ノストロ・ペリカノ
Scene.35
ノストロ・ペリカノ
――そのエドワードの血を、あんたはもう、ペリカンのように樽の口を開けて、酔っ払うほど飲み干したではないか!
そっと、コートを掴んで、彼女は客席から立ち上がる。
客席と客席の間、暗い通路に敷かれた真紅の絨毯は、照明の暗さも相まって、赤黒い血の様に見えた。そこを通り抜けた先の光溢れるラウンジ。彼女を誘った相手は、舞台の暗紅色の幕が開いても現れない。携帯も繋がらない。彼女は溜め息をついて、携帯をジャケットのポケットに突っ込んだ。
演目は、ウィリアム・シェイクスピアのリチャード二世。
どうやら、珍しい演目らしい。
そもそも何故、ペリカンなのだろうか。
その卵を孵化させたのは、中世のキリスト教徒だ。今日、日常的に見聞きする、オレンジ色の喙に魚を入れる袋を持った大きな水鳥は、幻想の中に生息する幻鳥ペリカンからその名前が与えられた。
――母鳥は、我が子が愛おしくて堪らない。その可愛さのあまり、蛇に姿を変えて雛を噛み殺して仕舞う。変わり果てた雛鳥の姿を見つけた父鳥は嘆き悲しみ、その鋭利な喙で自らの胸を啄み、突き破る。噴き出した鮮血を雛鳥の骸に浴びせると、雛は甦る――
父親の血で甦る。
そのイメージにキリストを重ねたのだろう。
伝承の中の空を飛び交う、鳳凰やフェニックスなどの他の幻鳥の生態と比べて、ペリカンの性質は明らかに異なる。母が殺し、父の血によって、子は甦る。甦った雛鳥は、どんな声で鳴くのだろうか。
ポケットの中の携帯が嘶いた。
煙草を灰皿の上に置く。
「あのさ、ジョバンニ君。誘っといて来ないなんて、どうかと思うよ」
相変わらずだね……、と呟いて電話を切った。理由なんて、何でも良かった。寝過ごしたとか、急用ができたとか。結局、居ないことには変わりないのだから。
短くなった煙草をそのまま灰皿に残して、女はエントランスから歩み出た。チケットの半券を眺めて、溜め息をひとつ。冷たい風に凍える指先と一緒にポケットへ突っ込んだ。元々、観たかった演目ではなかったから。
ペリカンか。そう言えば、あの子も親を探していたっけ……。
理由なんて、何でも良かった。
過去なんて。いっそ全部忘れて、何も無かったみたいに、気楽に過ごしていれば楽なのに。そういうわけにもいかないから、人間は悲劇を繰り返すのだろう。
私たちの失ったものは、誰の血でも蘇らない。
「人間って不便だよね」
真っ白な雪空の下、そんなことを呟いた。
氷の都トロイカ。
この白い世界では、空白に抱かれて産まれる人間も多い。そうして産まれた者に与えられるのは、その空白を埋める人生か、その空白を持ったまま生きるかのどちらかなのだった。
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