4 今宵は

 王都へ移送中に逃亡したマンフリートがイシュタルの元へ到着してから一週間後。アドルフが帰還した。


 自ら膝をつき亡命を願い出たマンフリートへ、ヘルジェン国王はこれ以上なく傲慢に唇の端を吊り上げ、夕食を共にするよう命じた。

「ひとまずは滞在の許しを得たと思っていいのだろうか」

 それはつまり、彼にとって自分はまだ利用価値があるということだ。


 イシュタルと共にテーブルについて待つと、いつもと同じ野暮ったい服に着替えたアドルフが現れる。人前に出る時は衣装係が用意したものを着用するが、それ以外は全く意に介さないのだ。


「では食事を始めてくれ」

 好物だというガドー海老のビスクに舌鼓を打ち、料理を運んできたシェフに「これ最高だなぁ」と上機嫌に声をかけてやる。死ぬほど美味いと言うのどぐろの刺身は、時季ではないらしい。


 アドルフは各所を視察してきたらしく、漁獲量や農産物の収穫状況と税率について、しばしイシュタルと意見が交わされる。


 そんな真面目な話の最中である。唐突にアドルフがマンフリートの方を向いた。

「で、お前たちまだやってないのか」

 海老を喉に詰まらせそうになり、慌てて水で流し込む。なんだっていきなり…!


 亡命と言えば聞こえは良いが、勝手に上がり込んだのである。滞在が受入れられるかも、命の保証すらない中、鬼の居ぬ間にそんなことが出来るわけない。


 すると今度は妹の方を向く。

「お前はクソ真面目な本にかじりついてばかりで色気ゼロだもんな。エロ本作家でも呼んでやろうか?」

 その言葉にイシュタルの空気が変わったのを、マンフリートはハッキリと感じた。これはやばい。


不能ピエのくせに、誰に向かって言っているのかしら。私は自分で決めるし。男性に流されたくありませんので。軽々しく言わないことね」

「もっともらしい言葉で武装しやがって。本当は自信がなくて怖いのだろう?」


 ダァン! とテーブルを叩くと、食器が音を立てる。怒れる海神の槍を突きつけられた気がして、マンフリートは背筋を正した。

「…分かったような口きくんじゃないわよ。望むところだわ。マンフリート殿! 今夜お待ちしてますから!」


「ええぁっ…?」

 間抜けな声を背に、イシュタルは食堂から出て行ってしまった。アドルフは無邪気に爆笑する。


「可愛くないだろう? あんな一言えば三十返してくるガリ勉なんて。自分が頭いいと思ってる女だぞ。正直、嫁の貰い手に困っているんだよ」


 言うまでもなく婚姻外交は有効な手段であり、王女は重要な手札だ。産まれた時から結婚相手が決められていてもおかしくないし、マンフリートの姉たちも十代半ばで嫁に行った。

 それを考えるとイシュタルは既に二十歳を超えていて、嫁ぐには遅いといえる。


「王女をどう使うつもりなのだ?」

「外交に使うつもりはない」

「なんだと?」

「だから言っただろう、嫁ぎ先に困っていると。あらゆる縁談は来るがな」


 マンフリート脳内ランキング、ヘルジェンの不思議編。第一位は、そう言うアドルフ自身も独身である。即位して既に八年経つにもかかわらずだ。


 かといって星の数ほど恋人がいるわけでもなく、むしろ女の匂いがしなかった。髪をセットしたり、身の回りの世話をする女たちはいて、自ら冗談を言って笑わせたりもするが、明らかにではない。


 先ほどイシュタルが爆弾を落としていったが…。その視線に気づいたアドルフが、端麗な顔と声で堂々と言った。

「妹の言う通りだ。余は不能ピエだから妃は不要だ」


 男の沽券にかかわることをやすやすと明かす潔さに、感嘆と呆れどちらを感じていいのか分からない。


「国王として最悪の欠陥だな。父には母の他に側室が五人いたが、産まれたのは余と妹と、側室の間に息子が一人だけだから、父系の遺伝が強く出たのだろう。ま、余は誰か一人だけのものになるわけにいかないし、お前よりは確実にモテているしな」

