人形は夢を見る


 一、額形成術


 人間が語るべきは美醜﹅﹅ではなく、強さ﹅﹅弱さ﹅﹅なのだと、その老医師は手術台の少女に言った。

 

 夜の街の、奥の奥底。太陽の裁きを受けぬ、その街の最下層に老医師の地下室はあった。

 そこ﹅﹅へ行けば望みが叶う――都市伝説が形を成したようなその地下室は、決して誰もが辿り着ける場所ではない。けれど、この石や砂、石膏や石油や鉄が形を変え、人の手によって成された都会にというものが宿るのなら、少女を導いたものはその神と呼ばれるものだったのかもしれない。

 未成年と呼ばれる少年少女を、法律は制限行為能力者と呼ぶ。なぜなら、彼らは独りで有効な法律行為を行うことができず、種々の契約や取引について常に親権者の同意が必要とされるからだ。例えば、ポケベルやPHSピッチを少女が購入することができないのもその制限のせいであり、それは医療行為に関しても同様だった。それも命に危険のある緊急性の高いものではなく、その姿形を変えたいという要望のもとに行われる手術――美容﹅﹅整形﹅﹅と呼ばれる領域については言うまでもないだろう。

 しかし、広告もなければ看板もない、文字通り、陽の光も届かぬ老医師の地下室では法律﹅﹅という二文字が、その二文字以上の意味を持つことはなかった。というのも、その二文字が一般の人々を縛ることのできる理由を、また己がそれに抗うことができる理由を、老医師はよくよく理解していたからである。

 少女は知る由もなかったが、その理由こそが先ほど老医師が口にした言葉の真意であった。もっとも、手術台の上の少女はその言葉を聞いていたのかいなかったのか、それとも聞いたとしても理解することができなかったのか、眉ひとつ動かさなかった。

 緊張した面持ちで、少女はそこに横たわっていた。老医師に刈られた頭には髪がなく、素肌には白い手術着をまとっているだけだった。そんな少女の顔に、老医師はを描いていた。細い竹串の先を紫色の液に浸し、まるで刺青のデザインをするように、額、瞼、目頭、鼻筋、鼻翼、顎の両側、そして下顎。その慎重な線の描き出す未来図が、老医師の目には見えているのだろう。めつすがめつすると、一度頷き、手術用のライトを点ける。銀色のワゴンを引き寄せ、太い注射筒シリンジに針をつける。シリンジを満たした麻酔薬が揺れる。ため息ともつかぬ小さな吐息が、地下室に始まりのときを告げた。

 少女は、これから白人﹅﹅となる。老医師が、その手の操る数々の手術器具が、法律という制限を無視したありとあらゆる技術を以って、この日本人の少女を白人へと変える。頭皮を剥ぎ、皮膚を切り取り、縫い、骨を切り、削り、色素細胞を破壊して、完璧な白色人種へと変貌させる。

 なぜなら、それが少女の望みだった。どれほどの苦痛を得ようとも、どれだけ時間がかかろうとも、白人になりたい。その強い願いが、少女を東京へ――この海のない街へと導いたのだ。百万という大金と、もう二度と故郷に帰らないという決意を胸に抱かせて。

 とはいえ、この夜の吹き溜まりにおいて、少女は有象無象だった。その胸にどんなに強い願いがあろうが未成年者の家出など珍しくもなく、また特別でもありえない。もし、ここでその言葉が使われるとすれば、それは老医師のほうだった。この偏屈そうな老人がなぜ、少女の望みを叶えようなどという気ま﹅﹅ぐれ﹅﹅を起こしたのかという、その理由の方が特別﹅﹅という言葉を与えるにふさわしいだろう。

 とはいえ、老医師の事情は誰の知るところでもなかった。ただ事実として人が知るのは、彼が法律の外で世界一の技術を誇る医師であり、その顧客は世界中に存在しているという事実であった。さらに言えば、その顧客とのやりとりで動く金銭は何千万、否、何億という単位の金であり、少女が差し出した百万など、彼にとって報酬﹅﹅とは言えない額であった。しかし、それらの顧客を差し置いて、老医師は少女を選んだ。それもまた、揺るぎない事実だった。

 滞りなく、すべての準備を完了させた老医師は、術部に局所麻酔を施すための注射針を少女に向けた。老医師はしゃ﹅﹅べり﹅﹅ゆえに、全身麻酔を好まなかった。患者が意識を失ってしまえば、彼の声は届かない。彼はそれを嫌ったのだ。

 細いとは言えない針が頭皮を貫き、痛みに少女は眉をしかめた。しかしそれも一瞬のことで、少女のその部分はすぐに何も感じなくなった。その機を見計らったように老医師は注射針を抜き、代わりにその手にメスを取った。さくり、爽やかさすら感じさせる音で少女の頭皮を切り開く。予め描かれた紫色の線に沿い、まるで果物の皮にナイフを入れるようにメスは進む。その指先から目を離すことなく、老医師は再び口を開いた。


 いいかい。それがしい﹅﹅か、醜い﹅﹅かなど、いくら議論したところで無意味なんだよ。答えなんか出るはずがない。なぜなら、この世の中には絶対﹅﹅的な﹅﹅美醜﹅﹅など存在しないからだ。ならば、美醜を問いたい場合にどうしたらいいか。どんな議論をするべきか。それを僕は、力の﹅﹅強弱﹅﹅だと言ったのだ。この世界という白紙に価値の線を引く者は、いつでも強者﹅﹅なのだから。


 手術が始まると、老医師は人が変わったように饒舌になった。マスク越しの声はくぐもっているが、それでも明るく楽しげだ。少女を覗き込む、その皺に囲まれた小さな目が光を宿して瞬いた。


 ……とは言ったものの、僕が何を言っているのか、君はまるで理解できないという顔をしているね。美醜と、この二つは一見関係ないようにも見える。しかし……ふむ、それならば問いを変えようか。君はなぜ白人になりたいのか。それは白人を美しいと思うからだ。では、なぜ君は白人を美しいと思うのか――いや、その問いは正しくないな。では、こう問い直そう。なぜ僕たちは白人をしい﹅﹅じて﹅﹅まう﹅﹅のか、と。


 麻酔がかけられたのは少女の額から前頭部へかけての部分であり、少女がその声帯を震わせ、答えとなる言葉を紡ぎ出すには何ら支障はないはずだった。しかし老医師がしばらく沈黙を守り、その思考を促したにも関わらず、少女はその問いに答えなかった。それは答えが分からなかったせいか、それとも初めての手術に緊張していたせいか。

 沈黙の間も、老医師のメスはさくりさくりと音を立て、いまは青い生え際に沿って額の皮膚を切り開いた。紫で描かれた線は、滲み出した血の色に侵された。線をなぞり終えると、老医師はメスを小さな剪刀ハサミへと持ち替えた。切り込みを入れた生え際から下の方へ——額の骨に沿って皮を剥ぐように、少しずつ切り進めていく。こつこつ、剪刀が骨に当たる。皮の下から露わになった骨の色は、透明感のある白色だ。老医師はそうしてあっという間に骨から額の皮を切り離すと、それをぺろりとひっくり返した。生温かい、己の皮膚組織で目隠しをされる格好となった少女は息を飲んだ。しかし、老医師はそれを気にする風もなく、しゃ﹅﹅べり﹅﹅を続けた。


 ここで僕たち﹅﹅というのは、無論、有色人種のことだ。黄色、褐色、茶色、黒……君も知っての通り、この世の中には様々な色の皮膚をした人間が存在する。しかし――だよ。僕のところへやってくる有色人種たちはそのどの色でもなくになりたいのだと、口を揃える。単純に色を選ぶのならば黄色が黒を選ぶことも、茶色が黄色を選ぶことも、何ら不思議ではないはずだ。しかし彼らは必ずこう言う。黄色や黒なんてとんでもない、どうかにしてくれ、と。一体、それはなぜなのか。そう考えてみれば、君も色白美人、美白といったが美しいという言葉があっても、色黒美人、美黒という言葉はないことに気づくだろう。そこから更に考えを進めると、なぜ人口比では白人よりもはるかに大きな集団が一つの枠に――有色人種c o l o r e dという言葉に押し込められているだろうかという疑問に行き着く。同時にそれと対となる単語、白色人種w h i t eという言葉に疑問を抱くはずだ。なぜなら、有色﹅﹅の対義語は無色﹅﹅でしかない。しかし、白という色は果たして無色と言えるだろうか? いいや、言えない。となると彼らもまた、有色﹅﹅人種﹅﹅であるはずだ。そうだろう? それに実を言えば、あの色は白ではなくと呼ぶべきだとも、僕は時折考えることがある。君も知っているだろう、黒船が来航したとき、初めてアメリカ人を見た江戸の人々は、赤鬼﹅﹅が来たと言って大騒ぎしたんだ。そもそもという存在は、その昔に日本に流れ着き、隠れ住んでいた白色人種ではないかという話もあるが、どちらにせよ、あの頃の日本人にとって、白人はだった。それほど恐ろしい異形の存在に見えたんだ。それが嘉永六年、たった﹅﹅﹅百六﹅﹅十五﹅﹅年前﹅﹅のことだ。僕のひいおじいさんの時代の話だよ。それがいまや――。


