清夏(8)
玄関から、乱暴に扉が閉められる音がした。佐伯はそれを聞きながら、心に穴が開いたような気持ちで、ゴミ箱を見下ろしていた。ゴミ箱には、三者面談のときに差し出した原稿と、まだ白紙の原稿用紙が雑に放り捨てられている。
嵯峨宅から帰ってきた佐伯は、家で待っていた母親と顔を合わせた。疲れ切った様子の彼女は、泣きはらした佐伯の顔を見るなり、半狂乱になって飛んできて、佐伯を抱きしめた。そして、佐伯にとって受験を目前にしたこの時期がどれほど大切かを語りはじめたのだった。話を終え、夕飯の買い物に出て行った母親の背中を、佐伯は〈いってらっしゃい〉も言えずに見送った。今日の夕飯は、きっとエビフライになるだろうと思いながら。
〈今はとても大事な時期なの。お願い、遊びならあとにしてちょうだい〉。佐伯のためにと放たれた言葉が、佐伯の中で、治りきっていない傷にしみこんでいく。佐伯にとっては、今がすべてだった。書きたいことは常に目の前にあって、紙の上に吐き出すことで心が楽になる。言いたくても言えなかったことの多くが、そうすることで、ようやく消化されていく。けれども、その感覚は母親には伝わらなかった。
〈ごめんなさい。もう二度と、小説なんか書かないから〉。佐伯がそう言うと、母親はほっとしたようだった。佐伯は、自分の中の大切ななにかが崩れていくのを感じながらも、母親が笑っているのを見て、うれしく思った。
母親の背中を見送ってずいぶん経ってから、佐伯はようやく、自分がなにを捨ててしまったのか、理解したのだった。佐伯は、かばんの中にあった原稿用紙の束を、埋まっているいないにかかわらず、すべてゴミ箱に投げ入れた。本当は燃やしてしまいたかったが、母親が燃えがらを見れば、佐伯がおかしくなったと思って泣くだろうと思ったのだった。
ゴミ箱を見つめていた佐伯は、母親の前に出した原稿の中に、金魚の話が混じっていることに気がついた。佐伯は短い話の原稿用紙を拾い上げ、目を通す。意外なことに、そこにあったのは悲劇ではなかった。佐伯が作り上げた〈特別な〉金魚は、とても美しい姿をしていた。体に合わない水を捨てて逃れた末に死を迎える金魚は、とても勇ましく、儚く描かれていたのだった。佐伯は、あの金魚を思い浮かべたときの自分がなにを求めていたのか、やっとわかった気がした。
ずっと、苦しかったのだ。体に合わない水の中で、人の中で泳いでいることが。けれども、息ができなくなるのはもっと恐ろしかった。金魚鉢から飛び出すことが死ぬことであると、佐伯の無意識は知っていた。
だが、佐伯は出会ってしまった。あの青い庭、自分の体にぴったりの、居心地のいい水に。それからは、もともとの水に戻るたび、違和感を覚えるようになった。あの水で生きたいという気持ちが、心の端で芽生えはじめた。それは少しずつ枝葉を伸ばし、夏の陽を浴びて、佐伯の中にしっかりと根を張った。
佐伯と嵯峨、二人の名もない関係は、ふとしたきっかけですぐに切れてしまいそうなほどささやかなもので、佐伯自身、それはよくわかっているつもりだった。二人を結んでいた小説という結び目がほどけていくのを感じながら、佐伯は息苦しさに水面を仰いだ。
こんなとき、嵯峨ならなんと言うだろうか。大好きな小説を、小説〈なんか〉と貶めた佐伯を見て、どう思うだろうか。大切な心の一部をゴミ箱に捨てて、立ち尽くすことしかできない佐伯に、どう声をかけるだろうか。
佐伯が訪ねて行かなければ、嵯峨に会うような場所に行かなければ、二人の付き合いはそれきりだ。もう二度とあの宅に行くことがないのなら、最後に、嵯峨に別れを告げなければならないと佐伯は思った。もう一度だけ、嵯峨の声を聞きたい気持ちもあった。佐伯のポケットには、帰り際に嵯峨からもらった紙切れが入っていた。電話はゴミ箱のすぐそばにある。
〈さようなら、もう先生のところには行けません〉と、そのひと言を伝えるために、佐伯は電話の前に立った。ボタンを押す指が震えていた。なにを言うのも、なにを聞かれるのも怖かった。だが、嵯峨の静かな声で〈どうしたのや〉と言ってもらえたなら、すべてを話して楽になれる気もしていた。受話器を耳に寄せ、破裂しそうな心を抱いて、佐伯は待った。
コール音。
コール音。
何度も繰り返す、コール音。
佐伯は辛抱強く待った。そうしているうちに、話したいことはどんどんと膨らんでいった。嵯峨なら、佐伯自身が見捨ててしまった心の欠片を拾い上げて、〈大事に持っていなさい〉と言ってくれる気がした。それで佐伯は、ゴミ箱の中の原稿を拾い上げて、かばんに戻すのだ。そして、明日からも変わらず、あの宅に行くのだ。あの澄んだ水に……。
……コール音。
佐伯は、そっと受話器を置いた。涙は出なかった。自分がもうあの庭に戻れないことを思い知っただけだった。
濁った水面を再び仰いだ佐伯は、金魚鉢を飛び出したあの瞬間、金魚はなにを見ただろうかと考えた。そして、〈できることなら、あの庭の夢がいい〉と思った。
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