第五章 名乗りの時
第1話 最後の一節
― 私の一生のお願いよ ―
大好きなユリカにそんなことを言われてしまったら……
どんなに気が乗らない願いであっても、断るなんてできやしない。
本は全部で20ページ。そのうちの17ページまでの文字は挿絵も含め、すべてが消え失せてしまっている。
印刷された部分が残っているのは18ページ目から最後のページまでだ。
ただ、そこにある文字もところどころが抜け落ちてしまっていて、最後まで使わなかった
そもそも、”ナイチンゲールと紅の薔薇”という話の結末自体が、全然、ハッピーエンドじゃないし。
瀕死のミラージュの頭を膝枕に乗せた百合香の涙目が、「早く!」と、
嫌味なくらい、そこだけが鮮明に残されている最終ページの挿絵が、マウザーの気持ちを余計に滅入らせた。
― 意中の女の子に振られ、遠くに去ってゆく学生の後ろ姿と、何の役にもたたぬと道に捨てられ踏みつけられた紅の薔薇 ―
「こら、俺、いい加減に頭を切り替えろ! 魔法使いたる者、聞き届けたと宣言した願いを叶えぬわけにはゆかない」
マウザーは、垣根にあった白薔薇の花を一輪、手折ると、百合香の元へ歩み寄っていった。そして、長い吐息で吹いた高い笛のような声音の呪文を唱えだした。
― If you want a red rose,
(紅い薔薇が欲しければ)
use your own heart's- blood.
(貴女の心臓の血で、その薔薇を紅く染め上げるのだ) ―
「マウザー? いったい、何を……」
小柄な魔法使いは、しっと指を口に当てて、戸惑う少女の言葉を遮る。
その時、マウザーの頭をかすめて褐色の尾をした小鳥が飛び立っていった。チチチッ、チチチと素っ頓狂な声をあげながら、それは空に弧を描く。
ナイチンゲール。ムカつく鳥!かき回すだけ、かき回して、お前こそ、何の役にもたたない。そのうち、綺麗さっぱり、消し去ってやるからな。
マウザーは苦い表情を浮べたが、今は無視だとばかりに百合香に向かって呪文を唱え続ける。
― the thorn must pierce you heart,
(
and your life-blood must flow into me
(血は葉脈を流れ、それは私のものとなる) ―
「ごめん、ユリカ、ちょっとだけ痛いけど」
「あっ」
襟元に、マウザーが手折った白薔薇を添えられた時、百合香はぴりりとした痛みに眉を歪めた。薔薇の棘に刺された少女の首から血が滲み出している。マウザーは人差し指でそっと、それを拭き取ると、百合香の唇にその指をのせた。
何をされたのかが理解できず、ぽかんと口を開いた少女。
魔法使いは、詰まる想いを胸の奥に押し込めて、言葉を続けた。
「その状態で、ミラージュに口づけて」
「えっ?」
「薔薇の棘を触媒にして採ったユリカの清い血の力で、ミラージュの汚れた体を浄化できる。だから、さっさとして。俺の呪文の効果がなくならないうちに」
「んっ?」
まだ、説明の意味が飲み込めないままの百合香に、なるたけ、事務的に事を進めようと頑張っていたマウザーは苛立つ。
「だ・か・ら、そいつにキスしろって、言ってんだろがあっ!!」
「えっ、でもぉ」
「ああっ、ぐずぐずしてると、本当に死んじまうぞっ! それでもいいのか!」
慌てて、百合香は膝の上のミラージュに目を向ける。その顔色は白薔薇の花に負けないくらいに蒼白だった。
でも、私のキスで蘇る近衛兵長ミラージュ? それって、あまりにもあまりにも、おとぎ話すぎる。お姫様(これ、私?)のキスが王子様(ミラージュ)を目覚めさせるなんて、まるで、
胸の鼓動が止まらない。
けれども……
何でだろう。
「マウザー……、向こうを向いてて……ね」
百合香に言われなくとも、向こうを向くさと、マウザーはとうに背中を向けている。彼が絶対に振り向かないことを確信すると、百合香はミラージュの方へ顔を近づけていった。
京志郎がその様子を押し黙ったまま、見守っている。
みんなが、本当の気持ちを隠している。
そんな歯がゆい空気が辺りを取り巻いていた。
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