人形は夢を見る
一、額形成術
人間が語るべきは
夜の街の、奥の奥底。太陽の裁きを受けぬ、その街の最下層に老医師の地下室はあった。
未成年と呼ばれる少年少女を、法律は制限行為能力者と呼ぶ。なぜなら、彼らは独りで有効な法律行為を行うことができず、種々の契約や取引について常に親権者の同意が必要とされるからだ。例えば、ポケベルや
しかし、広告もなければ看板もない、文字通り、陽の光も届かぬ老医師の地下室では
少女は知る由もなかったが、その理由こそが先ほど老医師が口にした言葉の真意であった。もっとも、手術台の上の少女はその言葉を聞いていたのかいなかったのか、それとも聞いたとしても理解することができなかったのか、眉ひとつ動かさなかった。
緊張した面持ちで、少女はそこに横たわっていた。老医師に刈られた頭には髪がなく、素肌には白い手術着をまとっているだけだった。そんな少女の顔に、老医師は
少女は、これから
なぜなら、それが少女の望みだった。どれほどの苦痛を得ようとも、どれだけ時間がかかろうとも、白人になりたい。その強い願いが、少女を東京へ――この海のない街へと導いたのだ。百万という大金と、もう二度と故郷に帰らないという決意を胸に抱かせて。
とはいえ、この夜の吹き溜まりにおいて、少女は有象無象だった。その胸にどんなに強い願いがあろうが未成年者の家出など珍しくもなく、また特別でもありえない。もし、ここでその言葉が使われるとすれば、それは老医師のほうだった。この偏屈そうな老人がなぜ、少女の望みを叶えようなどという
とはいえ、老医師の事情は誰の知るところでもなかった。ただ事実として人が知るのは、彼が法律の外で世界一の技術を誇る医師であり、その顧客は世界中に存在しているという事実であった。さらに言えば、その顧客とのやりとりで動く金銭は何千万、否、何億という単位の金であり、少女が差し出した百万など、彼にとって
滞りなく、すべての準備を完了させた老医師は、術部に局所麻酔を施すための注射針を少女に向けた。老医師は
細いとは言えない針が頭皮を貫き、痛みに少女は眉をしかめた。しかしそれも一瞬のことで、少女のその部分はすぐに何も感じなくなった。その機を見計らったように老医師は注射針を抜き、代わりにその手にメスを取った。さくり、爽やかさすら感じさせる音で少女の頭皮を切り開く。予め描かれた紫色の線に沿い、まるで果物の皮にナイフを入れるようにメスは進む。その指先から目を離すことなく、老医師は再び口を開いた。
いいかい。それが
手術が始まると、老医師は人が変わったように饒舌になった。マスク越しの声はくぐもっているが、それでも明るく楽しげだ。少女を覗き込む、その皺に囲まれた小さな目が光を宿して瞬いた。
……とは言ったものの、僕が何を言っているのか、君はまるで理解できないという顔をしているね。美醜と
麻酔がかけられたのは少女の額から前頭部へかけての部分であり、少女がその声帯を震わせ、答えとなる言葉を紡ぎ出すには何ら支障はないはずだった。しかし老医師がしばらく沈黙を守り、その思考を促したにも関わらず、少女はその問いに答えなかった。それは答えが分からなかったせいか、それとも初めての手術に緊張していたせいか。
沈黙の間も、老医師のメスはさくりさくりと音を立て、いまは青い生え際に沿って額の皮膚を切り開いた。紫で描かれた線は、滲み出した血の色に侵された。線をなぞり終えると、老医師はメスを小さな
ここで僕
老医師はマスクの下で笑みを漏らした。露出した前頭骨をガーゼで無造作に拭く。いまは平らなそこを隆起させる準備に入る。
君は
呟くように言いながら、老医師は銀色のワゴンの上で、何やら粉と液体を混ぜ始めた。骨セメントだ。老医師はそれを粘土のように捏ね上げると、その白い塊を露出した少女の骨に直接乗せた。粘土で遊ぶ子供のように、ぺたぺたとその形を整える。剥かれた自らの皮の下で、少女の表情は見えることがないが、その両手は体の横でしっかりと握り締められている。
