Here we stand(1)#存在意義

 平手打ちの乾いた音が、イルミネーション輝く夕刻の駅前に響いた。


 森野美祈もりのみのりは身を縮めた。反射的に瞑った目を、恐る恐る開いた。

 腕を振り切った女子高生の腹で、紙が擦れた。首から提げた募金箱から垂れ下がるビラだ。『あかりちゃんを救う会 移植手術を受けさせてください』との文字と、まだあどけない少女の写真が印刷されていた。特徴あるベージュベースのブレザーに巻き込まれ、端が折れ曲がった。この制服はたしか、近くのミッション系私立女子高のものだ。

 明るめの長い髪が、捻った体の残像を示すようにゆっくり背へ落ちる。怒りに満ちた目は、真っ直ぐに、美祈の隣に立つ瀬尾隼人を睨みつけていた。


「一年しか経っていないのに」


 ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた気がした。


「あの日、あんたが誘い出さなかったら、夏菜は事故に遭わなかったんだよ」


 剣幕に、通行人が数名振り返る。しかし、面倒を避けてか、一瞥すると足早に募金を求める列の前を通り過ぎ、駅へと吸い込まれていく。

 隼人は、無言で俯いていた。その表情は、明るいイルミネーションが逆光になって美祈から見えない。美祈は、彼のコートの袖を握り締めた。


 女子高生と同じように募金箱を首から提げた中年の女性が、心配そうに歩み寄った。品の良い女性だった。後ろで緩くまとめられた張りのある髪には、幾筋か白いものが混じっている。穏やかに下がった目尻に浅く皺が刻まれていた。

 沙月ちゃん、と呼びかけられ、女子高生は女性を振り返ると隼人を指差した。


「おばちゃん、こいつだよ。事故のとき、夏菜が一緒にいたの」


 女性は、形の良い目をわずかに見開いた。何か言いかけて開いた口の形そのままに、隼人を見つめる。驚きと悲しみがない交ぜになった眼差しだった。

 美祈は思わず胸を押さえた。ダッフルコートの下、制服が包む薄い胸の中、鎖骨の間から縦に引かれた手術痕を突き破らん勢いで、心臓が跳ねた。


 会ってはいけない人に、出会ってしまった。


 そっと、隼人の後ろに体の半分を隠した。

 沙月は、さらに女性へ訴えた。


「陸上の大会でずっと前から見ていたなんていいながら、校門で待ち伏せまでしながら、なによ。もう平気な顔で新しい女といちゃついていとか、許せない」


 平気なんかじゃない。

 反論したくて、美祈の拳は強く握られた。が、それを諌めるように、隼人の冷えた手が被さった。


「彩瀬さん」


 ようやく動いた隼人の唇から、掠れた声が絞り出された。視線を落とし、思慮に耽っていた様子の女性が、静かに顔をあげた。下瞼の縁が、色とりどりの電飾を反射させていた。


 隼人と女性の視線が結ばれた。


 クッと小さく隼人の喉が鳴る。固く唇を引き結ぶと、彼は深く頭を下げた。女性の渇いた唇の隙間から、静かな溜息が白くたなびいた。

 張り詰めた冷気が動いた。と思った次の瞬間、踵を返した隼人の後ろ姿は師走の夕暮れに半分溶け込んでいた。


「隼人」


 追いかけようとして、美祈は思い出したように沙月へ拳を突き出した。ギョッとした彼女の募金箱の上で指を解き、握り締めていた五百円玉を穴へ差し込む。温くなった硬貨が、箱の底面を叩いた。


「あ、ありがとうございマス」


 呆然とする沙月を他所に、美祈はもう一度女性を見つめた。そして、隼人の後を追った。

 彼は、一年生ながら陸上部短距離部門のエースだ。去年まで先天性心疾患でまともに外も出歩けなかった美祈の脚で追いつけるわけがない。それでも、美祈は走った。吸い込む冷気が痛かった。

 隼人を探しながら、瞼の裏には悲しそうな女性の顔が焼きついて離れなかった。初めて見るのに、どこか懐かしいのは、この心臓を胎内で作り上げてくれた人だからだろうか。


 胸を押さえた。


 交通事故で脳死判定を受けた彩瀬夏菜の心臓。

 移植手術は成功し、今のところ大きな問題はない。欠陥のあった美祈の心臓の代わりに、しっくりと体の一部に馴染んでくれている。しかし、こんなに走って、心拍数を上げて、大丈夫だろうか。息が苦しいのは、正常範囲だろうか。

 ひときわ大きく吸い込んだ息にむせた。

 コンビニの前で立ち止まり、スマホを探った。隼人に電話するも、応答はない。

 唇を噛んだ。


 募金したいなどと、言わなければ良かった。


 幸運にも移植手術を受け、命を助けてもらった元患者として、次に続く人を応援しなければならない。それが、自分にできるささやかな恩返しだと、義務感に燃えてしまった。多くの現金を持ち歩く習慣が無いので、財布を逆さにしたところで、必要な費用の足しにもならないようなはした金。

 そのために、隼人を深く傷つけることになってしまった。

 せめて、反論すれば良かった。あの女子高生は、隼人のことを何も知らない。

 彼の悲しみも後悔も。忘れるどころか、日に日に彼女を思い出す頻度が多くなっていることも。

 ひょんなことで、不意に陰る隼人の表情。すぐ側にいる美祈を透かし、遠くを見る眼差し。

 今でも隼人の心は、ただひたすらに夏菜を想っているのに。



次の日から、期末試験が始まった。

 美祈には、県下一の進学校に通う双子の兄という頼もしい家庭教師がついているので、試験に対する不安はなかった。気持ちに余裕がある分、隼人を心配してしまった。

 辛うじて試験を受けに来ているという風で、隼人の顔色は良くなかった。一緒に帰ろうと声をかけても、うつるといけないからと断られる。しかし、彼の具合の悪さがウィルスや病気ではないことが、薄々感じられた。

 気持ちからくる不調なのだろう。

 隼人の幼馴染みで今も同じ陸上部で互いに競い合っている勇哉も、隼人に避けられているようだった。


「りっくんの、あ、隼人の兄貴な。彼の話では、家でも部屋に引きこもっているってさ」


 振られた者同士、俯き加減で校門を出た。勇哉は、元から鋭く眦の上がった目を細めた。


「なんか、あったんか?」


 曖昧に返事をして、はぐらかした。

 しかし、勇哉は大人しく引き下がる人ではなかった。


「あいつ、メンタル絹豆腐だからな」

「木綿じゃないんだ」

「スプーンで掬って食べる豆腐レベルかもしれない」

「あ、あれ、美味しいよね。じゃあ、茹でたら少しは崩れにくくなるかな」

「鍋に入れる時に崩れるんだな、これが」

「着水の衝撃かぁ」

「その衝撃って、俺には夏菜ちゃん絡みしか思いつかない」


 もう一度、勇哉の視線に射抜かれた。


「何があったんだ」


 さっきより確信めいていた。低い声には、温かみも含まれていた。眼つきは鋭いが、奥底に気遣うような、思い遣りのようなものが感じられた。


「う、ん」


 躊躇いがあったが、美祈もまた、一人で抱え込むには限度があった。

 ぽつりぽつりと、あの夕方の話をした。

 聞き終えると、勇哉は深く息をついた。


「その沙月って子、大会で夏菜ちゃんとよく一緒にいた子だと思う」

「あんな風に言われたら、能天気な私でもへこんじゃうよ」


 あはは、と笑って見せる。しかし、勇哉の表情は更に険しくなった。眉間に刻まれた縦皺。切れ上がった目尻、小さめの黒目。引き結んだ唇。

 深刻なのに笑ったから、怒ったのだろうか。こういうときは、誤魔化してはいけなかったのだろうか。ひとりで過ごす闘病生活が長く、周囲は大人が多く、いまいち同年代との距離感が掴めない。

 不安を募らせていると、勇哉の視線がツイと逸れた。


「泣きたいなら、ちゃんと泣けよ」

「え」


 冷えた頬に、温いものが流れ落ちた。ハラハラと続けて零れる雫を慌てて袖で拭う。


「あ、れ? おかしいな」


 ミニタオルを差し出された。美祈が受け取ると、勇哉は車道側に動き、美祈の一歩前を歩いた。


「辛い、よな」


 ぽそりと、呟きが届いた。うん、と小さく頷き、だけど、と洟をすすった。


「最初から、分かってたもん。だから、辛くても平気だよ」


 初恋の相手には勝てない。それが、想いが通じた直後に永遠の別れをしてしまった相手なら尚更だ。彼の心の中で夏菜は永久に鮮やかに生き続ける。しかも、運命を引き裂いた事故から一年と少ししか経っていない。


「心配なんか、しないで。私は大丈夫」


 鼻先も目元も赤くした顔では説得力がないだろうが、ガッツポーズをして見せた。肩越しに振り返った勇哉の顔も、少し赤らんでいた。


「けど、その辛いんを見て、辛くなってる奴がいるってことも、覚えておいて欲しい」


 聞き返すと、ぐしゃりと髪を撫でられた。いつもの、軽くふざけた手より重かった。


「隼人のことは、みのりんに任せるよ。けど、手伝えることがあればいつでも言えよ」

「ありがとう」

「連絡は、取れてんのか? 俺には返事がない」


 スマホの画面が瞼の裏に蘇る。イルミネーションを背景に、ふたり笑って撮ったロック画面の背景に重なったメッセージ。


「今はそっとしておいたほうがいいかなと思って。良くなったら連絡して欲しい、て送った後、返事待ち。もっと声掛けてあげたほうがいいのかな」

「いや。俺も同じように送った」


 別れ道にきた。

 ひとりになって、スマホを握り締めた。


『俺は、美祈の彼氏でいられないから』


 そんなことはないと、伝えても彼を追い詰めるだけだろう。かといって、そうですかと受け入れられなかった。


『考えさせて』


 震える指で打った返事は、妥当だったのだろうか。

 再び涙が溢れそうになった。家はすぐそこだ。帰ったらまず、顔を洗わなくては。借りたタオルも、洗わなくては。明日は苦手な物理があるから、しっかりやらなくては。


 ふうっと空に上っていく溜息は、薄く広がる雲と馴染んでいった。


 闘病中は、とにかく生き延びることだけを考えていればよかった。周囲の人から、大変だね、頑張ってるねと言われ続けてきた。

 しかし、大変なのは病院の外ではないだろうか。頑張っているのは、他の人たちのほうだ。考えなくてはいけないことが、こんなにも多いなんて。

 ただ生きながらえることしか選択肢がなかった。あの頃とは違う。多岐に枝分かれした未来が足元から広がっているのを感じる。

 隼人と別れるのか。恋人として付き合い続けるのか。友人としての関係を作るのか。どれが正解なのか、どの参考書にもネットにも書かれていない。

 がらんとした冬空を見上げ、美祈は途方にくれた。

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