 老医師はマスクの下で笑みを漏らした。露出した前頭骨をガーゼで無造作に拭く。いまは平らなそこを隆起させる準備に入る。


 君は赤鬼﹅﹅が美しいと言う。一重のまぶたが醜いのだと言って泣く。同じように、この低い鼻が恥ずかしいのだと、この肌色は汚いのだと、黒い瞳は青に劣るのだと言って悲しむ。……アルビノ、という言葉を君は知ってるかい? 遺伝子の異常により白色化してしまった個体のことだ。アルビノの個体は様々な異常を抱えており、多くが短命であるため、昔は忌み嫌われる存在だった。動物の目的は、生きて子孫を繋いでいくことだからね。白色人種の外見は、まさに人間のアルビノだ。それがどうして美しいものかね。……しかし、そんなことを言っても、君は聞く耳を持たないだろうね。それほどに君は追い詰められている。だからこそ僕の地下室へと辿り着いた。どこから来たのか、僕に差し出した金が誰のものなのか。そんなことは知らないが、君はひどく追い詰められてしまった、それだけは僕にも分かる……。


 呟くように言いながら、老医師は銀色のワゴンの上で、何やら粉と液体を混ぜ始めた。骨セメントだ。老医師はそれを粘土のように捏ね上げると、その白い塊を露出した少女の骨に直接乗せた。粘土で遊ぶ子供のように、ぺたぺたとその形を整える。剥かれた自らの皮の下で、少女の表情は見えることがないが、その両手は体の横でしっかりと握り締められている。


 僕が美醜ではなく、強さと弱さの話をしようと言ったのは、そういうわけだよ。分かるかい? 美しいものと、醜いもの――美醜、それは善悪﹅﹅と同じだ。絶対﹅﹅的な﹅﹅もの﹅﹅では﹅﹅なく﹅﹅流動﹅﹅的で﹅﹅あや﹅﹅ふや﹅﹅価値﹅﹅。どうだい? ここまで説明しても、まだ僕が何を言おうとしているのか分からないかな? それなら例えば――ちょっと目を開けてこれを見てごらん。


 老医師は頭皮をくるりと元の位置へ戻し、少女に視界を与えた。そうしてから、その目の前に大小二つの頭蓋骨を差し出す。少女は眩しさに目を細めてから、驚いたようにその細い目を見張った。


 これは、僕たち黄色人種と白色人種のしゃ﹅﹅れこ﹅﹅うべ﹅﹅だ。さて、どちらがどちらのものか、君には分かるかね?


 まさか本物ではないだろう。しかし、それはとてもまがい物とは思えない、迫力のある代物だった。一方の頭蓋骨が小さいのは、単なる縮尺の違いだろうか。いくら白人の体格がいいとはいっても、頭の大きさはそう変わるまい。とすると、その違いは引っ﹅﹅掛け﹅﹅なのだろうか。

 その二つの頭蓋骨を、老医師は少女の鼻先へ近づけた。その全体を余さず観察させようというように、ゆっくりと回してみせる。そして動作を終えると、改めてそれを少女に示した。


 さて、この僕の右手と左手にあるしゃ﹅﹅れこ﹅﹅うべ﹅﹅。一体どちらがしい﹅﹅かね? 右か、それとも左か……。絶対﹅﹅的な﹅﹅があるというのならば、それはどちらに存在するのか。


 反応を示すこともなかった先ほどの問いとは違い、少女は目を凝らし、その答えを見い出そうとした。どちらがしい﹅﹅のか、真剣に考え、感じようと懸命になった。しかし、それが詮無き行為であることは明らかだった。老医師に答えるために必要なものは審美眼ではなく、解剖学の知識である。少女はそれに気づいただろうか。白色人種のしゃ﹅﹅れこ﹅﹅うべ﹅﹅はこちらだ――しばらく後、老医師が大きい方の頭蓋骨を掲げたそのとき、少女は自分がそちらを見ていなかったことに失望を覚えたようだった。それを知ってか知らずか、老医師は二つの頭蓋骨、その頭頂部を少女へ向けた。


 見てごらん。白色人種のしゃ﹅﹅れこ﹅﹅うべ﹅﹅は上から見ると、額と後頭部が膨らんだ楕円をしているだろう。対して黄色人種のものは、上から見ると丸く見える。形質人類学においては前者を長頭型、後者を短頭型と言い表すのだが……実は、白色人種はこの長頭型が優れた人種の証拠であると、長い間考えていた。悪名高きナチスドイツがユダヤ人迫害の根拠としたのも、この頭型が理由の一つだ。ドイツ人の頭型は他の白色人種に比べても長かったものだからね。彼らは、頭の大きさはそのまま脳味噌の大きさに直結し、引いては知能の高さを表しているのだと考えていた。いや、考え﹅﹅いた﹅﹅という表現では生易しいだろう。実はドイツだけでなくヨーロッパ中の白色人種は、人種の優劣﹅﹅について研究を重ね、膨大な数の論文を発表し続けてきたのだよ。それはもう取り憑かれたかのように、彼らは自分たちの優秀さを証明しようと試みてきたんだ。その結果が、長頭型という分類だった。この考え方に基づき、十九世紀には白人至上主義がもてはやされた。全ての人種において、白色人種が一番優秀で美しい――その考えは、実に二十世紀半ばまで彼らにとっての常識﹅﹅だった。だからこそ、彼らは有色人種を動物以下の扱いとしたのだが……君のその目は、その常識﹅﹅が正しかったのかどうか、知りたいとでも言いたげだね? ふむ、君はどう思う? 白色人種は生まれながらに優れていて、有色人種はそれに劣っていると思うかね? 美しさ、知能、神によって全ての能力が与えられた者が白色人種であると。君はこれから白人になるのだ。そう思いたくなるのも当然だろうね。しかし、僕は科学的な見地から、君の問いにこう答えなければならないだろう――実は、長頭型の人種は白色人種ばかりではなく、多くの黒色﹅﹅人種﹅﹅も長頭型のしゃ﹅﹅れこ﹅﹅うべ﹅﹅を持っているんだよ、と。白色人種はどういうわけか、その事実にはまったく見向きもしなかったがね。


 そもそも頭の形で人種を区別することは不可能だ――老医師は呵呵かかと笑った。哄笑に少女は何を思ったか、しかしその瞳に何がしかの色が宿る前に、老医師は再び少女の目に被せるように頭皮を剥いだ。額に盛り上がった骨セメントの硬度を確かめるように、指先でコツコツと叩く。それから持針器を取ると、先ほど切り離したばかりの皮膚を縫い合わせにかかった。


 人種人種と言うけどね、そんなものは表面の一枚のことでしかない。それが何色の皮だったとしても、一皮剥いてしまえば全部同じだ。それくらい、君にだって分かるだろう? 白色人種だからって、心臓が二つあるかい? 有色人種の内臓は黒いのかい? そんなはずはない。では、最初の質問に戻ろう。……僕たちはなぜ、白人を美しいと思うのか。君はなぜ白人のを欲しがるのか。かつて赤鬼﹅﹅だったものに憧れるのはなぜか。


 まるで破れたぬいぐるみをつくろうように、老医師はてきぱきと少女の頭皮を縫い合わせた。骨セメントの盛られた少女の額は、まるで元からそうであったかのように丸く秀で、あの大きな方の頭蓋骨のような長頭型に近づいた。しかし、それだけで少女は白人に似るべくもない。他の部分にも大規模な施術が必要であることは明らかだ。

 傷を繕った老医師が、余り糸をぷつりと切る。と同時に、少女の緊張の糸も切れた。彼女は手術台の上にぐったりと横たわり、老医師の問いに答えるどころか、起き上がる元気すらないようだった。老医師もまた答えを強要することはなく、少女の様子を一瞥すると、血と脂に汚れた器具を一纏ひとまとめにして手術室の外へと消えていった。

 全ての施術が終わるまで一年はかかるだろうと、初め、老医師はそう言った。つまり少女が白人に変わるまで、時間はまだ十分にある。二人の間に、急ぐことは何もないのだ。




 二、隆鼻術・全切開法二重術


 世界一の腕と噂される通り、老医師の手術は完璧だった。少女の額は熱を持つことも腫れることもなく、縫い合わされた跡だけが日に日に消えていくだけであった。その縫い跡もよほど綺麗に繕われたのだろう、見た目には何事もなかったかのように滑らかに繋がっている。

 とはいうものの、少女がその跡を自身で確認することは叶わなかった。なぜなら、白人になるまでの期間、少女に与えられた部屋には鏡がなかった。部屋に設置された洗面所にも、風呂にも、トイレにも、鏡どころかおよそ少女の姿が写り込みそうなものは何もなく、地下室という特性上、窓というものも存在しない。