僕が美醜ではなく、強さと弱さの話をしようと言ったのは、そういうわけだよ。分かるかい? 美しいものと、醜いもの――美醜、それは
老医師は頭皮をくるりと元の位置へ戻し、少女に視界を与えた。そうしてから、その目の前に大小二つの頭蓋骨を差し出す。少女は眩しさに目を細めてから、驚いたようにその細い目を見張った。
これは、僕たち黄色人種と白色人種の
まさか本物ではないだろう。しかし、それはとても
その二つの頭蓋骨を、老医師は少女の鼻先へ近づけた。その全体を余さず観察させようというように、ゆっくりと回してみせる。そして動作を終えると、改めてそれを少女に示した。
さて、この僕の右手と左手にある
反応を示すこともなかった先ほどの問いとは違い、少女は目を凝らし、その答えを見い出そうとした。どちらが
見てごらん。白色人種の
そもそも頭の形で人種を区別することは不可能だ――老医師は
人種人種と言うけどね、そんなものは表面の
まるで破れたぬいぐるみを
傷を繕った老医師が、余り糸をぷつりと切る。と同時に、少女の緊張の糸も切れた。彼女は手術台の上にぐったりと横たわり、老医師の問いに答えるどころか、起き上がる元気すらないようだった。老医師もまた答えを強要することはなく、少女の様子を一瞥すると、血と脂に汚れた器具を
全ての施術が終わるまで一年はかかるだろうと、初め、老医師はそう言った。つまり少女が白人に変わるまで、時間はまだ十分にある。二人の間に、急ぐことは何もないのだ。
二、隆鼻術・全切開法二重術
世界一の腕と噂される通り、老医師の手術は完璧だった。少女の額は熱を持つことも腫れることもなく、縫い合わされた跡だけが日に日に消えていくだけであった。その縫い跡もよほど綺麗に繕われたのだろう、見た目には何事もなかったかのように滑らかに繋がっている。
とはいうものの、少女がその跡を自身で確認することは叶わなかった。なぜなら、白人になるまでの期間、少女に与えられた部屋には鏡がなかった。部屋に設置された洗面所にも、風呂にも、トイレにも、鏡どころかおよそ少女の姿が写り込みそうなものは何もなく、地下室という特性上、窓というものも存在しない。
少女の手術が行われた手術室には二つの扉がついており、一方は外へ通じる階段へ、もう一方は少女の居室のある廊下へと繋がっていた。その薄暗い廊下にもまた二つ扉があり、手前が少女の居住用、奥は
老医師の機嫌を損ね、手術が完了しないうちにここから放り出されては困る。少女は禁を破る気などなかったが、一週間も経つと、生活の単調さには飽きがきた。何せ、外出が禁じられているにもかかわらず、少女の部屋にはテレビも電話もなかった。地下室と外界を繋ぐものとして、唯一、ラジオが置いてあったが、それはどんなに丹念に周波数を探っても、英語しか流れてこない代物であった。本棚に蔵されているのは子供向けの絵本で、それをめくってみても英語ばかり、一日三度の食事と飲み薬を運んでくる女性看護師はいたが、彼女も老医師から何か言いつけられているのか、傷を確かめるときさえ終始無言で、少女は生まれて初めて日本語に飢えた。
それゆえ、少女が次の手術を知らされ、あの手術室に再び足を踏み入れたとき、その胸には老医師との会話を望む気持ちが芽生えていた。若しくは、老医師から再び問いかけられることがあれば、それに答える覚悟ができていた。何に追い詰められ、少女はこの地下室を訪れたのか。その理由を告白しても構わないような気持ちにさえなり始めていた。
しかし、少女とは別の扉――外へ通じる扉から手術室に現れた老医師は、一言で彼女の気持ちを無に帰した。正確に言えば、彼女が戸惑っている間にその心意気を
なぜ、人を殺してはいけないのか。その理由を君は知っているかい?
