地獄を覗き続けている
灰色の空気が、黒い雨が、死んだ地面を濡らしている。
カタリは、対重汚染レインコートを羽織り、赤く溶けた泥に身体を横たえて息を殺していた。
肺を守る為のガスマスクから漏れる吸気音にノイズが混じる。ガスマスクの電子制御装置が壊れ始めているのだ。もうきっと、フィルターから吸い込まれ、濾過されるべき空気には毒が混じっているだろう。
「いつまで、そうしている」
カタリは顔をピクリとも動かさず、背後から聞こえる声に足の裏を向けたまま答えた。
「あと、もう少し」
カタリの視線は。黒い雨で常に照準線が邪魔されるスコープから離れない。その先には、何も見えていない。
「ひでえ姿だぜ。糞も小便も垂れ流しだ。いちおう女なんだから、ちったぁ気をつかえよな」
カタリと呼ばれた少女は、この穢れた雨と腐った泥の中で汚物で身体を汚しながら、もう1日近く食事はおろか、水さえ飲んでいない。当然、寝ていない。
「あと、もう少しだから」
カタリは、今や
物言わぬ骸が、モーゼルkar98ライフルを伏射の姿勢でかかえ、虚ろな目でスコープ越しに地獄を見ている。
「まったく、何を意地になってるのかねぇ。もっとマシな生き方もあるだろうに」
指先は凍えたように引き金に張り付き、虚ろな目はガスマスクのレンズと一つになったかのよに濁ってスコープに張り付いている。
モーゼルは、泥中でも良く動く。
「もう少し…」
「俺はさ、お前にそんなふうになってほしくなかったよ」
「………」
「こんなクソったれの世界でも、せめて人間らしく生きて欲しかった」
「………」
「汚染された雨と、腐った泥にまみれて汚物で自分を汚すような生き方なんて、してほしくなかった」
「………」
「なあ、もし俺のためだったら、もうこんなことは……」
「………来た」
黒い雨で限なく視界が不明瞭なスコープの、照準線の向こう。
追加装甲で武装したハイエースが、瓦礫で作られた山の影から頭を出した。
カタリの視線の先、およそ500mの距離で3台縦に並んで道なりに黒い煙をふかしている。
スコープの向こうを走るハイエースの先頭。ロケット弾を弾く為の追加装甲の隙間。窓の代わりにつけられた金網のその隙間に、顔が見えた。
カタリは、照準線をその顔からわずかに左にずらし、息を吸い込み始めた。
カタリは、息を大きく吸う。
毒の混じった空気が、カタリの肺を汚してゆく。
カタリは、息を大きく吐く。
ガスマスクから不快なノイズが漏れる。
息を大きく吸う。
息を大きく吐く。
黒い雨が踊っている。
息を大きく吸う。
スコープの中で十字が光った気がした。
息を大きく吐く。
銃声。
薬莢が跳ね上がり泥の中に消えた。
残響。
スコープの中で赤い華が咲いて散った。
「………これで気が済んだかい?」
誰かの声が聞こえた気がした。
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モスグリーンの影が、モーゼルkar98ライフルを杖代わりにしてフラフラと、幽鬼のように立ち上がった。
対重汚染レインコートは黒い雨で汚れ、廉価版の対軽汚染ブーツは泥と汚物にまみれている。
ガスマスクのレンズの向こうで今にも永遠に閉じそうな隈だらけの目は、地獄を無感情に吸い込んでいる。何も映らない瞳の中に。
「終わったよ」
カタリは後ろを振り向いた。
そこには、雨にうたれて朽ち果てた男の死体が、半壊したコンクリートの壁にもたれかかっていた。
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