 少女の手術が行われた手術室には二つの扉がついており、一方は外へ通じる階段へ、もう一方は少女の居室のある廊下へと繋がっていた。その薄暗い廊下にもまた二つ扉があり、手前が少女の居住用、奥は開け﹅﹅ては﹅﹅いけ﹅﹅ない﹅﹅扉だった。少女にそう戒めたのはもちろん、あの老医師だった。それは外へ繋がるものではなく、ただの部屋であるという。しかし、決して開けてはいけないのだと、老医師は繰り返した。

 老医師の機嫌を損ね、手術が完了しないうちにここから放り出されては困る。少女は禁を破る気などなかったが、一週間も経つと、生活の単調さには飽きがきた。何せ、外出が禁じられているにもかかわらず、少女の部屋にはテレビも電話もなかった。地下室と外界を繋ぐものとして、唯一、ラジオが置いてあったが、それはどんなに丹念に周波数を探っても、英語しか流れてこない代物であった。本棚に蔵されているのは子供向けの絵本で、それをめくってみても英語ばかり、一日三度の食事と飲み薬を運んでくる女性看護師はいたが、彼女も老医師から何か言いつけられているのか、傷を確かめるときさえ終始無言で、少女は生まれて初めて日本語に飢えた。

 それゆえ、少女が次の手術を知らされ、あの手術室に再び足を踏み入れたとき、その胸には老医師との会話を望む気持ちが芽生えていた。若しくは、老医師から再び問いかけられることがあれば、それに答える覚悟ができていた。何に追い詰められ、少女はこの地下室を訪れたのか。その理由を告白しても構わないような気持ちにさえなり始めていた。

 しかし、少女とは別の扉――外へ通じる扉から手術室に現れた老医師は、一言で彼女の気持ちを無に帰した。正確に言えば、彼女が戸惑っている間にその心意気をくじいたのだ。


 なぜ、人を殺してはいけないのか。その理由を君は知っているかい?


 開口一番、老医師はそう言った。そして唐突に、手術台に横たわった彼女の手術着をまくりあげ、青い乳房を露わにした。無論、老医師の目的は脂肪と腺組織によって盛り上がった少女の器官などではなく、その器官の内側﹅﹅にある肋軟骨ろくなんこつ――肋骨と胸骨を繋ぐ軟骨であった。低い鼻を高くするため、その軟骨を切り取り、鼻筋に入れるのである。

 それを知らない少女は、老医師に答えようとしたことも忘れ、息を飲み、恥辱に目を閉じた。老医師は老医師で、少女の答えなど期待していなかったのだろう、器具の準備を始めながら、しゃ﹅﹅べり﹅﹅を続けた。


 なぜ人を殺してはいけないのか。これは答えのない問いとしてよく耳にするものだが、実はその答えは明快だ——それは、法律により罰せられるからだ。


 局所麻酔を終えると、老医師は少女を見た。メスを取り、彼女に近づく。それから、何を思ったかニッと笑った。


 ……おや、そんな答えでは不服だというような顔をしているね。それではこう言い換えてみたらどうだろう。人を殺してはいけないのは、君が弱者﹅﹅だからだ、と。どうだね、今度は理解できるだろうか。いいかい、君は弱い﹅﹅。法律やそれを定める国家という強者﹅﹅に対して、君は弱者﹅﹅だ。だから、君は人を﹅﹅殺す﹅﹅自由を﹅﹅﹅奪われ﹅﹅﹅ている﹅﹅﹅。どうだい、信じられないくらい簡単な理屈だろう? けれど、実は本当にそれだけのことなんだよ。考えてもみたまえ。もし、君が法律や国家よりも強い﹅﹅のなら、人を殺したって構わない。だって、君を止める者は誰もいないからね。そうだろう? しかし――実際のところ、君は弱者だ。僕と二人きりの、この地下室の中でさえ。


 男の手にかかった経験のない乳房が、老医師の手によって押し上げられる。肋軟骨を採取すべく、その下部が切り開かれる。皮膚の下からは黄色い脂肪が、そして赤い肉が露わになった。先日の老医師の話を信じるならば、白い皮膚の下からも、黒い皮膚の下からも、同じ赤が覗くのだろう。

 君は弱者だ――老医師は繰り返すと、堪え切れぬというように笑いを漏らした。少女の皮膚が粟立ち、小さな乳首が屹立したのは、老医師の笑い声に恐怖を覚えたからか、それとも地下室の空気が冷たすぎるせいか。


 ふふ、ふ。どうだい、その通りだろう? なぜなら、手術を望むのは君であって、僕ではない。金? 確かに、君の差し出した金を僕は対価として受け取った。しかし残念ながら、それは僕に必要なものではないんだよ。ある分にはいいかもしれないが、なくても全く構わないものだ。けれど、君は? 君は僕を必要としている。法律で許可されていない施術をも行う、強者﹅﹅の僕をね。君も薄々ではあるが、僕たちの間にある力関係﹅﹅﹅を理解しているだろう。だからこそ大金をはたくだけでなく、僕に多大なる譲歩をせざるを得ない。本来ならば全身麻酔でしか行われない手術を、僕が部分麻酔で対応するのもその一つであり、また、君がそれに抗う術はない。……僕がなぜ全身麻酔を嫌うのか、って? さてね、その方がしゃ﹅﹅べり﹅﹅ができて楽しいだろう? それに僕がお金という対価に意味を感じない以上、君は他の対価を差し出す必要がある。そうは思わないかい? 無論、それが必要か﹅﹅﹅必要﹅﹅じゃ﹅﹅ないか﹅﹅﹅ということも、強者が決定することだ。強者である僕が、この地下室での規範ルールを決める。君を殺すことも、はたまた生かすことも。


 老医師はそこで一つ、咳払いをした。小さな音を立て、銀色をした膿盆トレイの上に白い軟骨が置かれた。乳房の下の傷を縫うと、老医師はその軟骨を取り、成形した。


 では、それがこの地下室ではなく、この世界﹅﹅ならばどうだろうか。誰が強者﹅﹅であり、世界の規範を決める者なのか。……改めて問わずとも、もう君も分かるだろう? 白色﹅﹅人種﹅﹅だ。彼らは強者だからこそ、この世界における価値を定める。例えばそれが、白人は美しいという価値であり、有色人種は醜いという価値だ。大きい目は美しく、細い目は嘲りの対象になる。長い手足や白い肌も同じだ。また、それは見た目の話だけではない。文化すら、強者のものに価値があるとされる。そうだろう? 彼らの文化である個人主義はいことだが、組織や集団に所属したがる僕たちの文化はであり、空気を読んだり周囲に合わせるということも、この国の癖の一つだと批判される。外人﹅﹅と彼らを呼ぶのは差別﹅﹅だという価値観もあるね。島国の人間である僕たちにとっては、からやってくる間はおしなべて外人﹅﹅だった。そこに悪い意味があろうはずもない。しかし世界一の強者である彼らは、新大陸﹅﹅﹅の原住民たちをイン﹅﹅ディ﹅﹅アン﹅﹅だのアボ﹅﹅ジニ﹅﹅だのとは呼びはしても、まさか有色﹅﹅人種﹅﹅の側から外人﹅﹅呼ばわりされるとは夢にも思わなかったのだろう。その屈辱は想像するに余りある。彼らがそれを差別﹅﹅だと糾弾するのも当然だろうね。それ以前に、何が﹅﹅差別に﹅﹅﹅当た﹅﹅のか﹅﹅ということも、強者である彼らが決めるべきことなのだから。


 老医師は言いながら、少女の鼻に注射針を刺した。麻酔薬が効いたそこで呼吸をする感覚を失い、必然、少女は口呼吸を始めた。しかし、それも老医師が鼻と鼻の間――鼻中隔にメスを入れるまでのことだった。鼻から滴った血液は少女の口腔に流れ込み、その唾液を赤く染め、喉でごぼごぼと泡立った。少女は苦悶の表情を浮かべた。しかし、老医師はその苦しみを笑うように言葉を続けた。


 それでは、どうやって白色人種は強者の地位へと上り詰めたのか。強さ﹅﹅とは、具体的に何を指すのか。


 鼻筋の皮膚の真下で、老医師の操る剪刀ハサミが動く。鼻の軟骨からその皮膚組織を剥がし、できたその隙間に少女の肋軟骨を挿入するためだ。皮膚下の剪刀が少女の眉間の手前へ到達すると、老医師はそれを抜き、形を整えた肋軟骨を手に取った。