開口一番、老医師はそう言った。そして唐突に、手術台に横たわった彼女の手術着をまくりあげ、青い乳房を露わにした。無論、老医師の目的は脂肪と腺組織によって盛り上がった少女の器官などではなく、その器官の
それを知らない少女は、老医師に答えようとしたことも忘れ、息を飲み、恥辱に目を閉じた。老医師は老医師で、少女の答えなど期待していなかったのだろう、器具の準備を始めながら、
なぜ人を殺してはいけないのか。これは答えのない問いとしてよく耳にするものだが、実はその答えは明快だ——それは、法律により罰せられるからだ。
局所麻酔を終えると、老医師は少女を見た。メスを取り、彼女に近づく。それから、何を思ったかニッと笑った。
……おや、そんな答えでは不服だというような顔をしているね。それではこう言い換えてみたらどうだろう。人を殺してはいけないのは、君が
男の手にかかった経験のない乳房が、老医師の手によって押し上げられる。肋軟骨を採取すべく、その下部が切り開かれる。皮膚の下からは黄色い脂肪が、そして赤い肉が露わになった。先日の老医師の話を信じるならば、白い皮膚の下からも、黒い皮膚の下からも、同じ赤が覗くのだろう。
君は弱者だ――老医師は繰り返すと、堪え切れぬというように笑いを漏らした。少女の皮膚が粟立ち、小さな乳首が屹立したのは、老医師の笑い声に恐怖を覚えたからか、それとも地下室の空気が冷たすぎるせいか。
ふふ、ふ。どうだい、その通りだろう? なぜなら、手術を望むのは君であって、僕ではない。金? 確かに、君の差し出した金を僕は対価として受け取った。しかし残念ながら、それは僕に必要なものではないんだよ。ある分にはいいかもしれないが、なくても全く構わないものだ。けれど、君は? 君は僕を必要としている。法律で許可されていない施術をも行う、
老医師はそこで一つ、咳払いをした。小さな音を立て、銀色をした
では、それがこの地下室ではなく、この
老医師は言いながら、少女の鼻に注射針を刺した。麻酔薬が効いたそこで呼吸をする感覚を失い、必然、少女は口呼吸を始めた。しかし、それも老医師が鼻と鼻の間――鼻中隔にメスを入れるまでのことだった。鼻から滴った血液は少女の口腔に流れ込み、その唾液を赤く染め、喉でごぼごぼと泡立った。少女は苦悶の表情を浮かべた。しかし、老医師はその苦しみを笑うように言葉を続けた。
それでは、どうやって白色人種は強者の地位へと上り詰めたのか。
鼻筋の皮膚の真下で、老医師の操る
それは
言うと同時に、ぐいと力任せに鼻筋に肋軟骨を押し込む。
マスクの下で、老医師は自嘲にも聞こえる笑みを漏らした。
そうして消えていった敗者の名を、僕たちは知らない。彼らの言葉も、文化も、何もかも消えてしまった。強者がそれを殺し、奪ったのだ。つまり――これでもう分かっただろう? 白色人種が世界一の強者である理由、それは彼らが
唐突に、老医師は口を閉じた。その皺に埋もれた小さな瞳は、鼻中隔を縫い合わせる己の指先を見つめているようでもあったが、同時にどこか遠い場所を見ているようでもあった。口の端から赤い
およそ十万年前、僕たち現生人類はアフリカ大陸で生まれた。白色人種も有色人種も、そのときは同じ容姿をしていた。白人や黄人という
縫合を終えた老医師は、再び持針器をメスに持ち替え、淡々とした口調で続けた。
白色人種の台頭は、十五世紀に始まった。ヨーロッパ大陸での戦いで勝ち上がっていった彼らが、船という移動手段を手に入れたのだ。君も知っているだろう? 海を渡った白色人種はアメリカ大陸を
老医師のメスが少女の瞼に触れる。アジア人特有の細い少女の目を白人のように大きくするには、その瞼の皮膚を切り取り、内側の脂肪を除き、縫い合わせ、二重にしなければならない。加えて、目頭に切り込みを入れ、涙丘と呼ばれる桃色の粘膜を露出させる必要があった。
人はなぜ争いを続けるのか。そんな問いはよく耳にするものだが、僕からしたら馬鹿な質問だとしか思えないね。なぜって、弱い者を殺してきた強者しか、いまの世の中には残っていないのだ。つまり何万年と続いた生き残り合戦の中で、争いはもはや本能となり、人間は争わずにはいられなくなってしまったのだよ。皮肉な話だろう? 滅びた民族の中には、
