然、後方から声がかかった。
「何者だ!?」
「!」
とっさに振り返る。どこから追われていたのか、一般騎士がこちらを見上げて弓を構えていた。やば、とディオは、声を漏らして隣の木に飛び移る。
「動くな!」
一声と共に、背後から矢が飛んでくる。躱そうとしたが、肩を掠める。瞬間、体勢を崩して足が空を掴んだ。
落ちる。ディオは危うい所で受け身を取ると、低い姿勢を保ち逃げ道を捜す。追いすがってきた騎士が、二本目の矢をつがえて構えた。
「貴様、ここで何をしている!」
騎士は厳しい面持ちでこちらを睨んでおり、鏃はディオの動きを確実に止められる足下に向けられている。無理矢理逃げようとすれば、負傷するのは避けられない。ディオはぐっと唇を噛み後退る。背が木の幹にどんとぶつかり、彼女はその場にぺたんと座り込む
彼女に長年染みついた闘争心は、ここでどうしたらこの急場を凌げるかを懸命に考える。両の眼は騎士を睨み付け、その頭では反撃の一手を捜していた。
しかし、その難局は、騎士の背後から発せられた一声によってあまりにも簡単に打ち砕かれた。
「女王候補だ。怪しい者ではない」
聞き慣れた厳格な声。鏃を向けていた騎士の顔がさっと青く変わる。
彼は自分が追い詰めた人物の顔を注視し、背後に立った団長を振り返り、今度は近づいてきてディオの顔を見ながら分厚い眼鏡をかけた。どうやら目が悪いらしい。
「し、失礼しました! 申し訳ありません!」
今にも自決してしまいそうな勢いで頭を下げる騎士だったが、ディオにはその背後に立つマイクロフトの鬼神の如き佇まいしか目に入らない。
「……ディオ・フィリア・グランディエ。何故この様なところにいるのか、説明して貰おうか?」
今度はディオの顔色が青くなる番だった。まさかマイクロフト・フランチェスカ率いる第一騎士団が演習中だったとは。彼女が仰ぎ見た彼の表情は、いつもの厳格さに、より静かな怒りを色濃く混ぜたものになっていた。
☆
ディオは射られた肩を含めて、演習に同行していた第九騎士団員の診察を受けた。肩は彼女に言わせればかすり傷だし、熱もふらつき歩いている内に下がっていた様だった。
他の団員と一緒に昼食をごちそうになった後、マイクロフトは言葉少なに「宮殿へ送り届ける。乗れ」と、彼女を彼の愛馬に乗せて手綱を取った。
彼の大きな背に掴まって、ディオは今日一日歩いてきた道を辿る。
また、情けない姿を見せてしまった。もうきっと、彼が自分を認めてくれる事は無いだろう、と彼女は観念したように目を伏せる。マイクロフトは一度も口を開かず、ただ馬を進めた。
王都に着くと、街中が蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。騎士が幾人も行き交っており、通行人や商店の店員に何かを聞いたり、危急の様子で路地を覗き込んだりしている。皆が何かを捜している様だった。
慣れてきた馬上につい油断をして、ディオは口を開く。
「……今日は騎士様の巡回が多いですね」
答えるマイクロフトの声は堅い。
「女王候補が宮殿から消えれば、それはそうだろうな」
その返答にディオの顔色は、ぐっ、と居心地の悪そうなそれに変わった。
マイクロフトが馬を進めると、彼の言う通り、突然姿を現した女王候補に騎士達は目を瞠った。一人の騎士が駆けてくる。
「第六騎士団、アイザック・ハミルトンです。フランチェスカ団長、女王候補様とは一体どちらで……?」
名乗った騎士を、マイクロフトは手で制して、命令する。
「宮殿に、女王候補発見・帰還の旨を伝えよ。女王候補捜索に加わっている者にも伝令を出せ」
アイザック・ハミルトンは敬礼すると、すぐに踵を返して街中に駆けていった。
マイクロフトは背中で縮こまっているディオに一瞥をくれると、無言で馬を進ませた。彼の切れ長の瞳が「見たか」と言った気がした。皆が心配しているのだぞ、と。
軽い気持ちで宮殿を出たディオのわがままな行動が、皆に迷惑をかけている。昔、一人森からの帰りが遅くなって家族にどやされた事の比ではない。通りを駆ける騎士達や、それを何事かと見ている国民達に、見せる顔が無い。もういっそ、消えてしまいたい。