 それはだ。


 言うと同時に、ぐいと力任せに鼻筋に肋軟骨を押し込む。


 強さ﹅﹅とは肉体的、且つ物理的なパワーのことだ。つまり、強者とは力が﹅﹅強い﹅﹅者の﹅﹅こと﹅﹅だ。早い話が、殴り合いをしてどちらが勝つかということだよ。どちらが死に、どちらが生き残るかということだと言ってもいい。言うまでもないが、地球上のすべての動植物はこの単純な原理に従って生きてきた。いや、生き﹅﹅残って﹅﹅﹅きた﹅﹅。生物の歴史は戦いの歴史だ。どの種も生き残るためだけに、戦いを繰り広げてきた。それは僕たち人間も例外ではない。負ければすべてが奪われる過酷なトーナメント戦を、人類は文字通り命を懸けて戦ってきたんだ。それは殺し合いに次ぐ、殺し合いだった。その結果、のない弱者は次々に歴史の舞台から姿を消した。


 マスクの下で、老医師は自嘲にも聞こえる笑みを漏らした。


 そうして消えていった敗者の名を、僕たちは知らない。彼らの言葉も、文化も、何もかも消えてしまった。強者がそれを殺し、奪ったのだ。つまり――これでもう分かっただろう? 白色人種が世界一の強者である理由、それは彼らが一番﹅﹅殺した﹅﹅﹅からだ。


 唐突に、老医師は口を閉じた。その皺に埋もれた小さな瞳は、鼻中隔を縫い合わせる己の指先を見つめているようでもあったが、同時にどこか遠い場所を見ているようでもあった。口の端から赤いよだれをこぼしながら、少女は瞳に何を映したか。ぼんやりとではありながら、その耳は白色人種の上げる、勝鬨かちどきを聞いただろうか。


 およそ十万年前、僕たち現生人類はアフリカ大陸で生まれた。白色人種も有色人種も、そのときは同じ容姿をしていた。白人や黄人という違い﹅﹅は、僕たちがアフリカから世界各地に散らばり、住み着いた土地に適応した姿に過ぎないのだ。しかし、すでにそんな時代から戦いは始まっていた。……君は、ネアンデルタール人という名前を聞いたことはないかね? 彼らは僕たちとは別種﹅﹅人類﹅﹅で、絶滅してしまった人類だ。誰が彼らを絶滅に追い込んだのか――無論、それは生き残っている僕たち現生人類に決まっている。つまり、僕たちは生まれた瞬間から戦いを始めたということだ。そして各大陸での殺し合いの末、何食わぬ顔をしてそこに住み着き、その土地に適した容姿を備えていった。その中でも北方に住みついたのが、白色人種だ。


 縫合を終えた老医師は、再び持針器をメスに持ち替え、淡々とした口調で続けた。


 白色人種の台頭は、十五世紀に始まった。ヨーロッパ大陸での戦いで勝ち上がっていった彼らが、船という移動手段を手に入れたのだ。君も知っているだろう? 海を渡った白色人種はアメリカ大陸を発見﹅﹅、南アメリカ大陸で栄えていたインカ帝国、アステカ帝国の人々を殺戮、植民地として支配した。カリブ海の島々や北アメリカ大陸が彼らの手に落ちたのもこのときだ。先陣を切ったのはスペインやポルトガルだったが、次いでイギリスやフランス、ドイツ、オランダ各国が、我先にと世界の陸地の奪い合いを始めた。無論、それらの新大陸﹅﹅﹅では先住民たちが暮らしていたが、白色人種にとって彼らは動物と同じ存在だった。皆殺しにするなり、奴隷にするなり、自由にすれば良いものだった。何度でも言おう、世界を制すものは、だ。どれだけ相手を殺す能力に長けているかの一点のみだ。を持った強者を前に、弱者は黙って滅びる他ない。そうして消えた民族がどれだけあるだろう。何百? それとも千以上か? 最盛期には、ほんの数国を除く世界中が白色人種の植民地だったのだ。それだけの民族が滅びたとしてもおかしくはない。そして、そのほとんどの民族が、弱者ゆえに歴史に名すら残すことができなかった。逆を言えば、アメリカ大陸のイン﹅﹅ディ﹅﹅アン﹅﹅などは、白色人種に対抗できるほどにはかっ﹅﹅のだ。だからこそ歴史に名を残し、いまも少数が生き延びている。そういう意味で言えば、現代まで生き残っている国や民族は皆、最強﹅﹅でこそないものの、少なくとも強者﹅﹅ではあると言えるだろう。本当の弱者は、その存在すら知られることなく殺されてしまったのだから。


 老医師のメスが少女の瞼に触れる。アジア人特有の細い少女の目を白人のように大きくするには、その瞼の皮膚を切り取り、内側の脂肪を除き、縫い合わせ、二重にしなければならない。加えて、目頭に切り込みを入れ、涙丘と呼ばれる桃色の粘膜を露出させる必要があった。


 人はなぜ争いを続けるのか。そんな問いはよく耳にするものだが、僕からしたら馬鹿な質問だとしか思えないね。なぜって、弱い者を殺してきた強者しか、いまの世の中には残っていないのだ。つまり何万年と続いた生き残り合戦の中で、争いはもはや本能となり、人間は争わずにはいられなくなってしまったのだよ。皮肉な話だろう? 滅びた民族の中には、現代の﹅﹅﹅人間に﹅﹅﹅とって﹅﹅﹅理想的な社会システムを完成させた者たちもいただろう。本能的に争いを好まず、共存を是とする民族もあったかもしれない。しかし、そういった民族はことごとく滅ぼされてしまった。の前で、彼らは弱者だ。どれほど平和を唱えようとも、殺されてしまえば終わりなのだ。戦わなければ、後世に何を残すこともできないのだ。


 老医師は、少女の瞼の脂肪を切り取った。鑷子ピンセットで摘まれ、膿盆に置かれたそれは、鶏皮の下についているものとよく似ていた。白い皮膚の下にも、黒い皮膚の下にも赤い肉が覗くように、それだけではなく動物の毛皮の下からも同じものが覗くのだろうか。一枚剥けば人間は同じと老医師は言ったが、それは動物にも当てはまることなのかもしれなかった。


 そう思えば、江戸の人々に白色人種が赤鬼﹅﹅に見えたのも当然だっただろう。実際、彼らはだった。もし、江戸幕府が武力を後ろ盾にしない政権だったのなら、僕たちもイン﹅﹅ディ﹅﹅アン﹅﹅のように殺戮されていたのだろうから。


 そう言う間に、老医師は瞼を縫い終えると、部屋の隅に置かれたワゴンを手術台の横につけた。ワゴンの上には、何かの部品のような金具や、人体への使用など想像もつかないような黒いプラスチック類が並んでいる。老医師はその中からねじれのついた金串のようなものを手に取ると、手術着で隠れた少女の足へと向けた。

 白色人種の長い下肢。それもまた、少女の望むものであったからだ。




 三、下顎骨形成術


 その日、地下室には音楽が流れていた。少女のラジオからのものではない、雨だれのようなピアノの独奏。焦燥感を煽るようなその音色に誘われるように、三ヶ月ぶりに手術室の扉を開けた少女は車椅子姿だった。その下肢に嵌められているのは、骨延長の器具である。すねを囲む円状の創外固定器が、皮膚を貫く何本ものワイヤによって固定されている。その内側で骨は切断されており、その骨部は一日一ミリという速度で伸びていくのだ。そうして脚を長くするという骨延長術を施されている少女は、この三ヶ月の間、歩くことはおろか足を動かすこともままならない日々を送っていた。少女は風呂へ入るにも、ベッドへ上がるにも看護師の力を必要とし、彼女にできることといえば、ラジオを聴くことと、そうでなければ考え事をすることだった。

 手術中、途切れずに続く老医師のしゃ﹅﹅べり﹅﹅に、少女は耳を傾けていなかった。話の間、常に少女のどこか﹅﹅﹅は切り開かれ、切り取られ、または剥がされ、そして縫われている。その部分に麻酔が効いているとはいえ、施術ばかりに気が行き、話に集中などできるはずもない。

 しかし、だというのに、老医師の声は手術台から下りた後になって少女の脳裏に響くのだった。まるで少女の脳味噌の中に老医師の話を書き留める何者かがいて、そうして書き留めたものを後から読み上げているとでもいうように。

 白人は強いのだと、老医師は言った。そして強者は善悪さえも決めるのだと、そう言った。その言葉を、少女は己でも驚くほどの既知感をもって繰り返した。とは、眼に映るものを理解へと導く道具である。そのに基づいた老医師の見識は、まさにその道具となり、少女の見た過去の風景を意味づけをした。

 しかし、その意味を少女がそのまま飲み込んだかといえば、それはまた別の話であった。人間は誰しもそうであるように、少女には少女自身、その短い歴史の中で培ってきたものがあった。それは見識とまでは呼べずとも、辛うじて意見﹅﹅と呼べるくらいのものであり、また、彼女自身が常識﹅﹅だと思い込んでいるものでもある。そして、それもまた誰もがそうであるように、その常識﹅﹅には確たる知識の裏づけもなく、それでいて鉄のように強固だった。