老医師は、少女の瞼の脂肪を切り取った。
そう思えば、江戸の人々に白色人種が
そう言う間に、老医師は瞼を縫い終えると、部屋の隅に置かれたワゴンを手術台の横につけた。ワゴンの上には、何かの部品のような金具や、人体への使用など想像もつかないような黒いプラスチック類が並んでいる。老医師はその中から
白色人種の長い下肢。それもまた、少女の望むものであったからだ。
三、下顎骨形成術
その日、地下室には音楽が流れていた。少女のラジオからのものではない、雨だれのようなピアノの独奏。焦燥感を煽るようなその音色に誘われるように、三ヶ月ぶりに手術室の扉を開けた少女は車椅子姿だった。その下肢に嵌められているのは、骨延長の器具である。
手術中、途切れずに続く老医師の
しかし、だというのに、老医師の声は手術台から下りた後になって少女の脳裏に響くのだった。まるで少女の脳味噌の中に老医師の話を書き留める何者かがいて、そうして書き留めたものを後から読み上げているとでもいうように。
白人は強いのだと、老医師は言った。そして強者は善悪さえも決めるのだと、そう言った。その言葉を、少女は己でも驚くほどの既知感をもって繰り返した。
しかし、その意味を少女がそのまま飲み込んだかといえば、それはまた別の話であった。人間は誰しもそうであるように、少女には少女自身、その短い歴史の中で培ってきたものがあった。それは見識とまでは呼べずとも、辛うじて
人間は変化を嫌うものである。それが
開かずの扉とは言っても、それは鍵がかけられているわけでも、はたまた扉が壊れているわけでもないということを、少女はこの長い期間のうちに知っていた。好奇心が抑えられなくなった少女は、一度、その扉の把手に触れたのだ。
それはある日の午後のことだった。昼食を下げにきた看護師が去ってしばらく後、扉の向こうでカタン、と小さな音がした。三度の食事の時間以外に看護師がやってくることなど、いままでに一度もない。かといって看護師以外の人間がこの部屋を訪れることなど、余程有り得ないことだった。少女はしばらく扉を見つめた。しかし、それが開くことはなかった。少女は少し考えてから、車椅子で部屋の外へ出た。廊下は、しんと静まり返っていた。薄ぼんやりとした照明が剥き出しのコンクリートを照らし出し、改めてここが昼も夜もない、地下室であることを思い出させた。風も吹き込まなければ、その風で音を立てるような装飾物もないその場所は、先ほどの音を空耳だと思わせるに十分な寒々しさを備えている。
と、少女の手のひらに汗が滲んだ。彼女の目に、この地下室が突然
瞬間、少女の脳裏に浮かんだのは、あの小さな頭蓋骨だった。結果的には黄色人種のものであった、あの小さな頭蓋骨。そしてもう一方、老医師が白色人種のものだと言った、あの大きな頭蓋骨。
頭蓋骨の模型を購入しようと思ったとき、人は縮尺の違うものを手に入れようと思うだろうか。それ以前に、そもそも模型は黄色人種と白色人種という区別がなされた上で売られているのか。
そんな疑問が脳裏を行き交うのは、あの頭蓋骨が本物である可能性を少女が無意識に疑っているせいであった。この地下室において
心臓が胸を破りそうなほど大きく鼓動し、気がつくと少女は開けてはいけない扉の前にいた。ぶるぶると震える手が把手に触れ、それを回そうとした。それは扉を開けようとしたというよりは、開かないことを確かめようという意図からの行為だった。それに秘密の部屋には鍵がかかっているものだ。扉が開くはずがないという先入観もあった。
しかし、実際は違った。把手は軽やかに回り――扉はほんの数ミリ、動いた。少女が我に返ったのは、そのときだった。声にならない悲鳴を上げ、少女は必死で車椅子の車輪を回した。部屋に戻り、荒い呼吸を鎮めようと必死で口を押さえた。指先に、高くなった鼻が触れた。
開けてはいけない扉を、少女は開けるわけにはいかなかった。禁を破れば、老医師の怒りに触れ、彼女はその中途半端な姿のまま放り出されてしまうかもしれない。もしくは、あの小さな頭蓋骨の主のように、この地下室の備品にされてしまったら?