「…………ごめんなさい……」
呟く様に言った彼女の姿を、マイクロフトは自身のマントで隠した。
☆
門番に「女王候補様、ご無事で」と敬礼で迎えられたディオとマイクロフトは、馬を預けて宮殿に入った。
そこには第四騎士団の副団長が控えていた。
「謁見の間で女王陛下がお待ちです」
「ああ」
第四副団長の言葉にディオが答える隙を与えず、マイクロフトは彼女を伴いまっすぐに謁見の間に向かう。
謁見の間では女王夫妻、ヒバリ、そして八人の高位騎士達がディオを待っていた。マイクロフトとディオが入ってきた途端、安堵に顔を歪めたヒバリがディオに駆け寄り、抱きついた。
「……また黙ってどこかいっちゃう癖、変わってないんだから」
「……ごめん。ヒバリ」
ヒバリの声は、ただ静かだった。
「私じゃなくて、まず女王様に謝って。それから、後でスコールさんにもね。本当に死んじゃいそうなくらい、気が動転してたんだから」
言うべき事を言ったヒバリは、すぐにディオの体を解放した。彼女はそのまま女王の前に歩みを進める。マイクロフトはその場で止まらず、女王の後ろに並ぶ騎士達の列に加わった。
女王がいつもの温もりを無くした瞳で、彼女を見る。
「戻りましたか。ディオ・フィリア・グランディエ」
ディオはその場で膝を折って床に手をつき、頭を垂れた。
「私の身勝手な振る舞いで、皆様にご迷惑をおかけしました! 申し訳ございません!」
騎士の様に頭を下げたディオに女王は厳しい顔を向けたがしかし、その顔は長く続かなかった。
「うわぁあ~~ん! 心配したじゃないの、ディオのばかぁ、ばかばかぁ!」
威厳をかなぐり捨てた女王は思春期の少女の様に顔を真っ赤にして玉座を駆け下り、ディオの体に飛びついた。その行動に、場にいた全員が目を丸くして驚く。
飛びつかれた本人も、あまりの驚きに体が硬直している。
「どこも怪我はないの!? お腹は減ってない!?」と矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくる女王が、ディオの肩口に手当てされた傷を見つけた。
「まぁ、肩を怪我しているじゃないの! どうしたの!? 誰にやられたの!?」
その言葉に、マイクロフトは、はっとする。
間違いであるとはいえ、女王候補を傷つけてしまったという事実には変わりない。彼女を射てしまった部下には、出頭命令が出るだろう。
とはいえ、職務に忠実に周囲の警戒をしていた彼にも罪は無い。マイクロフトが口を開こうとした、その時、ディオが頭を掻きながら恥ずべき事の様に答えた。
「あはは……木の枝に引っかかってしまって……」
その言葉にマイクロフトは耳を疑った。女王・アンジュはその言葉を鵜呑みに、まるで猫の子を叱るような声を出す。
「まぁっ、また木登りをしていたのね、いけない子なんだから!」
立ち上がった王配が、伴侶の言動に呆れながら注意した。
「これこれ。それより先に、注意しなきゃいけない事があるだろう」
「あっ、そうだったわ!」
女王は取り乱していた自分を恥じてか赤くなり、コホン、とひとつ咳払いをして改まった。すっと、女王の威厳を眼光に宿し、ディオを見つめる。
「ディオ・フィリア・グランディエ。何故宮殿を抜け出したの?」
声色を変えた女王の質問に、ディオは顔を上げる。つい、視線が背後に控えたマイクロフトに行った。それに気付いた彼は、不思議そうにこちらを見る。
ディオはすぐに視線を外したが、それを女王は見逃していなかった。
「何? マイクロフトがどうしたの? ……マイクロフト、貴方、この子に何かしたんじゃないでしょうね……?」
「えっ……!? いや、私は何も――」
女王が滲ませた黒い気迫に狼狽えるマイクロフトだったが、彼女はそんな騎士の様子を無視すると、膝を突いてディオの手を握り、顔を寄せた。
「大きい声で言わなくてもいいわ。……私にだけ、教えてくれる?」
そう優しく言って耳を寄せた女王に、逆らえる筈も無かった。ディオは迷ったあと、意を決して耳打ちをする。
