2019.4.1~2019.4.15

 マスターの手の中で、とつとつと丸氷が刻まれていく。レモンハートは澄ました甘みで舌をとろかせる。元号が変わろうが世界が終わろうが、ここでの時間はいつもどおりに流れているのだった。

 からころり。

 ベルが鳴って馴染みの顔が覗いた。詰めて座って、カウンターは少し賑やかになる。

(2019.4.1)



 押し寄せる仕事に忙殺される午後。疲れた舌を湿らそうとカップを掴んだ手がはたと止まる。何でもないインスタントコーヒーの香り。それは唐突に、昨年死んだ叔父の記憶と結びつく。書斎でキャメルをくゆらせながらカップを傾けていた叔父。冷めていた心が、ほんの少しぬくもりを取り戻す。

(2019.4.2)



 咳払い、身動ぎ……やがて訪れた静寂の中に男の指が降りる。八十八の黒と白が、甘く切ない歌を紡ぎ出す。男の意識は半ば薄れている。指の為すがまま、自らも聴衆の一人としてそこに居た。彼はただピアノが歌いたいように歌わせているだけだった。彼の指はいま、ピアノのための楽器だった。

(2019.4.3)



 本堂で法要の準備を進める。蝋燭を立てていると不意に、


 しゅる、しゅる、しゅる、


 ――蛇。


莫迦ばかな)

 首を振り妄想を打ち消す。きっと衣擦れだろう。

 果たして障子が開き、妙齢の女の顔が覗いた。故人の妻だ。

「早く来すぎました」

 女は言った。唇から赤い舌が覗いて、


 私は、堕ちた。

(2019.4.4)



 裸に剥かれて身体を嗅がれる。死んだ私の欠片が鼻腔からはいり込み、貴方を内側から腐らせてゆく。やがて綺麗に皮だけになったあなたを剥製にして、永遠に辱しめるのだ。興奮が先端を固くする。勘違いしたあなたは上機嫌に言葉で責めてくる。可笑おかしくて堪らない。さあ、早く腐ってしまえ。

(2019.4.5)



 あなたが置いていったソムリエナイフ。たったひとつの忘れ物。スクリューをコルクに刺して回していく。不器用な私はいつも斜めになってしまって、あなたは笑いながら代わってくれた。でも今はまっすぐ刺せるようになった。もうあなたに頼らなくていい。

 それでも、ワインは涙の味がする。

(2019.4.6)



 暗い隧道ずいどうの奥深く

 土とかびの微粒子の中で

 なめくじ男は待っていた

 私を認めた触角が

 けがらわしく揺れる

 飛び散る粘液が

 私をしとどに濡らす


 彼はなめくじの顔で

 私に接吻する

 幾億もの歯で

 緩やかにこそがれる


 こんなに滾らぬ逢瀬があろうか


 腹を立てた私は

 彼の唇を乱暴に食いちぎった

(2019.4.7)



 やにわに振りだした雨に包まれて、京の町からひと気が消える。古刹の屋根は激しく叩かれ、瓦に綴じ込まれていた桜の花びらが表へと現れる。横樋よこといを抜け、鎖樋くさりといを滑り降り、玉砂利へ跳ね、水路へと導かれていく。

 間もなく雨は上がった。人知れず春の亡骸は去り、町は夏の気配に浮き足立つ。

(2019.4.8)



 ただ一度の微笑みに応えた召使の献身は、冷酷な姫君に狂った王子の口説き文句と消えた。悪趣味な喜劇は作曲家の死をもって未完となった。奇しくも、召使が自ら命を絶つ場面で。

「Qui il Maestro fini」

 トスカニーニはそう言って、補筆された大団円を振らなかった。

 その真意は、いかに。

(2019.4.9)



 心に余裕がないときは、なかなかことばが湧いてこない。苦心してひねり出したものには、どこか刺々しい響きが混じる。それはそれで、タイミングが生む妙もあるだろう。だけど僕は、つらつらと想いを巡らせるうちに、ふっと浮かぶ優しいことばを綴りたい。心はいつもゆったりとありたい。

(2019.4.10)



「さあ皆の者、鶴嘴つるはしをとれ!」

 村長のときの声に、若衆は雄々しく呼応した。陽をも遮る山の巨躯は、隣村までの迂回を余儀無くさせる。昨日は童が獣に食われた。今日は老婆が谷に落ちた。男たちは無学だ、難しいことは分からぬ。しかし力だけはあった。村に光を導くため、男たちは山に挑む。

(2019.4.11)



「今日も雨ですね」

 美和は窓の外を眺めながら言う。抜けるような快晴。彼女には、私には見えない雨が見えている。

「そうだね」

 嘘をつくことにも、随分と前に慣れてしまった。もし全てが彼女の悪戯ならば、私は何という愚か者だろうか。

 ああ、しかし、そうであればどれほどいいことか!

(2019.4.12)



 芳しい香りに目覚めると、台所で後輩がパンを焼いていた。デニム越しに透けるくびれに、昨夜の交わりを思い出す。華奢な身体を波打たせて迎えた絶頂――脳内で痴態を反芻はんすうしながらスマホを開くと、男どもからの通知で溢れていた。適当に返事を打ちながら、さて今夜は誰と寝ようかと思案する。

(2019.4.13)



 付き合い始めて1ヶ月。いまだあなたへの敬語が抜けない。私の中で、あなたは「先輩」のままだ。なんという不義だろう。

 不意にあなたの手が私の目尻に触れた。指先に光る雫。私は泣いていた。

「どうしたの?」

 あなたは問う。何も言えず、頬は濡れていく。

 ああ、涙が、言葉ならば。

(2019.4.14.)



(綺麗になった)

 物憂げに海を眺める瑠花るかの横顔に、真智子まちこは見とれた。テラスに吹く潮風が、十八歳の黒髪をたなびかせる。

(私も、もう二十歳若ければ……)

 ひとりの女として娘を見ている自分に気づき、真智子は内心で苦笑する。瑠花の頬に触れた。肌の下を流れる血潮が、指先に燃え上がる。

(2019.4.15)

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