その行いが老医師に知られぬようにと、少女は目を閉じ、祈りを捧げた。その瞬間、一体この地下室で彼女は何の神に祈ればいいのか、そもそもこのコンクリートだらけの都会に神はいるのか、そんな疑問が頭をよぎりはしたが、少女にはそれを深く考える余裕も知識もなかった。ただ、捨てた故郷の
果たして、その少女の祈りを聞き届けた神の名は何であっただろうか。ともあれ、手術室に現れた老医師は、さして変わった様子もなく、いつものように手術の準備を始めた。
さて、白色人種がどのようにして、世界一の強者となったのか、君はその殺戮の歴史を知ったのだったね。
三ヶ月も前の話など、誰しも忘れていそうなものだが、老医師はその
血に塗れた暴力。彼らはそれを使い、世界中の人間を殺し、その領土を我が物にした。そして、その力はついに東の果て、この日本にまで達することとなる。黒船来航だ。大航海時代、彼らは世界中を旅しながら、先住民族だけでなく、様々な生き物を絶滅に追いやってきた。黒船が日本に現れたのも、彼らの海で
老医師の言葉が終わらぬうちに、手術台の少女が驚いたように跳ね起きた。体を震わせ、大きくなった二重の両眼で老医師を見つめる。そのとき、老医師は少女の口に開口器をつけようとしていたが、素早くそれを引っ込めたため、その手がぶつかることはなかった。肋軟骨を入れた少女の鼻は衝撃に弱い。跳ね起きた少女も、すぐにその危険性に気づいたのだろう。ごくりと息を飲み、そろそろと手術台へ体を横たえた。それを確認してから、老医師は改めて開口器の装着を試みた。その目が反応を伺うように、じっと少女に向けられる。
……クジラといえば、日本人だけが捕っているという誤解があるが、世界最大の動物であるシロナガスクジラを絶滅に追い込んだのは、白色人種だった。鯨油を絞るには、大きな個体を取る方が効率がいい。しかし、大きな動物ほど成長に時間がかかるため、個体の減少を招きやすい。白色人種の乱獲で、シロナガスクジラは北大西洋――アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の間の広大な海から姿を消した。そのとき、
老医師が使った開口器という器具は、少女の口を強制的に開き、閉じないようにするためのものであった。そうして開いた少女の口腔から切り込みを入れ、その切り込みから顎の整形を行うのだ。具体的には、顎の両側の骨を切り落として
日本人もまた、この小さな島を制した強者ではあった。
顎の神経に麻酔を終えると、老医師は電動カッターを手に取った。
君も知っているだろう? この日本にも、古くは
少女の奥の歯茎、その根本をメスで切り開いた老医師は、その裂け目に電動カッターを入れた。血飛沫が老医師の顔を汚した。痛みはない、ただ振動が少女の頭蓋骨を揺らした。少女はその骨から作り変えられている、それはそんな確信をもたらす音だった。
弱者であるとはどういうことか――。
老医師は、赤い飛沫を拭いもせずに言った。
弱者であること、それは強者の言いなりにならねばならないということだ。例えそれが理不尽な要求であったとしても、飲み込まねばならないということだ。己の築き上げたものを踏み潰されたとしても、馬鹿にされたとしても、はたまた取り上げられたとしても、黙って耐えなければならないということだ。それは教室で行われる
電動カッターの音が止み、カラン、膿盆に白い欠片が落とされた。少女の右顎の骨片だ。その白い骨を、老医師は束の間、見つめた。それから潤んだ少女の瞳に視線を移した。
君は大勢の日本人のように、戦争は
老医師は、再び電動カッターを始動させた。いま一度激しい振動が骨を震わせ、恐れをなした少女の涙は、とうとう目尻からこぼれ落ちた。
言っただろう、
カラン、もう一つの骨片が、銀の膿盆に落とされた。電動カッターの刃は鮮血に濡れていた。老医師はそれを置くと、少女の下唇の根本に切れ込みを入れ、そこからシリコンをねじ込んだ。