 人間は変化を嫌うものである。それが常識﹅﹅とまで信じ込んでいるものならば、尚更である。受け入れ、自らを変化させることを厭わぬ者は知恵者であり、年若い少女はその域に達していない。だからこそ、老医師の言葉は彼女を変えることがなかった。しかし、老医師の言葉の中には、少女の関心を引くものもあった。例の開け﹅﹅ては﹅﹅いけ﹅﹅ない﹅﹅扉である。

 開かずの扉とは言っても、それは鍵がかけられているわけでも、はたまた扉が壊れているわけでもないということを、少女はこの長い期間のうちに知っていた。好奇心が抑えられなくなった少女は、一度、その扉の把手に触れたのだ。

 それはある日の午後のことだった。昼食を下げにきた看護師が去ってしばらく後、扉の向こうでカタン、と小さな音がした。三度の食事の時間以外に看護師がやってくることなど、いままでに一度もない。かといって看護師以外の人間がこの部屋を訪れることなど、余程有り得ないことだった。少女はしばらく扉を見つめた。しかし、それが開くことはなかった。少女は少し考えてから、車椅子で部屋の外へ出た。廊下は、しんと静まり返っていた。薄ぼんやりとした照明が剥き出しのコンクリートを照らし出し、改めてここが昼も夜もない、地下室であることを思い出させた。風も吹き込まなければ、その風で音を立てるような装飾物もないその場所は、先ほどの音を空耳だと思わせるに十分な寒々しさを備えている。

 と、少女の手のひらに汗が滲んだ。彼女の目に、この地下室が突然いては﹅﹅﹅いけ﹅﹅ない﹅﹅場所であるかのように映ったのだ。同時に、隣室の存在が大きく迫った。開けてはいけない扉。一度も物音が聞こえず、看護師も訪ねていかないことから、その部屋には誰もいないことは明らかだった。しかし、それならなぜ開けてはいけないのか。それは、そこには見てはいけないものがあるからではないだろうかと、少女は想像を膨らませた。古い物語にあるような、家主の恐ろしい秘密がその部屋には隠されているのではないだろうか。家主、つまりは老医師の秘密が。

 瞬間、少女の脳裏に浮かんだのは、あの小さな頭蓋骨だった。結果的には黄色人種のものであった、あの小さな頭蓋骨。そしてもう一方、老医師が白色人種のものだと言った、あの大きな頭蓋骨。

 頭蓋骨の模型を購入しようと思ったとき、人は縮尺の違うものを手に入れようと思うだろうか。それ以前に、そもそも模型は黄色人種と白色人種という区別がなされた上で売られているのか。

 そんな疑問が脳裏を行き交うのは、あの頭蓋骨が本物である可能性を少女が無意識に疑っているせいであった。この地下室において強者﹅﹅である老医師は、少女を殺すことも、はたまた生かすことも思いのままだと、そう言った。もし、それが冗談ではなかったのなら。例えば、あの手術室で殺された﹅﹅﹅﹅誰かがいたとしたら。

 心臓が胸を破りそうなほど大きく鼓動し、気がつくと少女は開けてはいけない扉の前にいた。ぶるぶると震える手が把手に触れ、それを回そうとした。それは扉を開けようとしたというよりは、開かないことを確かめようという意図からの行為だった。それに秘密の部屋には鍵がかかっているものだ。扉が開くはずがないという先入観もあった。

 しかし、実際は違った。把手は軽やかに回り――扉はほんの数ミリ、動いた。少女が我に返ったのは、そのときだった。声にならない悲鳴を上げ、少女は必死で車椅子の車輪を回した。部屋に戻り、荒い呼吸を鎮めようと必死で口を押さえた。指先に、高くなった鼻が触れた。

 開けてはいけない扉を、少女は開けるわけにはいかなかった。禁を破れば、老医師の怒りに触れ、彼女はその中途半端な姿のまま放り出されてしまうかもしれない。もしくは、あの小さな頭蓋骨の主のように、この地下室の備品にされてしまったら?

 その行いが老医師に知られぬようにと、少女は目を閉じ、祈りを捧げた。その瞬間、一体この地下室で彼女は何の神に祈ればいいのか、そもそもこのコンクリートだらけの都会に神はいるのか、そんな疑問が頭をよぎりはしたが、少女にはそれを深く考える余裕も知識もなかった。ただ、捨てた故郷のさん﹅﹅に祈れぬことだけは、少女もきちんと理解していた。

 果たして、その少女の祈りを聞き届けた神の名は何であっただろうか。ともあれ、手術室に現れた老医師は、さして変わった様子もなく、いつものように手術の準備を始めた。


 さて、白色人種がどのようにして、世界一の強者となったのか、君はその殺戮の歴史を知ったのだったね。


 三ヶ月も前の話など、誰しも忘れていそうなものだが、老医師はそのしゃ﹅﹅べり﹅﹅の流れを隔てる時間などなかったかのように話し始めた。


 血に塗れた暴力。彼らはそれを使い、世界中の人間を殺し、その領土を我が物にした。そして、その力はついに東の果て、この日本にまで達することとなる。黒船来航だ。大航海時代、彼らは世界中を旅しながら、先住民族だけでなく、様々な生き物を絶滅に追いやってきた。黒船が日本に現れたのも、彼らの海である﹅﹅動物﹅﹅を殺戮し尽くしてしまったからだった。それは産業革命により、灯油や機械油として大量に必要とされた鯨油を絞るためのクジラだったのだが――。


 老医師の言葉が終わらぬうちに、手術台の少女が驚いたように跳ね起きた。体を震わせ、大きくなった二重の両眼で老医師を見つめる。そのとき、老医師は少女の口に開口器をつけようとしていたが、素早くそれを引っ込めたため、その手がぶつかることはなかった。肋軟骨を入れた少女の鼻は衝撃に弱い。跳ね起きた少女も、すぐにその危険性に気づいたのだろう。ごくりと息を飲み、そろそろと手術台へ体を横たえた。それを確認してから、老医師は改めて開口器の装着を試みた。その目が反応を伺うように、じっと少女に向けられる。


 ……クジラといえば、日本人だけが捕っているという誤解があるが、世界最大の動物であるシロナガスクジラを絶滅に追い込んだのは、白色人種だった。鯨油を絞るには、大きな個体を取る方が効率がいい。しかし、大きな動物ほど成長に時間がかかるため、個体の減少を招きやすい。白色人種の乱獲で、シロナガスクジラは北大西洋――アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の間の広大な海から姿を消した。そのとき、殺す﹅﹅技術﹅﹅の発達していない日本では、シロナガスクジラなどという大きなクジラを捕ることはできなかった。こんなところでも強者と弱者の差というのは、はっきり出ることになったのだ。


 老医師が使った開口器という器具は、少女の口を強制的に開き、閉じないようにするためのものであった。そうして開いた少女の口腔から切り込みを入れ、その切り込みから顎の整形を行うのだ。具体的には、顎の両側の骨を切り落としてえら﹅﹅をなくし、顎先を出すためにシリコンを入れる。顎先が大きく、また前方へ突き出ていることも、忘れてはならない白色人種の特徴だった。


 日本人もまた、この小さな島を制した強者ではあった。


 顎の神経に麻酔を終えると、老医師は電動カッターを手に取った。のこぎりのような刃のついたそれは、えら﹅﹅の骨を切るための道具である。その恐ろしい器具を、少女は恐怖の眼差しで見つめた。老医師はそんな少女を笑うようにスイッチを入れ、モーター音を響かせた。


 君も知っているだろう? この日本にも、古くは蝦夷えみし熊襲くまそ隼人はやとという人々がいたという記録が残っている。しかし、彼らはもういない。僕たちが滅ぼしたからだ。北海道のアイヌもまた、僕たちに追いやられてしまった一族だ。歴史を遡れば、聖徳太子は日本を中国の属国という立場から離脱させ、鎌倉幕府はチンギス・ハーンを追い返した。僕たちは力を持った、強者だった。しかし、その力は白色人種と比べるべくもなかった。世界中で殺戮を繰り返してきた彼らと、島国の僕たちの差は大きかった。大きすぎた。だから彼らが黒船でやってきたとき、僕たちは屈することしかできなかった。井の中の蛙。そんな言葉がぴったりなほど、あのとき僕たちは弱者﹅﹅ある﹅﹅いう﹅﹅のは﹅﹅どう﹅﹅いう﹅﹅こと﹅﹅なの﹅﹅ということを、嫌というほど思い知らされたのだ。


 少女の奥の歯茎、その根本をメスで切り開いた老医師は、その裂け目に電動カッターを入れた。血飛沫が老医師の顔を汚した。痛みはない、ただ振動が少女の頭蓋骨を揺らした。少女はその骨から作り変えられている、それはそんな確信をもたらす音だった。


