第2話 知らない常識

 キジンガイ……?

 聞きなれない言葉に首を傾げながら、差し出されたカップに口をつける。ほんのりと甘い紅茶のようなそれは、話せば長くなるからとソファに座るのを勧められた後で、ワーズが淹れた品。

 躊躇なく含んだ後で、毒入りかもしれないと思い立つ泉だが、

「おいしい」

 少し驚く。目の前の男の姿からは想像できない、安心する味と香りだ。

「お口に合ってなにより。奇人街のモノはなんでも美味しいからねぇ。まあそれだけが取り得とも言える」

 言って座面を跨ぎ、椅子の背を抱くように座ったワーズは、自身も持ち寄ったカップを行儀悪くズズズ……と啜った。

「奇人街は、人間が普通に住むにはトコトン厄介な街でね。平たく言えば、一歩外に出れば死んじゃうんだよねぇ。殺されるんだ」

「えっ……」

 聞き違いかと思うほどさらりと言われた物騒で妙な話に、茶の安心感が吹っ飛んだ。次いで、何故見知らぬ男が目の前にいて、茶の一つで安心など得られたのかと今更の気づきに嫌な汗が背中を流れる。

 それに気づかない様子のワーズは、更に一口ズズズ……と茶を啜り、

「もしくは玩具おもちゃにされるかもねぇ。人間、そんなに多くないし。珍しがって剥製なんかもありかな? 生きたまま裸で部屋の飾りに使われたり」

 段々青くなる少女を気にする様子もなく、逆に興が乗ったように続けて言う。

「最悪弄ばれるだけ弄ばれて、食い物にされて終わり――どうかしたかい?」

「……っいえ……あの、人間が多くないってどういう意味ですか?」

 カップを持つ握力も心許なく、潤ったはずの口内はカラカラ。物騒な話に脈打つ心臓が暴れ、頭も冷えたり熱くなったりを繰り返す。

 そもそも、この男の話を全て信じるならば、ここは泉が居た世界とは違う世界という話になる。

 到底、信じられるものではない。

 とするならば、この男が狂っているだけではないか?

 泉の徐々に高まる警戒を知らず、ワーズは首を傾げる。

「あれ? 言ってなかったっけ? 奇人街は呼んで字の如く、変なのが多くてね」

 懐からメモ帳を取り出し、同じく取り出したペンで“奇人街”と書いてみせる。漢字の変形と表せば妥当か。見知った、けれど多少なりとも違う字面に困惑し、字の如くと言われてもワーズの言いたいことが判別できずに眉を寄せる。そんな泉の及ばない理解を知ってか知らずか、文字を追ったタイミングでメモを懐に戻しながら、ワーズはへらへらと説明を続けた。

「顔が鳥だったり、火を噴いたり、バラバラにされても死ななかったり、とね。そうそう人狼なんて輩は、日中は人の姿のクセに夜は二足歩行の狼で、これがまた酷く乱暴な奴でねぇ。まあ、そんな感じで人間に似た姿はあっても完璧な人間が少ないんだよ」

「……ワーズさんは、人間…………………………ですか?」

「間が物凄く開いたのは気になるけれど。まあ、一応人間だね、嬉しいことに」

 血色の口を開けて笑う姿に背筋が寒くなる。

 配色は異様だが、人間と呼べる容姿。

 だが、決してまともではないだろう。

 見知らぬ部屋だが、泉の知っている物に溢れているのだ。奇妙な世界観を展開されても、それはこの男の頭の中だけの話――と自分を納得させようとして、それはそれで恐ろしい考えだと気付く。

 考えれば考えるほど、納得から遠ざかる状況に手が震えてくる。混乱に支配され、打開策の浮かばない中で渇いた口が無意識にカップを求めた。

「熱っ!」

 茶の熱さを考えていなかった行動に、中身を制服にぶちまけ、カップが粉々に割れた。瞬間的に殺されてしまうと身を強張らせる泉だが、

「おや大丈夫かい? 少し待っててくれ」

 予想に反してワーズはカップよりもこちらの身を案じ、コートのポケットから取り出した白いタオルを泉に手渡すと、駆け足に近い足取りで階段を上っていく。

 危機を感じた分、ワーズの行動に呆気にとられてしまった泉は、一先ず受け取ったタオルで制服を拭いた。

 男が去ったせいか、茶の香りのせいか、幾分緊張が緩んでいく。

(こんな大きなタオル、どうやって入れていたのかしら?)

 布団のように掛けられていたコートに、タオルの感触がなかったのを思い出す。

 拭き終われば、タオルと制服の白い生地に、茶の渋色が移っていた。

(クリーニングに出しても落ちるかしら、これ)

 帰る算段もつかない中で、自分でも呆れるほど呑気な懸念が過ぎる。ここにあっては慣れ親しんだ唯一の品だからか、はたまた、そうして目の前の状況から目を逸らそうとしているのか。

 どちらともつかない複雑な気持ちに悩みながら、泉はふと、階段の先を見つめた。

 ワーズは今、上の階だ。危険を口にはしていたが、特に彼からこの部屋から出てはいけない、などとは言われていない。言われていたとしても、今なら逃げようと思えば逃げられるだろう。

 場所は分からずとも、外に出れば何かしら帰る道筋があるのではないか。

 その一方で、ワーズから聞かされた物騒な話が頭から離れない。

 と、視界の端をふっと白いモノが掠めた。

 ギクリと身体が強張る。

 一歩外に出れば、と言っていたので室内は安全、のはず。

 ――あの男の突拍子もない話を信用するのであれば。

 これを振り払うように、泉は白いモノが掠めた磨りガラス戸の向こうを覗いた。好奇心などではない。何もない、ただの勘違いだったという事実を欲したのだ。

 だが、事実は小説よりも奇なり、とは先人の言。

 ガラス戸から左へ視線を移すと奇怪な、しかし見慣れたモノが植木鉢から生えていた。ぐったり折れて、先は下に向かったモノ。

「ひ、人の……うで……?」

 がたんっとガラス戸が鳴るのも構わず、縋りつくように身を寄せる。

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