遅れてきた失恋

橙こあら

遅れてきた失恋

「……俺、結婚するんだ」

「そっか、おめでとう!」


 元カノからの祝福の言葉は、明るい声によるものだった。


「え……」


 祝ってくれて嬉しいとか「ありがとう」とか、そんな気持ちよりも驚きが勝った。目をそらしながら話していたけれど、楽しそうに返してきた元カノが気になって、すぐに前を向いた。声と同じく晴れ晴れとした表情が、そこにあった。


「……なぜ笑ってくれるの?」

「え?」


 元カノは目を丸くしている。そんな目を見て後悔した俺。

 ああ、何聞いてんだよ俺。


「だって俺、結婚するんだよ? 前に付き合っていた相手が、他の人と結ばれて淋しい……とかないの?」


 後悔よりも、知りたいという欲が少しだけ強かった。


「あー……ないね」

「……そうなの?」

「淋しいって思う人が……偶然会った元カレを自分から、お茶に誘えるかな? フラれたばかりのあのころなら……そんなこと、できなかったけどね」


 別れようと決意したのは、俺だった。理由は、つまらなくなったから。ただそれだけ。


「今は大丈夫だよ。あなたから貰った思い出を、また素直にきれいだったって心の中でも言えるようになったし……もう前を向いているよ私」


 偽りのない笑顔。その顔で、この元カノは俺の名前を呼んだ。俺と共に喫茶店に入った。

 俺に「つまらない」とか「飽きた」とか言われたときとは正反対の表情。どうしてこんなにも楽しそうに会話できるのか。なぜ、すごく明るいのか。


「せっかく好きになってくれたのに……あなたを楽しませられなくて、ごめんなさい。でも私ね、はっきり言われて少しは変われたと思うの。だから、ありがとう……。私は今、楽しくやっているよ」


 優しい顔に優しい声……それに対して俺は、


「……ああ……」


 これが精一杯だった。




「じゃあね。本当におめでとう、お幸せに」

「うん、ありがとう」


 元カノは最後まで笑顔だった。ずっとずっと、俺との時間を楽しいと感じてくれていたのだ。




「おかえり」


 帰宅して、俺は真っ直ぐスタスタと暗い部屋へ向かった。もうすぐ家族になる恋人の言葉を、つい無視してしまった。何も言いたくなかった。言えなかった。




「なぜ俺はっ……もっと優しくしてあげなかったんだ!」


 俺は心で叫び、わんわん泣いた。

 あんなに勝手だったのに。冷たくしたのに。ひどいことを言ったのに。

 あの子は、そんな俺との思い出も再会も大切にしてくれた。こんな奴を……誰かに望むばかりでワガママな俺を、今でも大切な存在として思ってくれていた。


「……どうしたの?」


 振り向くと、彼女がいた。真っ暗な部屋に光が差し込んだ。


「……大丈夫?」


 彼女は、みっともない俺を抱き締めてくれた。まだ俺の涙は止まらなかった。


「大丈夫、大丈夫だよ……」


 呪文のような柔らかい言葉を聞いて、俺は誓った。今度こそ、彼女を絶対に俺の手で幸せにしよう。誰かに望むだけではなく、自分も何かをしよう。人に優しくしよう。

 本当に淋しかったのは、俺だったんだ。

 やっと気付いた。気付くことができた。

 そして大切な人に強く優しく抱き締められながら、俺は心の中で吐いた。


「俺は今日、やっと失恋したところです」

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