 弱者であるとはどういうことか――。


 老医師は、赤い飛沫を拭いもせずに言った。


 弱者であること、それは強者の言いなりにならねばならないということだ。例えそれが理不尽な要求であったとしても、飲み込まねばならないということだ。己の築き上げたものを踏み潰されたとしても、馬鹿にされたとしても、はたまた取り上げられたとしても、黙って耐えなければならないということだ。それは教室で行われるいじめ﹅﹅﹅に似ている。ただ、それが個人間のいじめと違うのは、国は自殺という幕引きを選べないということだ。彼らの殺戮を許し、イン﹅﹅ディ﹅﹅アン﹅﹅になることなど、僕たちにはできない。それに僕たちはイン﹅﹅ディ﹅﹅アン﹅﹅よりは強かった。ならば、どうするか。問われるまでもなく、道は一つだ。僕たちが僕たちのやり方を捨て、白色人種のやり方で国を作り、白色人種と肩を並べるほどに強く﹅﹅なる﹅﹅こと。そう決意した僕たちが作ったのが、いまの日本、近代﹅﹅国家﹅﹅と呼ばれるものだ。彼らのやり方で作った政府に、彼らのやり方で作った軍隊、そのために作った学校という仕組み、そうやって僕たちは日本という国を誕生させ――強くなるための戦争を始めた。


 電動カッターの音が止み、カラン、膿盆に白い欠片が落とされた。少女の右顎の骨片だ。その白い骨を、老医師は束の間、見つめた。それから潤んだ少女の瞳に視線を移した。


 君は大勢の日本人のように、戦争はだと言うかね? たくさんの人の命を奪う戦争はそのものだ、と。もし、未だに君がそんな考えを抱いているのなら、僕は話のつたなさを反省しなければなるまい。けれど――。


 老医師は、再び電動カッターを始動させた。いま一度激しい振動が骨を震わせ、恐れをなした少女の涙は、とうとう目尻からこぼれ落ちた。


 言っただろう、善悪﹅﹅などというものは、強者﹅﹅決め﹅﹅価値﹅﹅だと。そして、その強者とは歴史上、一番﹅﹅殺し﹅﹅人間﹅﹅なの﹅﹅、とも。僕の言いたいことが分かるかい? つまり、いま僕たちが戦争﹅﹅は悪﹅﹅だという価値観を持っているのは、僕たちが弱者﹅﹅だからなんだよ。あの第二次世界大戦で、僕たちは大勢の人間を殺した。しかし、彼ら﹅﹅より﹅﹅多く﹅﹅人間﹅﹅殺す﹅﹅こと﹅﹅でき﹅﹅なか﹅﹅。だから、僕たちは負け、と断じられることとなった。一方の白色人種はどうだったか。彼らは強者のまま、自らをと断じ、その立場をより強固なものにした。そして、その優位をいまも変わらず保ち続けているのだ。


 カラン、もう一つの骨片が、銀の膿盆に落とされた。電動カッターの刃は鮮血に濡れていた。老医師はそれを置くと、少女の下唇の根本に切れ込みを入れ、そこからシリコンをねじ込んだ。


 この世に絶対的な善悪などない。美醜も、正義も不義もない。あるのは、殺す者と殺される者――強者と弱者という二種類の人間だけだ。だから、日本は戦争をした﹅﹅から﹅﹅悪い﹅﹅というのは間違っている。それは聞く必要のない、強者の理屈だ。そうではなく、僕たちは戦争に負け﹅﹅から﹅﹅悪い﹅﹅のだ。歴史上、悪と呼ばれる人間も同じだろう。ヒトラーもポル・ポトもスターリンも、結局彼らは負けたから、の烙印を押されたのだ。彼らが何を支持し、何を排除したかなど、そんなことは問題ではない。もし、ヒトラーに強大な力があり、その力が世界を征服したとするのなら、その世界でヒトラーはだろう。共産主義が世界を席巻するほどの力を持ったならば、守銭奴が跋扈ばっこする資本主義など忌み嫌われただろう。価値﹅﹅というものは、その程度にあや﹅﹅ふや﹅﹅なものだ。時代で変わり、システムで変わり、国と国との利害関係で変わってしまう、あってないようなものなのだ。そんなあや﹅﹅ふや﹅﹅なものに頼り切り、戦争はだなどと言い続けている人間は、それこそあの時代のヒトラーに賛同した人々と同じ性質の人間だろう。時代の空気を自らの意志と思い込み、熱を上げ、理論ではなく感情を優先させる、愚かな大衆﹅﹅以外の何物でもない。


 顎の外側からシリコンの位置を確かめた老医師の指先が、そのまま上の方へと動き――つと、少女の頬を撫でた﹅﹅﹅。それはワゴンへと伸ばそうとした手が、偶然、触れただけかもしれない。しかし、その軌跡は優しく、祖父が孫へ向けるような――否、父親が幼子へ向けるような温もりに満ちていた。

 少女は驚き、老医師の目を見た。ごぼり、喉の奥が音を立て、その皺に埋もれた小さな目に温もりの手がかりを見つけようと懸命になった。しかし、頬に触れた指先は、ほんの一瞬で彼女を離れ、温もりは瞬く間に冷めた。


 なぜ、赤鬼﹅﹅だったものが、この世で一番美しい人間へと変化したか。その答えは、僕たちが戦いに負けたからだよ。


 老医師は、少女の目を見ずに呟いた。そこに、先ほどの温もりは影も形も無くなっていた。代わりにあるのは、一気に十も老け込んだような力無い横顔だった。


 この島国の覇者として、初めて戦いに負けた僕たちは、いままで築き上げてきた誇りを尊厳を、その全てを失くしてしまった。それは強者によって意図的に奪い取られたと言っても過言ではないが、とにかく僕たちは二度と立ち上がることもできないほど、完膚無きまでに叩きのめされてしまった。立ち上がろうにも、強者は僕たちからそのを奪った。この国は白色人種の勢力下に置かれたのだ。社会システム、経済、文化、それらすべてにおいて、そこには僕たちなりのやり方があり、価値観があったけれど、それらは次々に白色人種のものへと塗り替えられていった。日本は白紙となり、そこへ改めて、強者である彼らが彼らの﹅﹅﹅価値﹅﹅を描いた。彼らの価値観を強制された僕たちは、そうしてますます弱くなった。なぜなら、この世界でとなった白色人種の価値観を僕たちは知らなかった。それは僕たちがたっとんできた価値とはまるで違うものだった。だというのに、僕たちはその新しい価値を一から学び、慣れていかなくてはならなくなった。なぜ、僕たちは欧米よりも十年遅れ﹅﹅いる﹅﹅と言われるのか、考えてもみたまえ。それは彼らの価値観を追い﹅﹅かけ﹅﹅ねば﹅﹅なら﹅﹅ない﹅﹅からだ。僕たち弱者は常に従う側﹅﹅﹅であることを要求されるからだ。先を行くことを許されないからだ。


 老医師は少女の口腔の傷を縫い終えた。パチリ、透明な糸を切る。


 例えば、僕たちが世界一の強者となった世界を、君は想像できるだろうか。年功序列や敬語といった常識﹅﹅を持たない白色人種が野蛮人だと誹られたり、ギョロギョロとした青い目を気味悪がられ、大きな体を小さくして生活する世界を。彼らはその頭髪や肌の色を恥じて染料で染めることになるだろうし、大きい体や手足を小さくする方法を求めるだろうし、美容﹅﹅整形﹅﹅を生業とする僕は、彼らの顎を切り落とし、瞼を縫い合わせ、高い鼻を低くすることで忙しくなるだろう。いま、僕たちがやっているのはまさにそれだ。彼らの価値観に合わせるとは、つまりそういうことなのだ。君は白色人種が疎まれる、そんな世界など有り得ないと言うかい? それとも、強者に刷り込まれた常識﹅﹅に凝り固まり、うまく想像することすらできないだろうか? そうだとしたら、それはとても不幸なことだ。君は弱者であるあまり、君という存在を否定しなければ生きられない人間になってしまったのだ。幸せというものは、自己否定の上には決して成り立ちはしない。それを君は理解しなければならないというのに。


 まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、少女の麻酔が切れるのも待たず、老医師は手術室から足早に去った。あとには、ライトの消された手術台の上で、じっと横たわる少女が残った。少女の体は、手術着から出た部分が仄白く光って見えた。それは看護師が食事と共に持ってくる薬が、彼女の色素細胞を壊し続けているおかげだった。その恩恵に預かり、ようやく生え揃った少女の頭髪も日に日にその色を薄くしていた。

 おたまじゃくしが蛙になるように、少女は白人へ変化する、その途上にあった。あとは、その黒い瞳、それから下肢の骨延長器具が外れれば、少女は立派な白人となるだろう。

 看護師の足音が廊下に聞こえ、静かに手術室の扉が開いた。彼女は無言のまま手術台の少女に近づくと、慣れた手つきで麻酔薬を用意し、骨延長の器具を外した。そして再び少女を車椅子に乗せると、明日からリハビリを始めましょう――初めて聞く声で囁いた。その声音に、弛緩していた少女の背筋は凍りついた。故郷から彼女を追いかけてきた過去が、いま、その足首に絡みついたかのように思えたのだ。




