資治通鑑~「資治通鑑」と「史記」たちの違い~

さて、紹介した史書の中で最後に登場するのが「資治通鑑」である。「資治通鑑」は、かなり時代が下って1000年代の宋王朝時代に編纂された史書である。そこまでに記された歴史書を収集し、膨大な資料から取捨選択を行った史書で、この資治通鑑は、紹介した三つの史書と比較して色々な特徴がある。先ず第一に皇帝からの命令という点である。これにより、潤沢な資金と国内の公的なネットワークを使えるようになり、資料の収集や著名な学者たちの協力を仰ぐのも難しくなかったであろう。大陸が統一されていなかった時代の「春秋」やほぼ一人で資料を収集した「史記」にとっては羨ましい状況であったろう。

第二に、著者がはっきりしている事である。いかに史官たちが名誉を求めないとはいえ、自分達の創りあげた史書が満天下に認められるのは大変栄誉な事だろう。特に資治通鑑は皇帝の詔があるのだから、承った側の名誉は大変な物であった。資治通鑑の責任者は「司馬光」、司馬遷と併せて二大司馬と呼ばれる。また、司馬光のみならずその下で働いた者も名を遺す名誉を賜る事となった。史記も司馬遷が描いた事は周知の事実だが、これは著者あとがきに近い物であり、例えば司馬遷の助手がいたり秘密裏に協力していた人がいたとしても史記に書き記すことは出来なかった。「春秋」は、著者が語り継がれていたとしても否定され、「竹書紀年」に至っては、何をか況んやである。

第三は年代の違いである。これは史記たちも数千年前から書いているのであるから同じといえそうだが、史記でいうと100年前は漢楚攻防、200年前は秦の膨張くらいである。現代日本で置き換えると、200年前は江戸末期くらいであるからまだ想像は可能である。しかし、資治通鑑の年代からすると、漢楚攻防は1200年前となる。現代日本に置き換えると平安末期である。こうなると歴史書に頼るしかなくなる。では、年代がたてば史書は書けなくなるのであろうか?無論そんなことはない。同時代を生きた者しか歴史が書けないのなら、歴史学者のいる意味がないであろう。後世、冷静に歴史書等を見る事で見出だせる事実もあるはずだ。どこかの歴史学者になり損ねた不敗の魔術師マジシャンのような言いぐさではあるが、事実であると思う。史記以降も様々な人物たちが、史記や左氏伝を補完したり、「漢書」や「戦国策」等色々な著書を著してきた。王の墓を暴いて出てきた事実もあったであろう。そのような事実たちの集積作業を行うこともまた、歴史家の努めであろうと考える。そのような地と汗と努力の結晶が資治通鑑だとするのは、誉めすぎであろうか。

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