彼女の告白を聞いて、女王の優しかった目尻が、かっと開いた。顔を離すと、鬼神の如き迫力で後ろの彼を振り向く。
「マイクロフトォォ!」
「……は、はっ」
呼ばわれ返事をするマイクロフトだったが、女王はその胸を小突いた。
「な~にが『はっ』よ! そんな涼しい顔してディオに『黙れ』なんて暴言を吐くなんて、よくできたものね! この唐変木!」
「えっ!? なっ――」
言われた彼は突然の事に混乱し、胸を叩く手に後退る。ディオは優しかった女王の変貌ぶりに、声を裏返した。
「じょ、女王様! 大丈夫! 大丈夫ですから、落ち着いて!」
しかし、アンジュは止まらない。
「教育中に倒れたディオに冷たい言葉を投げかけるなんて、見損なったわ、マイクロフト! 病気になったら誰でも気が弱くなって傷つきやすくなるものでしょう! それなのに貴方って人は……この、冷血漢! 朴念仁!」
胸を小突かれながら、マイクロフトは思い当たる節を捜す。女王の言葉通りに記憶を辿れば、一つの記憶に行き当たった。
「――あの時か……!」
熱に倒れた女王候補を廠舎に運んだ時、確かに短い会話を交わした。胸を突かれるまま、ディオに視線を移す。目が合った彼女は、さっと顔を逸らして俯いた。その一瞬見えた表情に、恐れのようなものを感じ取る。
――確かにそうは言ったが……。
「陛下、私はあの時、ただ……無理をするな、という意味で……!」
マイクロフトの弁明に、伏せったディオの顔が上がる。しかし女王は尚も止まらない。
「アンタの真意なんてどうでもいいのよ! 言葉ってぇのは伝え方でしょう!?」
荒ぶり始めた女王にマイクロフトは返す言葉を無くす。その時王配が静かに、「それは君もだよ」とそっと彼女の手を取った。しかし尚も女王の口は落ち着かずに、第一騎士団長を責め立てる言葉を吐き続けている。
高位騎士達の列に並ぶノルディスが、隣に並ぶジェレミアに肩を寄せて、声をひそめた。
「ねぇねぇ、マイルス様?」
「何さ?」と答える彼は、前を向いたまま体だけをノルディスの方に傾ぐ。
「それって、少なからずもフランチェスカ様は余裕が無かったって事じゃないの? あの人がそんな乱暴な言葉を使ってるの、聞いたこと無いもの」
「んー、私もそうっぽく聞こえるんだけどねぇ。ほら、エドの方見てみなよ、めちゃくちゃに笑ってる」
「あ、本当だ」
ノルディスが体を反らして列の向こう側に目をやると、エドワルド・オズモンドが体を折り曲げて肩を震わせていた。姿勢を戻したノルディスに、ジェレミアがニヤリとする。
「ま、こっちの方が面白いし、言わなくていいんじゃない?」
「そうですね」
ノルディスも笑顔で、その場に佇む事を選んだ。マイクロフト・フランチェスカの狼狽える姿なんて、そうそう見られるものではない。
その時、混乱の様相を呈している間にディオの声が響いた。
「ごめんなさい!」
聞こえてきたその一言に、女王も王配も振り返る。女王は伴侶の手を解くと、跪くディオに歩み寄った。
「……宮殿を抜け出し、女王候補の立場を軽んじる事は許しません。女王を軽んじるという事は、国民を軽んじるという事と同じなのよ」
厳しい声に、涙がにじんでいた。見上げるディオの目にも、涙がにじむ。その涙を見て膝を折った女王は、黒い髪の女王候補を抱きしめた。
「本当に……無事で良かった……。心配したのよ……ディオ……」
ディオがこぼした涙は、女王しか見ていなかった。
☆
女王候補の二人が退室した後、再発の防止に取り組む様に騎士達へむけて女王からの訓示があった。
「特に、使う言葉にはよぉ~~く気をつけて」
そう言いながらマイクロフトに見せた女王の暗黒の微笑みは、生涯忘れられそうに無い。 高位騎士達は今夜緊急の会議を開く事で合意し、各々任務に戻った。
マイクロフトはその足で物品庫に立ち寄り、塗り薬を持ち出した。
部下を庇ってくれた人に対しての礼を欠いては、騎士の名が廃る。薬を懐にしまい、愛馬に跨がって離宮を目指す。