 四、虹彩メラニン除去手術


 およそ一年前。父親の金庫にあった、一センチ厚の紙束を震える手でカバンに仕舞い、一日数本しか来ない電車に乗って、少女は都会を目指した。目的地は、東京ではなかった。けれど、結局そこに辿り着いてしまったのはなぜだろう。それは、あの﹅﹅女性﹅﹅の言葉が少女には聞き慣れない標準語だったからだろうか。だから東京へ行けば、少女も彼女のようになれる――つまり彼らの﹅﹅﹅仲間に﹅﹅﹅なれる﹅﹅﹅と、無意識にそう思ったからだろうか。

 しかし理由がどうであれ、夜の東京へ着いてしまった少女に後戻りはできなかった。ネオンに照らされた美容整形の広告は、百万というカバンの大金が、実は端金はしたがねであったことを少女に教えた。足りない金を補おうと訪ねた夜の店は、少女の年齢よりも容姿を指摘し、歯に衣着せぬ物言いで断った。雑踏で少女は途方に暮れた。夜の街のどこかに願いを叶えてくれる医師がいる――そんな噂を耳にしたのはそれからしばらく後のことだった。少女はその真偽も分からぬ噂を希望と定め、何かに導かれるようにしてこの地下室の扉を開けた――。


 消し忘れたラジオの音で、少女は目を覚ました。初めてこの地下室に足を踏み入れてから、どれほどの月日が経ったのかは分からない。けれど、あの日老医師によって丸刈りにされた髪が、いまは耳にかけるほどに伸びたことが、その時間の長さの証明だろう。少し寝癖のついた、その髪の色を少女は見つめた。輝かんばかりの金色と、その金色を摘む白い指。滑らかな手の甲や肩や胸や足、見える限りの肌は雪よりも白く、手で触れる鼻は高く、目は大きく、足は驚くほどに長い。一度骨を切断し、リハビリが必要だったその足も、いまは強さを取り戻して車椅子を必要とすることはなかった。

 幸福をその胸に満たし、少女は冷たい床にそっとつま先を下ろした。今日、最後の手術が行われるということを、少女は前夜、知らされていた。忌むべきこの瞳の黒は、まもなく海のような青に変わる。そのとき少女はこの暗い地下室を出て、眩しい日差しのもとへと旅立つのだ。

 有り金を全て老医師に差し出した少女は無一文で、帰る家もなければ、働き口のあてもなかった。しかし、少女の胸に憂いはなかった。少女は美しさ﹅﹅﹅を手に入れたのだ。美しい白人の姿、それさえあれば未来は明るく、すべては上手くいくに違いない。そこを訪ねる気など毛頭ないが、以前、少女を拒んだ夜の店は、いまならあらゆる手を使ってでも彼女を雇いたがるに違いない。

 そのとき扉が小さくノックされ、いつものように看護師が朝食を運んできた。その醜い﹅﹅姿から、少女は露骨に目を逸らした。老医師がいつか言った通り、少女の変化は一枚﹅﹅に過ぎなかった。しかしその表面の変化は、少女の心の底にあった黄色人種への嫌悪を炙り出すのに十分な働きをした。この醜い黄色人種は、なぜ醜いままでいられるのだろうと、少女は看護師を見る度、そう思った。それだけではなく、同じことを老医師に対しても思うようになった。彼の技術をもってすれば、顔中の皺を取り、引き伸ばし、見た目を良くすることも可能だろう。だというのに、なぜ老医師はそのまま老いることを良しとするのか。

 その理由を、向上心﹅﹅﹅がないからであろうと少女は決めつけた。彼らにはより﹅﹅良い﹅﹅もの﹅﹅になろうという意志がない——そんなことを考えたのは、外の世界へ出られるという喜びに少女が浮かれていたせいか、それとも、白色人種の強さ﹅﹅が少女に宿ったせいか。

 朝食を終え、部屋を出た少女は、ふと例の開け﹅﹅ては﹅﹅いけ﹅﹅ない﹅﹅扉を振り向いた。鍵もかかっていない、不用心なその扉。開けることを禁ずるのなら少なくとも鍵はかけるべきだ――少女は思った。以前、そこから恐れをなして逃げ帰ったのは、少女には十分な強さ﹅﹅がなかったからであった。しかし、ほとんど白色人種となった、いまの彼女は違った。

 少女はその扉に近づくと、まるでそれが当然の権利であるかのように把手を回した。扉を押し開いた。暗い室内の電気を点ける。そしてそこにあるものを見渡すと、小さく眉をひそめた。

 そこには死体も、頭蓋骨も、血生臭いものは何もなかった。それだけではない。机や本棚といった家具もなく、がらんとした空間だけが広がっている。しかし、少女が眉をしかめた理由はそこにはなかった。それは目の前の壁、一面に貼られた写真だった。そして更に言うならば、その写真に写っていたのがどれも有色人種であり、その一番端――最も新しく貼りつけられたと思しき一枚が少女の﹅﹅﹅もの﹅﹅ある﹅﹅ということだった。

 禁を犯していることも忘れ、少女はふらりと足を進めた。それは忘れもしない、少女が小学校に上がったときの写真だった。隣ではにかむように笑っているのは、少女がにい﹅﹅やん﹅﹅と慕っていた三つ上の男の子。背景に海があるのは、わざわざ港へ出たわけでもなく、あの小さな町ではどこの風景を切り取っても海が写ったというだけのことだ。

 老医師は、この写真をどこから手に入れたのだろう。二歩、三歩と進みながら、少女の手のひらは汗ばんだ。その写真の中で、少女は楽しげに笑っていた。目は細く、鼻はぺしゃんこで、日に焼けた肌は黒すぎるというのに、それでも彼女は笑っていた。なぜなら、かつて少女は知らなかったのだ——自らが弱者に生まれついてしまったことを。そして、その笑みを奪う強者が世界には存在しているということを。


 あなたは可愛いイルカを食べる、ゴキブリよ。


 そのとき、あの﹅﹅女性﹅﹅の言葉が少女の耳に蘇った。

 それはある日のことだった。友達と別れ、一人で帰り道を急ぐ少女に、向かいから白人の集団が歩いてきた。それ自体は、あの町では珍しいことではなかった。しかし、だからといって我が物顔で道をそぞろ歩く彼らが怖くないわけではない。少女は道路を渡り、彼らを避けようとした。普段ならばそれで済むはずのことだった。

 しかし、その日は違った。白人の一人が少女を指して、何事か言ったのだ。少女は思わず足を止めた。そのときだった。彼らの集団に紛れていたあの﹅﹅女性﹅﹅が、白人の言葉を訳すようにそう言ったのだ。そして、続けてこう言った。


 イルカの代わりに、あなたが殺されちゃえばいいのにね。


 その途端、女性﹅﹅の後ろにいた大きな白人が大きな声を上げて笑った。追随するように、他の白人たちもくすくすと笑みを漏らした。いま思えば、日本語が分からないはずの彼らがどうして女性﹅﹅の言葉に笑ったのか、それ以前にあの﹅﹅女性﹅﹅は彼らの英語をそのまま訳したのか、少女には知る術もない。しかし悪意の刃というものがあるのなら、それは少女の胸を貫いた。

 少女はその場を逃げ出した。その後ろ姿を、笑い声が追いかけた。彼らはイルカを捕る漁師に抗議するため、この町に押しかけた異邦人だった。イルカを食べない国も、この世界には存在する。少女は学校の教師たちにそう教えられていた。その教えに、少女は疑問を抱かなかった。なぜなら彼らは同じ人間であるというのに、少女とは似ても似つかぬ様子をしている。それなら異なる感覚を持っていても不思議ではないと、そう思っていたのだ。だから彼らが何を言っていようと、見て見ぬ振りをすることができた。

 しかし、あの﹅﹅女性﹅﹅は違った——写真を見つめ、少女は思い返した。彼女は外国人ではなく、少女と同じ日本人﹅﹅﹅だった﹅﹅﹅。当時のことを思い出すと、少女の足は小さく震え、唇は固く結ばれた。

 あの日あの瞬間から、少女はイルカを食べなくなった。イルカを殺すことに残酷さを感じるようになり、イルカ漁を続ける漁師を蔑むようにもなった。そうすれば、もう二度とゴキブリと呼ばれることもあるまい。イルカの代わりに死ねなどと言われることもあるまい――幼かった少女が、そんな思いを抱いたのかは定かではない。思考というものは、心の深い場所に張ったではなく、その根から伸びた枝葉﹅﹅である。女性﹅﹅が毒を与えたのは、その枝葉ではなく、根であった。その根がどういう変化をしたのか、少女自身も知ることはなかった。ただ、いま白色人種へ変貌を遂げた少女が震えを撥ね退けるように脳裏に思い浮かべたのは、その女性﹅﹅の容姿であった。日に焼けた黄色人種の、浅黒く醜い肌。一重の瞼。小さな団子鼻。そして寸胴から伸びた短く太い足。

