第14話
殺してくれ。いますぐ。
そして私の皮膚は溶けていく。私と世界を隔てる境界が解けていく。
誰かの郷愁、誰かの欲望、誰かの憎しみ、誰かの憧れ、誰かの失望、誰かの餓え。決壊したダムのごとく、壊れた皮膚の隙間からなだれ込んでくる無数の他者。
己ならざるものの侵食に抗うため、私はそこいら中に爪を立て、手当たり次第に歯を剥いて、触れるものをかたっぱしから掻き壊す。時折わずかに知覚される痛みが、私の皮膚のありかを教える。
いまや口の中にも腐液が溢れている。苦くてぬるくて生臭い。目の中に入ってしみ、目が痛む。網膜も溶け始めているのだろう。
もはや、これまでか。
私は静かに観念した。このドロドロの中には捜し求めていたあの人も含まれているだろう。ならば、目的の半分は達したようなものだ。そう自らを慰めた。
その時だった。朝を告げる雄鶏の声が辺りに轟き渡った。 いつの間にか開いていた帷幕の遠い向こう、岡のはるか彼方に曙光がにじみ、そこから天幕の奥までまっすぐに一条の光が差し込んだ。
日が昇った。
強い日の光が肉の山を照らし出す。
ぽとり、ぽとりと、
肉の山からひとり、またひとりと、
絡まり合っていた男や女が剥がれ落ち、
あるものは背を下に向けた四つん這いで、
あるものは独楽のように目にも留まらぬ速さで回転しながら、
蜘蛛の子を散らすように去っていった。
「彼」はそこにいて、自身の身の丈の三倍はありそうな大きな蛇女と交わっていた。
腰から下はすでに、蛇女の体の一部に取り込まれてしまっている。瞳は白濁し、だらしなく半開きになった口の端からは涎が溢れていた。目を背けたくなるようなあわれな痴れ姿だったが、満ち足りて幸福そうでもあった。
この幸せに水を差す権利が、誰にあるのだろう?罪悪感で胸が痛んだ。
「りゅうじ」
知れず、私の口から音がこぼれ落ちた。今となってはほとんど無意味に近い、かつては彼を指し示す記号であった、一定の音の配列。
「竜司!」
全身を引きしぼるようにしてそう叫ぶと、名前は小骨のように喉に刺さり、私は激しく噎せ返った。斬りつけるような鋭い痛みが走り、私の喉を食い破って鳥が現れた。
鳥は、鋭いくちばしで蛇女の腹を裂いた。その一瞬の隙に、私は蛇女に噛みつき、溶けかかっていた彼の体を喰いちぎって蛇女の体から切り離した。
蛇女は分離の痛みと喪失の悲しみに身をよじりのたうちまわった。飛び散った血で世界が赤く霞んだ。
津波のように荒れ狂う蛇女の大きな尾が、彼と私を空の彼方に吹き飛ばした。
空が二つに割れ、隻眼の巨人が勝利のファンファーレを奏で、一つしかない目玉でウィンクし、厳かに宣言した。
「すべて世はこともなし」
私たちは天幕を突き破り、空の割れ目のあたりまで投げ上げられると急速に落下し、プールに落っこちた。
着水する寸前、鳥を追って走り去る赤い少女の後ろ姿がちらりと見えた。
*
こうしてあたしは夫をこの世界に連れ帰りました。
病院で目を覚ました夫は、元どおりの柔和な笑みを見せてくれました。ただひとつ残念だったのは、あたしのことを何一つ覚えていないということでした。それどころか言葉も、歩きかたも、立って歩く必要性さえも忘れてしまったようで、日がな一日ただ寝台に横たわっているだけのひとになってしまいました。
ただときどき、目の前にある虚空を眺めては、何が楽しいのか、にっこりと、それは幸せそうに笑うのでした。唇の端から滂沱のよだれを垂れ流しながら。赤ん坊がなにもないはずの天井に向かって微笑むように。
これからはあたしがこの人を守って行くわ。あたしは心の中で赤い少女にそう誓いました。
いつのまにか私のからだのあちこちに生え始めていた鳥の羽のことは、 努めて気にしないようにしながら。
完
白い境界 @kuchinashi4719
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