懐にしまい込んだそれが、弓を射た一般騎士も気軽に使えない様な、王国一効くと評判の高級な薬品であるのはたまたまだ。それが一番に目に入る所にあり、すぐに届けた方が傷にも良かろうと思っただけであって、直接届けずに人をやるなんて事は礼を欠く行為に当たるから、この様に足を向けているだけなのであり、他意は無い至極真っ当な行為である。
……という御託を頭の中で蕩々と並べ、気づけば離宮の前に到着していた。入り口に控える従僕に来訪を告げると、一人は扉を開いて、もう一人は誰かを捜しに先に入っていった。
マイクロフトが玄関で待っていると、ややあって転がる様に階段を下りてきたのは、侍女のスコール・ド・アンリエッタだった。
「ふっ、フランチェスカ様……!」
「グランディエの具合はどうだ」
スコールの声が先ほどとは全く違う色をしているのを、ディオは階段の上から聞いていた。今日一日、マイクロフトには世話になったのに顔を出さないのは失礼かとも思ったが、スコールに髪を散々引っ張られたり、頬に彼女の爪の痕がある状態では出て行けまい。ディオ自身は気にしないが、傷を付けたスコールに悪い。
階段下で、スコールの声が跳ね上がる。
「だ、だいぶ落ち着いておりますわ! 本日は、主人が大変お世話になり、ありがとうございました!」
「気に病むな。……薬を持ってきた。一日に数回塗り込んでやるといい」
音を立てずに二人の会話を聞いていたディオだったが、薬、という単語に頭に疑問符が浮かんだ。
何回か首を傾げて、やっと肩の事に思い当たった。第九騎士団員の診察でしっかり手当をしてくれているし、ほんのかすり傷であるから気にする程ではないと言うのに。
少しの間を置き、スコールが口を開いた。
「……あ……しゅ、主人のために、わざわざ……ありがとう、ございます……」
その声音は、階上から聞き取るのが難しいほどに萎れていく――ああ、これはいけない。
マイクロフトを送り出して階上に戻ってきたスコールは案の定、当たり散らし始めた。
「ほら、フランチェスカ様がお薬を届けてくださったわよ。自分勝手に出歩いて皆様にご迷惑をかけたアンタなんかに、直接! ご自分で!」
ディオの姿に負けず劣らず、部屋も惨憺たる有様だった。ランプは砕け、書籍は散らばり、寝具やカーテンが破れ、宮殿の一室とは信じられない状態になっている。
スコール自身、主人の行方に信じられないほど心を砕いていた所に、自分が想いを寄せている男性に連れられて、その主人が戻ってきたという報せを受け取ったのだ。
彼女は握った軟膏を投げつけようと振りかぶるが、思い直してそれをテーブルの上に丁寧に置いた。ディオのためとは言え、思い人が自ら届けてくれた物を無下には扱えない。
軟膏を悲しそうに見つめるスコールに、ディオは深々と頭を下げる。
「……本当に、心配かけてごめんなさい。もうしません。絶対に」
瞬間、スコールの頭に血が上る。ディオへの心配なんて、マイクロフトと一緒に宮殿へ帰ってきた事で、全てが嫉妬の炎に変わった。
だというのに。
――私はアンタの身を最後まで心配した訳じゃ無いのに、なんでこの女は、素直に頭を下げるの。こんな、嫉妬にかられる女に。ほとんど八つ当たりをしている、醜い女相手に。
「ほんとアンタ、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むの!」
もう、止められなかった。何に一番憤りを感じているのか、もはや彼女にも判断がつかない。
「馬鹿になんか……」と言いかけた主人を、スコールの声は金切り声で遮った。
「嘘仰い! どうせ私のいない所で、私のことを笑ってるのよ! どうしてアンタが選ばれたのよ! どうして私じゃなかったのよ!」
「スコール、落ち着いて――」
「うるさい! もうアンタの顔なんか見たくも無いわ!」
そう言い捨てると、スコールは扉を開けて飛び出していってしまった。
竜巻に荒らされたような部屋で、残されたディオは呟いた。
「……どうすればいいんだよ、もう……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます