第9話
あたしは墜落感に足をばたつかせながら目覚めました。
カーテンの隙間から漏れる光はまだ弱々しく、サイドテーブルの目覚まし時計を見るとやっと五時を回ったばかりでした。
全身の毛穴という毛穴から吹き出した粘り気のある汗が明け方の冷気で急速に冷やされ、思わず震えました。
傍らでは夫が安らかな寝息を立てています。
あたしはキッチンに立ち、とっておきのウバ茶の葉と手鍋で湧かしたミルクで濃いミルクティーを淹れました。
ダイニングテーブルにつき、カップの表面に息を吹きかけて牛乳の膜を向こう側に遠ざけ、吸い口と膜の隙間から熱々のミルクティーを一口啜りました。
少し体が温まったところで、あたしは便箋を何枚か広げ、戸棚に並んだ六色のインク壷から山葡萄色のインクを取り出しました。
万年筆の先をインクに浸し、雫が垂れないように余分なインクを瓶の淵にこすりつけると、真っ白い便箋に勢い良く筆を走らせました。
さっき見た夢の内容を、忘れる前にぜんぶ書いてしまおうと思ったのです。紙に書き出せば、あのえも言われぬ不吉さをちいさな文字の中に閉じ込めてしまえる。ほんの子どもの頃から、イヤな夢を見たときにあたしが必ずしてきたちょっとしたおまじないでした。
八枚の便箋はあっという間に山葡萄色のミミズでいっぱいになりました。
あとはこれをビリビリに破いてゴミ箱に放りこめば終わりなのですが、この日はそれだけではとても満足できませんでした。
あたしは書き上げた便箋を持ってキッチンに立ちました。ガス台を点火し、便箋の左下をそっと火の中に差し入れます。
火はあっという間に燃えひろがり、葡萄色の文字を舐めるように呑み込んでいきました。ギリギリまで親指と人差し指で便箋をつまんでいましたが、指先からいまにも肉の焼けるイヤなにおいがしてきそうな段になるとさすがに耐えきれず、燃える紙束をシンクに放しました。
紙があらかた燃え切ったのを見届けたところで蛇口をひねり、勢い良く水をかけて火を消しました。
もう一度お茶を淹れようとやかんに水を注いでいる時、シンクに残っていた便箋の燃えカスが目に入りました。
目の高さにつまみ上げると端の方が燃え残っていて、葡萄色が滲んで余白に広がり汚いシミになっていました。
じっと見つめていると、シミはだんだん小さく濃くなっていきました。そして徐々に何かのマークのような形に集約されていき、しまいにはさっき私が書いた文字に戻ってしまいました。
濡れそぼった紙の端っこにくっきりと再生された「翼」、「目」、そして「地」の三つの文字を見つめ続けていると、やがてそれらはゲシュタルト崩壊を起こしました。
眩暈を追い払うように強く瞬きすると、三つの文字は再び見慣れた姿に戻りました。そしてまずは「翼」が、次に「目」が、最後に「地」が濡れた紙から自らを引き剥がすようにべろりと立ち上がりました。
そして三文字仲良く手に手を取ってロンドを踊った後、スキップを踏むような足取りでキッチンの窓から出て行ってしまいました。
文字たちは欅の枝の向こうに行ってしまい、見えなくなりました。
*
昼下がり。インターホンが鳴りました。
「お届け物です」
小さなモニターに映っていたのは見慣れた運送会社の制帽だったので、あたしはためらいなくエントランスの電子錠を開けました。
ところが、待てど暮らせど配達員は現れません。あたしは様子を見ようと廊下に顔を出しました。
キャメル色の大判の角封筒が一枚、ぺろりと玄関前に落ちていました。表を見ると、間違いなくあたし宛です。
大事な郵便物をこんなふうにぞんざいに投げ出して行ってしまうなんて、いったいどういう了見だろう。
あたしはぷりぷりしながら部屋に戻ると、ペーパーナイフを封筒の隙間に差しこみ、勢いよく開封しました。
その途端、煙いような、スパイシーな濃密なにおいが立ちこめました。
それはどことなく人を落ち着かない気持ちにさせるにおいでした。以前にも嗅いだことがあったように思うのですが、いつだったかは思い出せませんでした。
中から出てきたL判の写真には不思議なものが写っていました。
最初は、イソギンチャクがいくつか並んでいるのだと思いました。でも違いました。明るい窓辺でじっくり検分すると、それは大勢の男女が裸で絡まり合っている姿でした。
腕や脚を互いの体に絡み付けた男女が何十人も、組み体操のピラミッドか何かのようにうずたかく積み上がっているのです。
あたしはだいぶ前にどこかの美術展で見た、中世ヨーロッパの絵を思い出しました。野原のそこここに、一糸まとわぬ姿の男女がくんずほぐれつしている、実に退廃的で不気味な絵でしたが、こちらは写真なだけにさらに奇怪でした。
写真中央に写っている裸体の山の中腹あたりに、クレヨンかなにかでべたべたした赤い丸印がつけてありました。
あたしは鼈甲色のセルロイドフレームの虫眼鏡を出して来て、赤い丸で囲ってあるあたりを覗きました。
見覚えのある男の上半身が肉の山から垂直に突き出ていました。
秀でた広い額に、細くとがった顎。
まぎれもなく夫でした。
小さすぎてはっきりとはわかりませんでしたが、口は半開きで、放心しているように見えました。
そして夫と四肢を絡め合っているのは、例の獣くさい女でした。
どことなくだらしがない感じがする肉付きの良い体を覆い隠すように、ぎらぎらと黒光りする髪を纏わりつかせていました。
あたしは写真を光にかざしたり斜めにしたり、いろんな角度から穴のあくほど虫眼鏡で見ましたが、それ以上のことはなにもわかりませんでした。
諦めて写真から目を離すと、指先に赤いべたべたが着いていました。
鼻に指を近づけてみると、古くなったクレヨンのような油臭いにおいがしました。
きっと口紅だわ…。
写真を本にはさむと、夫が絶対開けない食器棚の引き出しにしまい込みました。
この人たちが何をしているのか、いったいどういう素性の人たちなのかさっぱり分かりませんでしたが、ひとつだけ確かなことがありました。
夫は何かに巻き込まれた。そしてこのままでは取り返しのつかないことになる。
とにかくまずはミヤザキさんに会って、話を聞いてみよう。あたしはそう決めました。
夫がこんなふうになってしまったのは、あの海外出張以降なのです。夫が現地で何をしていたのか、どんな様子だったのかを聞けば、なにかヒントがつかめるはずです。
*
待ち合わせに五分遅れで現れたミヤザキさんは、心なしか疲れて見えました。終夜営業のカフェの入り口であたりを見渡し、奥のボックス席にあたしを見つけると、いつもよりゆっくりとした足取りでこちらにやってきました。
非常識な時間に呼びつけたことにすこし気がとがめはしましたが、あたしはすぐに強い口調で話を切り出しました。
「何もかも隠さず話してください。アムステルダムでいったい何があったんですか」
ミヤザキさんは俯き加減で、膝の上で両手を弄びながらしばらく黙っていました。
「夫があんな風になってしまったのには、一緒に仕事をしていた先輩のあなたに監督責任があるということですよね」
我ながら滅茶苦茶な物言いだとは思いましたが、細かいことを気にしている場合ではありませんでした。
「どこからどう話したらいいのかな…」
ミヤザキさんは大きな溜息をつくと、重い口を開きました。
「あれはアムステルダムに入って三日目だったな。珍しくあいつの方が誘ってきたんだよ。一杯飲みに行きましょうって。商談がうまくいって浮かれていたんだろうね」
祝杯も兼ねて、どこかでちょっと美味いものでも食べよう。そう言って二人は夜の繁華街に繰り出したのだそうです。
十一月も終わりのアムステルダムはすでにクリスマスムード一色。中央駅から王宮のあるダム広場までを結ぶダムラック大通りには、ワッフルやホットワインの屋台が軒を連ね、老舗デパートのウィンドウをクリスマスオーナメントが飾り、イルミネーションが夜の石畳を温かく彩っていました。
二人は大通りから外れた裏道にある小さな店に入りました。
「何杯か飲んでいい気分になった頃、あいつ突然、飾り窓に行こうなんて言い出したんですよ。飾り窓。聞いたことくらいはあるでしょう?いわゆる夜の女性たちが半裸でショーウインドーに立って客ひきをしている一画が市内にあるんだよ」
あたしはおもわず顔をしかめました。飾り窓?夫はよく土産話を聞かせてくれましたが、そんな話は初耳でした。
「いや、そんな嫌そうな顔しないで。女性の観光客も結構歩いてるんだよ」
ミヤザキさんはそういって少しだけ表情を緩めました。
「ところが、着いた時には時間もかなり遅くて、あたりは想像以上に荒んだ雰囲気でね。酔った日本人の二人連れなんて追いはぎのいいカモだ。これはまずい、さっさと退散するに限る。なのにあいつは一人でどんどん奥の方へ歩いて行っちまった。慌てて追いかけたけど、酔っぱらいのグループにからまれたりしているうちに見失った。いや、もちろんちゃんと探したよ。通りの端から端までね。でもどこにもいなかった。俺がもたもたしている間にそのへんの店に入ってよろしくやってるのかもしれない。そう思ったら急にバカバカしくなって、俺は先にホテルに引き揚げたんだ」
ミヤザキさんは目を閉じました。
「翌朝、あいつは朝食の時間になっても食堂に姿を見せなかった。俺はあいつの部屋を訪ねた。呼び鈴を押したんだけど返事はない。フロントに鍵を開けさせようと思ったその時、あいつが出て来た。目の下は酷い隈で顔は土気色、立っているのもやっとって感じだったよ。いつも通りきちんとスーツを着てはいたけど、とても仕事に行ける様子じゃなかった。口もろくにきけなくてね。疲れが出たんだろうと思って、とにかく休むように言って、その日は俺一人で出かけたんだ」
あたしは帰国の二日後に無言で出勤していった夫の姿を思い浮かべました。あの能面のような表情…。
「夜顔を出したら、あいつ朝会った時のまんまの格好でベッドに横たわってた。そう、スーツのまんま!両手両足気をつけするみたいにピシッとくっつけてね。声をかけてもまるで反応なし。いや、起きてはいるんだよ。目は開いてるんだ。両目をギラギラさせてただ黙って横になってる。気味が悪かったよ。…そうだ。今思い出したんだけど、あいつとにかくまったく瞬きをしなかったんだ。人間あんなに長いこと瞬きしないでいられるものなんだろうかね?」
ミヤザキさんは目を大きく見開いてしばらくそのまま頑張っていましたが、すぐに耐えきれなくなって目を閉じ、まぶたを指で揉み始めました。
「俺が途方に暮れてたら、あいつ突然がばりと大きく口を開いてさ。何をしたと思う?歌いだしたんだよ。おお牧場は緑っていう歌、あるでしょう?相変わらず体はこれっぽっちも動かさないのに、口だけをガバガバガバガバ、笑っちゃうくらいに大きく開け閉めしてね。出来の悪いからくり人形を見てるような感じだったよ。薄気味悪いったら」
ミヤザキさんは一瞬、夜店の見世物小屋を覗いている人のような顔になると、すぐに真顔に戻って続けました。
「往診に来てもらった医者も首をひねるばかりだった。翌日もその次の日も変わらずで、あいつは昼間俺がルームサービスに運ばせてる食事にも一度も手を付けなかった」
「ミヤザキさん。夫の体に何かおかしな点はありませんでしたか?その、たとえば…何かへんなものができているとか」
ミヤザキさんは怪訝そうでした。
「蕁麻疹とかそういうやつかい?」
「いえあの、そういうのではなくて。首とか背中とかにも、なにも?」
「うーん、なかったと思うけど…医者も特になにも言わなかったしなあ」
翌日もそのまた次の日も、夫は同じような様子だったそうです。
「何を聞いても一言も言ってくれない。なんの反応もない。目立った病状もない。どうにも埒があかないからね、俺はあいつを監視することにしたんだ」
ミヤザキさんは、すべて夫の狂言ではないかと疑ったのでした。
テレビ会議をする時に使う小さなカメラを夫の部屋にこっそり仕掛け、無線で映像を飛ばし、四六時中パソコンで監視することにしたのです。
「俺の読みが当たったよ。監視を始めた日のちょうど昼頃だったかな。あいつ何事もなかったかのように立ち上がって、クローゼットの扉を開けてるじゃないか!そのままジーンズにセーターを着込むと、コートを羽織って部屋を出て行ったんだ。ちょうど仕事もひと段落したところだったし、俺はあいつを問い詰めてやろうと、タクシーを飛ばしてホテルへ戻ったんだ。後をつけるには間に合わなくても、部屋に帰ってきたところをとっ捕まえて問い詰めることくらいはできるかもしれないからね」
ミヤザキさんは興奮を鎮めるように一つ大きく深呼吸しました。
「運河沿いの道を折れて旧市街…まあさっき言った飾り窓のある地区なんだけど、そこにさしかかったところで、あいつが歩道をフラフラしてるのを見つけた。俺は車を降りて追いかけた。でもまたしても見失ったんだ。地団駄を踏む思いだったけど、午後も商談があったし、それ以上どうしようもなかった。夜ホテルに戻ると、あいつは朝と寸分違わぬ姿でベッドにいた。もちろん何を聞いても無反応さ。翌日も、あいつは同じ時間に同じことをした。俺も追いかけた。でもなぜか必ず旧教会のあたりで煙に巻かれてしまうんだ」
あたしはハンドバックから例の写真を取り出し、ミヤザキさんの前に置きました。虫眼鏡といっしょに。
ミヤザキさんは写真を一瞥すると、顔色を変えました。
「これ、いったいどうしたんだい」
あたしはそれには答えず畳み掛けました。
「夫が出かけた先は、ここなんですよね?」
ミヤザキさんは観念したように大きなため息をつき、背もたれにぐったりと寄りかかりました。
「聞くんじゃなかったとか言っても知らないからな」
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