この世に絶対的な善悪などない。美醜も、正義も不義もない。あるのは、殺す者と殺される者――強者と弱者という二種類の人間だけだ。だから、日本は戦争を
顎の外側からシリコンの位置を確かめた老医師の指先が、そのまま上の方へと動き――つと、少女の頬を
少女は驚き、老医師の目を見た。ごぼり、喉の奥が音を立て、その皺に埋もれた小さな目に温もりの手がかりを見つけようと懸命になった。しかし、頬に触れた指先は、ほんの一瞬で彼女を離れ、温もりは瞬く間に冷めた。
なぜ、
老医師は、少女の目を見ずに呟いた。そこに、先ほどの温もりは影も形も無くなっていた。代わりにあるのは、一気に十も老け込んだような力無い横顔だった。
この島国の覇者として、初めて戦いに負けた僕たちは、いままで築き上げてきた誇りを尊厳を、その全てを失くしてしまった。それは強者によって意図的に奪い取られたと言っても過言ではないが、とにかく僕たちは二度と立ち上がることもできないほど、完膚無きまでに叩きのめされてしまった。立ち上がろうにも、強者は僕たちからその
老医師は少女の口腔の傷を縫い終えた。パチリ、透明な糸を切る。
例えば、僕たちが世界一の強者となった世界を、君は想像できるだろうか。年功序列や敬語といった
まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、少女の麻酔が切れるのも待たず、老医師は手術室から足早に去った。あとには、ライトの消された手術台の上で、じっと横たわる少女が残った。少女の体は、手術着から出た部分が仄白く光って見えた。それは看護師が食事と共に持ってくる薬が、彼女の色素細胞を壊し続けているおかげだった。その恩恵に預かり、ようやく生え揃った少女の頭髪も日に日にその色を薄くしていた。
おたまじゃくしが蛙になるように、少女は白人へ変化する、その途上にあった。あとは、その黒い瞳、それから下肢の骨延長器具が外れれば、少女は立派な白人となるだろう。
看護師の足音が廊下に聞こえ、静かに手術室の扉が開いた。彼女は無言のまま手術台の少女に近づくと、慣れた手つきで麻酔薬を用意し、骨延長の器具を外した。そして再び少女を車椅子に乗せると、明日からリハビリを始めましょう――初めて聞く声で囁いた。その声音に、弛緩していた少女の背筋は凍りついた。故郷から彼女を追いかけてきた過去が、いま、その足首に絡みついたかのように思えたのだ。
四、虹彩メラニン除去手術
およそ一年前。父親の金庫にあった、一センチ厚の紙束を震える手でカバンに仕舞い、一日数本しか来ない電車に乗って、少女は都会を目指した。目的地は、東京ではなかった。けれど、結局そこに辿り着いてしまったのはなぜだろう。それは、
しかし理由がどうであれ、夜の東京へ着いてしまった少女に後戻りはできなかった。ネオンに照らされた美容整形の広告は、百万というカバンの大金が、実は
消し忘れたラジオの音で、少女は目を覚ました。初めてこの地下室に足を踏み入れてから、どれほどの月日が経ったのかは分からない。けれど、あの日老医師によって丸刈りにされた髪が、いまは耳にかけるほどに伸びたことが、その時間の長さの証明だろう。少し寝癖のついた、その髪の色を少女は見つめた。輝かんばかりの金色と、その金色を摘む白い指。滑らかな手の甲や肩や胸や足、見える限りの肌は雪よりも白く、手で触れる鼻は高く、目は大きく、足は驚くほどに長い。一度骨を切断し、リハビリが必要だったその足も、いまは強さを取り戻して車椅子を必要とすることはなかった。
幸福をその胸に満たし、少女は冷たい床にそっとつま先を下ろした。今日、最後の手術が行われるということを、少女は前夜、知らされていた。忌むべきこの瞳の黒は、まもなく海のような青に変わる。そのとき少女はこの暗い地下室を出て、眩しい日差しのもとへと旅立つのだ。
有り金を全て老医師に差し出した少女は無一文で、帰る家もなければ、働き口のあてもなかった。しかし、少女の胸に憂いはなかった。少女は
そのとき扉が小さくノックされ、いつものように看護師が朝食を運んできた。その
その理由を、
朝食を終え、部屋を出た少女は、ふと例の
少女はその扉に近づくと、まるでそれが当然の権利であるかのように把手を回した。扉を押し開いた。暗い室内の電気を点ける。そしてそこにあるものを見渡すと、小さく眉をひそめた。
そこには死体も、頭蓋骨も、血生臭いものは何もなかった。それだけではない。机や本棚といった家具もなく、がらんとした空間だけが広がっている。しかし、少女が眉をしかめた理由はそこにはなかった。それは目の前の壁、一面に貼られた写真だった。そして更に言うならば、その写真に写っていたのがどれも有色人種であり、その一番端――最も新しく貼りつけられたと思しき一枚が
禁を犯していることも忘れ、少女はふらりと足を進めた。それは忘れもしない、少女が小学校に上がったときの写真だった。隣ではにかむように笑っているのは、少女が
老医師は、この写真をどこから手に入れたのだろう。二歩、三歩と進みながら、少女の手のひらは汗ばんだ。その写真の中で、少女は楽しげに笑っていた。目は細く、鼻はぺしゃんこで、日に焼けた肌は黒すぎるというのに、それでも彼女は笑っていた。なぜなら、かつて少女は知らなかったのだ——自らが弱者に生まれついてしまったことを。そして、その笑みを奪う強者が世界には存在しているということを。
あなたは可愛いイルカを食べる、ゴキブリよ。
そのとき、
それはある日のことだった。友達と別れ、一人で帰り道を急ぐ少女に、向かいから白人の集団が歩いてきた。それ自体は、あの町では珍しいことではなかった。しかし、だからといって我が物顔で道をそぞろ歩く彼らが怖くないわけではない。少女は道路を渡り、彼らを避けようとした。普段ならばそれで済むはずのことだった。
しかし、その日は違った。白人の一人が少女を指して、何事か言ったのだ。少女は思わず足を止めた。そのときだった。彼らの集団に紛れていた
イルカの代わりに、あなたが殺されちゃえばいいのにね。
その途端、
少女はその場を逃げ出した。その後ろ姿を、笑い声が追いかけた。彼らはイルカを捕る漁師に抗議するため、この町に押しかけた異邦人だった。イルカを食べない国も、この世界には存在する。少女は学校の教師たちにそう教えられていた。その教えに、少女は疑問を抱かなかった。なぜなら彼らは同じ人間であるというのに、少女とは似ても似つかぬ様子をしている。それなら異なる感覚を持っていても不思議ではないと、そう思っていたのだ。だから彼らが何を言っていようと、見て見ぬ振りをすることができた。
しかし、
あの日あの瞬間から、少女はイルカを食べなくなった。イルカを殺すことに残酷さを感じるようになり、イルカ漁を続ける漁師を蔑むようにもなった。そうすれば、もう二度とゴキブリと呼ばれることもあるまい。イルカの代わりに死ねなどと言われることもあるまい――幼かった少女が、そんな思いを抱いたのかは定かではない。思考というものは、心の深い場所に張った
だから僕は言ったのだ――強さと弱さの話をしよう、と。
声が響き、少女が振り向くと、そこには老医師の姿があった。いつからそこに立っていたのか、しかし彼は扉を開けた少女を咎めなかった。口を開きかけた少女を遮り、画竜点睛といこうではないか――瞳だけ黒い少女に告げる。ゆっくりと踵を返す。どうやら叱られはしないらしい。ほっとした少女は、老医師の後をついて部屋を出ようとした。と、そのとき少女の写真の反対側に、彼女はもう一枚、彼女を写したものを見つけた。数ある写真の中でも最初に貼られたと思しきその写真は、しかし白黒でとても古く、その後ろで微笑む女性も白人のようならば、なおさら少女には覚えのないものだった。よく似ているが、他人の空似というものだろうか。
