残夏(2)
翌週末、あの男はやはり、いつものベンチで墓を見つめていた。後藤がやってくるのに気が付いた彼は、先日と同じく、さりげなくベンチの端に寄って後藤を出迎えた。
「この暑いのに、ご苦労さん」
「それを言うなら、あなたもじゃないですか」
いくら木陰とはいえ、渇いた熱気には視界も眩む。ここに何時間も座っているなんて、ひどく疲れるに違いない。墓を見つめるばかりでじりじりしているよりも、いっそ、太陽の下墓前に参ってから、クーラーのかかった休憩所に飛び込んでしまった方がいい――後藤がそう提案するのにも、男はかぶりを振った。
「何を考えて墓前に出向かんのでなく、行かれないのや」
彼のこの言いようが、後藤には理解できなかった。どんな理由でもって、墓前で死者を悼んではいけないということがあるものだろうか。
「こんなこと言っていいのかどうか分かりませんが、俺なんて、相手のことを全く知らなかったっていうのに、自分で言うのもアレですけど……白々しく毎週来てるんですよ。生前の相手との折り合いとか、気にするもんでしょうか」
男は寂しげに微笑んだ。後藤の言葉を否定せず、かといって肯定もしない、曖昧な態度だった。彼は、相手を気遣いつつも、自らの心に踏み込まれることを静かに拒んでいた。
「合わせる顔がない。もう五年になるけれども……。彼の周りの生者が私を忌むのもそうであるし、いちばんは私のために」
男の言葉は後藤の問いに応じてのものだったが、その口調は、まるで自身に語りかけているようなそれだった。
遠慮がちな風が、男を慰めるように吹き抜ける。前触れなく訪れた穏やかな沈黙に、後藤は、男がそう言った意味を問うタイミングを見失ってしまった。
しばらく、二人は口をきかなかった。静けさが妙に心地好いのは、和らいだ日差しのためかもしれなければ、男が持つ独特な空気のためかもしれない。
そうしているうち、事務所の方から、子供の声と、軽やかな足音が聞こえてきた。家族連れで墓参りだろうか。
「――五年前ってったら、俺のクラスメートが死んだのも、同じ頃なんです。あ、いつも墓参りしてるの、クラスメートなんですよ。ほら、あの墓。生きてる間はよく知りもしなかったのに、本人が死んでからは遺影の表情が忘れられないなんて、ひどい話ですよね」
後藤のつぶやきは、半ばひとりごとのようだった。彼自身、聞いてもらおうとも思っていなかったらしく、男の反応を確かめることもなく、言葉を続ける。
「透明人間みたいな奴でした。声も小さいし、存在感も薄いし。いると分かるのも、いじめられてるときくらいのもので。他のクラスには仲のいい人がいたみたいでしたけど、教室ではずっと一人でした……いや、どうだったかな。覚えている限りでは、確かそうだった気がします」
亡き級友に関して、後藤が知っていることはあまりにも少ない。とは言っても、彼以外のクラスメートたちに聞いたところで、答えは似たり寄ったりだろう。物静かで、おとなしくて、いるかいないかもわからないような子。死んだことで、ようやく周囲に認知されたかわいそうな子。かく言う後藤も、彼をそう認識していた者の一人だった。
「何をされても文句も言わないような静かな奴だったんですけど、たった一度、大声を張り上げてるところを見たことがあるんです。あの時は本当にびっくりしました。それまでは、まともに声も聞いたことなかったくらいだったから。でも、それも一度だけです」
「一度というのは?」
「クラスのうるさい奴らにノートを取り上げられた時だったはずです。あんなにおとなしい奴が、なんでノートくらいで大騒ぎするのかとも思いましたけどね」
後藤は笑ったが、これを聞いた男は神妙な面持ちで、何やら考え込むようにしてうつむいた。
「その子にとっては、たいそう大事なもんやったのやろなあ」
「でも、ノート一冊ですよ」
茶化すような調子でそう口にした後藤は、男の膝の上の封筒を見て、はっとした。例えばあのノートが、大切な人からの手紙だったなら、何年も絶やさず書きつづけてきた日記だったなら……それを知らない第三者が、からかえたものだろうか? 笑っていいものなのだろうか?
ふいに、男が激しく咳きこむ。ひどく痰の絡んだ、心臓でも吐き出すのではないかと思わせるような咳だった。
「大丈夫ですか? 人呼びましょうか?」
男は身体を折り、苦しげに喘ぎながらも、いつものことだからと後藤の申し出を拒んだ。聞けば、肺を悪くしているとのことだった。後藤は彼を気遣ったが、当人は若いころの喫煙が祟ったのだと笑うばかりで、あまり深刻には考えていないらしかった。
「いつだめになる、いつだめになると考えていると、体よりも心の方が先に参ってしまうものや。せっかく与えられた時間なら、ちゃあんと大事にせんといかん」
男はそう言うと、またひとつ咳をした。
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