 いま﹅﹅なら﹅﹅言い﹅﹅返して﹅﹅﹅やれる﹅﹅﹅。喉元まで言葉が込み上げ——少女は自分で驚いた。少女が白色人種になりたいと願った理由、その中にはあの﹅﹅女性に﹅﹅﹅言い﹅﹅返し﹅﹅たい﹅﹅という思いが混じっていたのだろうか。大勢の白人を従え、その代表であるかのように少女を嘲笑した日本人﹅﹅﹅をやり込めるため、彼女が本能的に必要としたのが、強者﹅﹅容姿﹅﹅であったということなのだろうか。


 だから僕は言ったのだ――強さと弱さの話をしよう、と。


 声が響き、少女が振り向くと、そこには老医師の姿があった。いつからそこに立っていたのか、しかし彼は扉を開けた少女を咎めなかった。口を開きかけた少女を遮り、画竜点睛といこうではないか――瞳だけ黒い少女に告げる。ゆっくりと踵を返す。どうやら叱られはしないらしい。ほっとした少女は、老医師の後をついて部屋を出ようとした。と、そのとき少女の写真の反対側に、彼女はもう一枚、彼女を写したものを見つけた。数ある写真の中でも最初に貼られたと思しきその写真は、しかし白黒でとても古く、その後ろで微笑む女性も白人のようならば、なおさら少女には覚えのないものだった。よく似ているが、他人の空似というものだろうか。

 手術室へ入ると、老医師は少女に着替えさせることもなく、手術台へ上がるようにと言った。そうして横たわった少女の瞼を開瞼器で固定し、瞳のメラニン色素をレーザー照射で取り除く間、老医師はしゃ﹅﹅べり﹅﹅をしなかった。それはそうする暇もないくらい、簡単な施術だった。少女の黒い虹彩は、みるみるうちに青色へと変わった。初めこそ少女は眩しさを感じたが、その感覚もすぐに収まった。

 最後の手術を終えると、老医師は部屋の隅にかかっていたカーテンを引いた。そこから現れたのは、大きな鏡だった。少女は引き寄せられるように、その鏡へと近づき――息を飲んだ。鏡に映るのは、日本人の面影など少しもない、完璧な白人の少女だった。


 おめでとう。君は、強者の容姿を手に入れた。


 虚像に見入る少女の背後に立ち、老医師はにこりともせずに言った。礼を口にし、喜びをあらわにしようとする少女を遮るように、札束を差し出す。それは少女が手術料として、老医師に払った百万円だった。


 言っただろう。僕はお金という対価を必要としていない。


 その一センチ厚の紙束を、少女の手に押しつける。どこからか不意に風が舞い込み、少女が顔を上げると手術室の扉――地上へと続く扉が彼女をいざなうように開いていた。

 一瞬、躊躇った後、少女は一歩を踏み出した。この先にある、強者の世界。そこは強者の皮を手に入れた少女にとって、楽しく、生きやすい場所であるに違いない。


 君がここから去る前に——。


 行きかけた少女を、老医師の言葉が呼び止めた。階段の半ばで少女は振り返った。その口調は気が逸る少女をよそに、とてもゆっくりしたものだった。


 最終試験、というわけではないが、僕からの最後の質問だ。白色人種が、名実ともに世界一の強者となった歴史は、君も理解したと思うが……では、なぜその白色人種たちが人種間の優劣を研究し、彼らの優位を示すためにたくさんの論文を書き続けなければならなかったのか、君には分かるかね?


 地下室の明かりを背に受けて、老医師の顔はよく見えない。ただ、その口元だけがまるで別の生き物のように動いていることに、少女は薄気味悪さを感じた。


 そのとき世界はほぼ白人の植民地であり、彼らが最強﹅﹅であることは明白だった。彼らの優位に、誰も意を唱える者などいなかった。だというのに、なぜ彼らはそれを証明﹅﹅する﹅﹅必要﹅﹅があったのか。頭蓋骨の形まで論じ、声を大にして白色人種は優秀なのだと叫ばなければならなかったのか。


 階段の上からは、太陽の光が差していた。耳を澄ませば、そこからは賑やかな都会のざわめきが聞こえてくるようだった。少女の気は急いた。白人となったいま、老医師の話に付き合う義理はなく、また引き止められる理由もなかった。しかし、どういうわけか少女はそこから動くことができなかった。


 よく考えてもみたまえ。例えば百獣の王であるライオンが、ことさらその威を示そうとするだろうか。いいや、するはずがない。なぜなら、生まれ﹅﹅﹅なが﹅﹅らの﹅﹅王者﹅﹅を疑う者など、どこにもいないからだ。我々は本能でその強さを知り、足元にひれ伏す——そうだろう? それに比べて、白人たちはどうだ。彼らは研究に研究を重ね、論文を書き、発表し、その威を示すことに躍起になった。声高にその優位を強調した。それはなぜだ? なぜ、彼らはそうまでして叫ばなければならなかったのか。それはつまり、白色人種がライ﹅﹅オン﹅﹅では﹅﹅ない﹅﹅からだ——そうは考えられないかね?


 老医師の口の端は、引き攣るように吊り上がった。


 僕たち人類は遠い昔、アフリカ大陸で生まれ、そこから世界中へと散らばっていったと、以前僕はそう言ったね。そうして散らばった現生人類が、他の大陸に住んでいた他の人類を滅ぼしていったのだ、と。しかし、君は疑問に思わないかね? なぜ僕たちはアフリカから――誕生の地から旅立ったのか……否、旅立たねばならなかったのだろうか? 答えはそう、お馴染みのやつだ――それは戦いに敗れたからだ。戦いに負け、アフリカから追い﹅﹅出さ﹅﹅れた﹅﹅弱者が他の大陸へ渡ったのだ。そこで、だ。ここに一つの学説がある。


 笑みのようなものを漏らし、続ける。


 その説によれば――現代の白色人種の祖先は、アフリカで生まれたアル﹅﹅ビノ﹅﹅だった。遺伝子に異常のある、白色の個体だ。自然の中では弱い個体だ。だからこそ、だ。彼らはその弱さゆえ真っ先にアフリカ大陸を追い出され、さらには他の人類との戦いにも敗れ、その結果、北の辺境へ追いやられたという。食べ物もないような、寒い寒い北の地に。


 つまり――老医師の声は低かった。


 白色人種が、自分たちは優秀だと叫ばなければならなかった理由――それは彼らが他の人種に比べて、真実、劣っ﹅﹅いた﹅﹅からではないだろうか。彼らは最弱﹅﹅の人種だった。だからこそ、威を示さねばならなかった。そうして自分たちを追い出した有色﹅﹅人種﹅﹅を憎み、蔑まなければならなかった。俺たちは強者なのだと、吠えなければならなかった。そして、それはいまでも同じだ。彼らは有色人種に戦争を仕掛け続けている。世界を征服し、そこに価値の線を引き、白色﹅﹅人種﹅﹅やり方﹅﹅﹅で全てのシステムを固めてさえ、抑えきれない不安が彼らを突き動かしているのだ。なぜなら彼らはの強者であるということを、彼ら自身の本能で知っている。同時に、真の﹅﹅強者﹅﹅が誰であるかいうことも、それも理解しているのだ。人類誕生の地を現代まで守り続けた人類の王――黒色人種。その眠れる獅子が目覚めたとき、そのときこの白い世界は果たして何色に染まるのか、それこそ彼らが恐れていることなのだ。


 全ての価値は変化する、あや﹅﹅ふや﹅﹅なものだ——いつかの台詞を呟いた老医師の口元が、笑うように歪んだ。黒い影の中から、小さな両目が少女を見上げた。


 そうなると、だ。君が手に入れたのは最強﹅﹅容姿﹅﹅なのか、それとも最弱﹅﹅容姿﹅﹅なのか。さて、君はどちらだと思うかね?


 いつのまにか、粘りつくような冷たさが地下室から少女の足元にまで這い上がっていた。その冷たさは、ここはいては﹅﹅﹅いけ﹅﹅ない﹅﹅場所﹅﹅だと、いつか少女に感じさせた何か﹅﹅であるに違いない。少女は震えに抗いながら、改めて老医師を見た。そこに何かを見出そうとした。しかし、いつまで経ってもその口が開かれることはなく、その影のような姿は、まるで初めから命のない彫像であったとでもいうように、ただそこに在り続けるだけだった。

 その無機質な沈黙に、命ある少女が耐えられるはずもなかった。彼女は一息に階段を駆け上がると、迷うことなく外の世界へと飛び出した。

 そこには輝かしくも美しい、真白い価値に塗り込められた世界が待っている。少女の大きな青い目に、東京の街は黄色味を帯びて広がった。

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