手術室へ入ると、老医師は少女に着替えさせることもなく、手術台へ上がるようにと言った。そうして横たわった少女の瞼を開瞼器で固定し、瞳のメラニン色素をレーザー照射で取り除く間、老医師は
最後の手術を終えると、老医師は部屋の隅にかかっていたカーテンを引いた。そこから現れたのは、大きな鏡だった。少女は引き寄せられるように、その鏡へと近づき――息を飲んだ。鏡に映るのは、日本人の面影など少しもない、完璧な白人の少女だった。
おめでとう。君は、強者の容姿を手に入れた。
虚像に見入る少女の背後に立ち、老医師はにこりともせずに言った。礼を口にし、喜びをあらわにしようとする少女を遮るように、札束を差し出す。それは少女が手術料として、老医師に払った百万円だった。
言っただろう。僕はお金という対価を必要としていない。
その一センチ厚の紙束を、少女の手に押しつける。どこからか不意に風が舞い込み、少女が顔を上げると手術室の扉――地上へと続く扉が彼女を
一瞬、躊躇った後、少女は一歩を踏み出した。この先にある、強者の世界。そこは強者の皮を手に入れた少女にとって、楽しく、生きやすい場所であるに違いない。
君がここから去る前に——。
行きかけた少女を、老医師の言葉が呼び止めた。階段の半ばで少女は振り返った。その口調は気が逸る少女をよそに、とてもゆっくりしたものだった。
最終試験、というわけではないが、僕からの最後の質問だ。白色人種が、名実ともに世界一の強者となった歴史は、君も理解したと思うが……では、なぜその白色人種たちが人種間の優劣を研究し、彼らの優位を示すためにたくさんの論文を書き続けなければならなかったのか、君には分かるかね?
地下室の明かりを背に受けて、老医師の顔はよく見えない。ただ、その口元だけがまるで別の生き物のように動いていることに、少女は薄気味悪さを感じた。
そのとき世界はほぼ白人の植民地であり、彼らが
階段の上からは、太陽の光が差していた。耳を澄ませば、そこからは賑やかな都会のざわめきが聞こえてくるようだった。少女の気は急いた。白人となったいま、老医師の話に付き合う義理はなく、また引き止められる理由もなかった。しかし、どういうわけか少女はそこから動くことができなかった。
よく考えてもみたまえ。例えば百獣の王であるライオンが、ことさらその威を示そうとするだろうか。いいや、するはずがない。なぜなら、
老医師の口の端は、引き攣るように吊り上がった。
僕たち人類は遠い昔、アフリカ大陸で生まれ、そこから世界中へと散らばっていったと、以前僕はそう言ったね。そうして散らばった現生人類が、他の大陸に住んでいた他の人類を滅ぼしていったのだ、と。しかし、君は疑問に思わないかね? なぜ僕たちはアフリカから――誕生の地から旅立ったのか……否、旅立たねばならなかったのだろうか? 答えはそう、お馴染みのやつだ――それは戦いに敗れたからだ。戦いに負け、アフリカから
笑みのようなものを漏らし、続ける。
その説によれば――現代の白色人種の祖先は、アフリカで生まれた
つまり――老医師の声は低かった。
白色人種が、自分たちは優秀だと叫ばなければならなかった理由――それは彼らが他の人種に比べて、真実、
全ての価値は変化する、
そうなると、だ。君が手に入れたのは
いつのまにか、粘りつくような冷たさが地下室から少女の足元にまで這い上がっていた。その冷たさは、ここは
その無機質な沈黙に、命ある少女が耐えられるはずもなかった。彼女は一息に階段を駆け上がると、迷うことなく外の世界へと飛び出した。
そこには輝かしくも美しい、真白い価値に塗り込められた世界が待っている。少女の大きな青い目に、東京の街は黄色味を帯びて広がった。
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