透明な獣はその日もわたしの視界から遠ざかろうとしていた。　必死だった。　時折よろけて何かに身体の一部をぶつけていた。

（無駄なのに）

　わたしは乾いた笑みを口元に浮かべる。

　この世界では当たり前なことが当たり前なようにしか起こらないのだ。

　地面に落ちていた木の枝をわたしはスニーカーで踏み潰した。小動物の骨のような感触が靴底から伝わって来る。そして前方を見た。

　透明な獣がいた。のろのろと、もはや這うようにして逃げ回っていた。

（追い詰められているのはあいつの方なのだ）

　その事実がわたしを安心させた。

　手鏡でも持って来れば良かったのかもしれない。勝利を確信した今、自分がどのような表情をしているのか確認してみたかったから。

　わたしの目の前の信号は赤だった。青に変わるまで律儀に待ってわたしは再び歩き始めた。その気になれば横断、出来たがまあ良い。時間は十分にある。急がなくても陽が沈む頃には何もかも片付くだろう。

　透明な獣はわたしが信号で佇んでいるのを不思議そうに眺めていた。わたしが歩を止め、立ち尽くす姿を見て安堵しているようにも思えた。何か自分にはよくわからない法則に基づいて追跡者が一時停止している。

　わたしと透明な獣との距離はあまり問題ではない。時計の針による時間経過とかそういったことも一緒だ。

　わたしたちは普段、縛られている常識からかけ離れた場所でやり取りをしている。この世界で目に見えている部分などほんの些細な側面でしかないということを我々は思い出さなくてはならないのだ。透明な獣を追う者はわたし以外にもたくさんいるようだが、その殆どが何か根本的な勘違いでもしているかのようただの目先の問題ばかりに振り回されてしまう。それではあいつの思うつぼだ。

　だが、わたしは違う。

（透明な獣はまだ余力を残しているに違いない）

　あれはふりなのだ。

　ただの死にかけているふり。

　わたしにもうじき手が届くと思わせるふり。

　もしあいつがこんなところであっけなく殺される存在ならばわたし以外の追跡者によってとっくに仕留められているだろう。だがあいつは相変わらず生き延び、今こうしてわたしの目の前にいる。

　安心しろ。

　必ず殺してやる。

　お前に明日の朝は訪れない。昨日とまるで差異の無いような今日というこの日に、お前は死ぬ。

　わたしは逃げて行く獣を少しも取り乱さず見つめていた。やがて獣は一点となりわたしの視界から完全に消えた。信号が変わりわたしはゆっくりと歩き出した。