打ちのめされた様子の日和を見て、亘は軽くため息をついた。



「とにかく、コーヒーを飲まないと目が覚めないから行ってくる。ついでに何か買ってこようか?」



「ええと……痛み止めをお願いします」



「それならそっちの引き出しにあるはずだから、勝手に飲んでくれていいいから。じゃ」



 亘が出かけた後、日和はずるずると這いながら教えられた引き出しのもとへ行き、中を覗き込んだ。



 ばんそうこうと、胃薬と、鎮痛剤だけが放り込んである。



(気持ち悪いから胃薬も飲みたいけど……胃薬と痛み止めって一緒に飲んでよかったのかな)



 しばし悩んで、とりあえず鎮痛剤を飲むことにした。頭痛を収めないことには、まともに考えることもできない。



 まるで赤子のようにシンクにつかまり立ちし、ゆうべ洗ったらしいグラスを借りて蛇口をひねる。鎮痛剤を水で流し込んだあと、安心して床に崩れ落ちた。



(なんか疲れちゃった。あいつが帰ってくるまで、少しだけ眠ろう)



 重いまぶたに抗えず、シンクのすぐ下で眠り込んだのだった。




「ただいま」



 日和に向かってこの台詞を言うなんて……と一人顔を赤らめながら帰宅した亘は、「おかえり」が聞けずに不満顔になる。



「おい。朝食を買ってきてやったのに――」



 しかしキッチンの前で眠っている日和を見て、足を止める。



「まったく――」



 日和の分もコーヒーを買ってきたのだが、必要なかったようだ。レジ袋に入っていたサンドイッチと日和のコーヒーをシンクの横に置き、まずは一口、コーヒーを飲んだ。目を閉じて、熱い液体で喉を潤す。


 コーヒーにこだわりのある亘だったが、まだ器具をそろえていないから、起き抜けの一杯は近所のコンビニで済ませていた。これが思っていたより味が良くて、比較的満足している。しかし朝起きてすぐ、淹れたてを思う存分楽しみたい。昨日は大型家電だけで疲れてしまったから、本当は今日あらためて買いに行こうと思っていた。もちろん、日和も一緒に。しかし彼女は予想外に酔いつぶれてしまったうえ、ひどい二日酔いときた。



 ――やっぱり、覚えてないんだな。



 それが悔しいやら、悲しいやらでつい冷たく当たってしまったが、本当ならゆうべお酒を飲みながら打ち解けるはずだったのだ。



 ――仕方ないな……。



 亘は日和を優しく抱え上げた。寝室へ運び、ベッドの上にそっと横たえる。その間、日和は眉間に皺を寄せただけで無反応だった。



 ――少し、休ませてあげよう。



 日和の身体から外れそうになったタオルケットを、亘は慌てて掻き合わせた。


 ゆうべだって、血のにじむような努力をして欲望をかき消したのだ。これ以上の刺激は、日和のためにも、自分のためにもよろしくない。


 タオルケットから覗く白い肌から視線を引きはがし、亘はリビングへ戻ったのだった。





 それから三時間ほど過ぎた頃。



 タオルケットを頭からかぶった日和が、どんよりとした表情でリビングに現れた。ノートPCでネットを見ていた亘は、


「そこに、コーヒーがあるから。もうぬるいと思うけど」


とぶっきらぼうに言った。



「……おはようございます。ありがとうございます」



 挨拶しながら壁掛け時計を見た日和の目が、大きく見開かれた。



「えっ、もう1時……」



「寝すぎ」



「ご、ごめんなさい! さっきはなんか具合悪すぎて動けず……。あの、もしかして寝室に運んでくれたんですか?」



「ああ」



「いや、ほんと、すみません! ところであの……これ、自分で脱いだんでしょうか?」



 二度寝でずいぶん気分は良くなったのだが、今度はゆうべのできごとが気になって仕方がない。本当はもっと前――おそらく20分ほど前に目覚めていたのだが、亘と顔を合わせるのが恐ろしくてなかなか動けずにいたのだ。



「動くのがつらそうだったから、俺も手伝った。――感謝しろよ」



「もしかして……み、見ました?」



「何を?」



 とぼけた表情で、亘が問い返した。



「何をって……だから、服を脱がせたときに、見ました?」



 羞恥のあまり、日和はどもりがちになる。



「見てないし、別に見たくもないね。女の体に不自由したことなんてないから、珍しいものでもないし。自意識過剰なんじゃないか?」



 亘は挑戦的な態度でそう答えた。日和の頭に、かっと血が昇る。



「ああそうですか。着替えを手伝ってくださってありがとうございました! バスルームお借りします!」



 怒鳴りつけ、いつの間にかソファーの横に畳んで置いてあった自分の服を取り、バッグからお泊りセットを取り出してバスルームへ向かった。





 ――会社が来客用に用意しているコーヒーを出しただけで、どうして自分はこんな目に合わなくてはならないのだろう。



 そもそも弟のコーヒーの好みくらい、姉であるチーフが分かっているはず。なのに自分に伝えることもなく、しかも味にケチをつけた弟を諫めるわけでもない。それがきっかけで亘に目をつけられたのだろうし、あの日から自分は本当についていないことばかりだ――と日和は嘆いた。



 ――チーフも亘も、くそくらえ。



 むかつきながらお泊りセットの下着を身に着け、歯磨きをしながら洗面器の下着を見つめた。



(なんで洗面器に……)



 亘が下着をここまで持ってきたのだと思うだけで、顔から火が噴き出す思いだ。



(とりあえず、着替えを手伝ったと言っていたから、その後なにかあったわけじゃないよね。なにかあったら、あんな憎まれ口きかないだろうし……)




 ――それなら、亘の背にあった赤い爪痕は……?



 鮮明な赤のあの傷は、真新しいものに見えた。あれはおそらく、日和が付けたものだろう。



(でも彼は、女に不自由してないって言ってた。だったら酔った女の寝込みを襲うほど飢えてないってことなんだろうから、手を出すわけないし。――見たくもないって言ってたし!)



 それはそれでむかつくが……と日和は鼻息を荒くする。



 歯磨きを終え、顔を軽く洗い、髪を撫でつけたあと、昨日と同じ服に腕を通す。下着を携帯していたビニール袋にしまい、深呼吸して息を整えた。



(さて、帰るか)



 ゆうべなにが起きたか知りたい気もするが、とりあえずここから離れないと、冷静に考えることなどできそうもないと思ったのだった。

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