 一言余計である。


「側室の息子は?」

「余が即位した時に足を引っ張ってきたから殺した」


 国民や家臣へのサービス精神が旺盛な一方で、たまに奴隷や兵士を理由なく殺すという面がアドルフにはあった。気が済むまでという表現がふさわしい行為は、不能ピエというのを聞いて、納得した気がする。


「国家の平安には王家の安泰が不可欠で、それには何よりも子孫繁栄だ。血が途絶えれば必ず内乱になる」

 それはマンフリートを含めた万国の王族の血に刷り込まれている。


「だから、子を成せ」

 一瞬何を言われたのか意味が分からなかった。

「は!? 何を言うのだ!」

 思わず立ち上がる。


「お前は死んだ妃との間に子が無かったな。お前の方に原因があるのかもしれん。だから妹と子を成したら結婚を認めてやる」

「それでは順番が違うし、何より私はもう祖国には帰れず何も持っていないし、いつ殺されるか分からぬ立場で!」


「余が良いと言っているのだ。国や領地など持たぬ方がむしろ好都合。かといってどこぞの馬の骨と結婚させるわけにはいかないし、その点お前は血統だけは文句ない。さて、国民はどう思うかな。敵国王子に寝取られたと思うか、愛する女を一途に追って亡命してきたと思うか。今のところ前者だろうな」


 楽しそうなアドルフに、ついにマンフリートは言うことができなかった。

 ———それはブレア国との講和を見据えているのか。


「始めるぞ。余が為す事をしかと見るがよい」

 代わりにアドルフはこう言って、食後の強い酒を飲み干した。


 部屋に戻りしばらくしても、頭の中は沸騰した湯で溶かされたようで、体が重たい。しかしイシュタルは待っていると言った。それをスルーするのは男としていかがなものか。


 しばらく悶々としていたが、話をするだけだと言い聞かせて彼女の部屋に向かう。

 ノックにドアを開けたイシュタルの目が据わっている。


「そなた、酔っているのか…」

 テーブルの上の酒瓶は、さっき食後に振舞われた喉が焼けるようなやつだ。


「私は構いません」

 そう言って服を脱ごうとする。


「ちょっちょっと待て! 王女、ヤケになるのは良くない。焦ることはないだろう。国王の許可も得たのだし、そなたの決心がついたらでよい」

「…どうせ色気のない可愛げのない頭でっかちな女だと思ってるのでしょう!」


「私はそうは思わない。そなたは———」

 胸元の紐が解かれる前に、マンフリートはその手を取った。


「気持ち悪い…吐きそう」

「え」

 目についた壺を取ってダッシュする。朱や藍、金色で見事な花の絵柄が施されたそれは、たぶん海の向こうから輸入した博物館級に貴重なやつだ。


 胃の中を戻し終えて口をゆすぐと、イシュタルは合わせる顔がないというように、そっぽを向いた。

「…まあ、夫婦になったら綺麗なだけではいられないから」


「今、夫婦と仰いましたか?」

 ぽつりと言っただけだが、イシュタルは目を丸くしていた。


「え? あ、アドルフから聞いていないのか?」

 いいえ…と、イシュタルの大理石のような肌が耳まで真っ赤に染まる。


「えーと、いやこれはその…なんというか…」

 予期せぬ求婚になってしまったのか。


「私だってこんな醜態でいやです!」

「そうだなその通りだ! 今のは無かったことに!」

 ようやくイシュタルが機嫌を直して笑ってくれたので、心から安堵する。


「今夜はもう休んだ方がいい。眠るまで側にいるから」

「はい」

 寝台に横になり、イシュタルがつないできた手は何にも代えがたい。そのまますぐに寝息を立て始めた。


 アドルフが波を起こす。投じる石はやがて大陸を覆う大波になるだろう。マンフリートには考えも及ばない。雪崩を前にしたような思いを見透かされていたと思う。


 しかしどれだけ翻弄されても、決してこの手だけは離さずに生きようと、そっと握り返した。

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