幕間
第14話:風の丘の兄妹
大陸の西。その辺りを、あたかも箱庭であるかのように、東と隔てる山脈がある。概ね南北に長く伸びるそれを、デクトマ山脈という。
飛び抜けて高い山はないが、地形は複雑で、その内に様々な獣を抱える。人もその例外でなく、国を持たない種族、部族が多く暮らした。
山脈の北端に近い高地。
北に行くほど暖かいこの大陸だが、そこは高地であるがゆえに、涼しい風と適度な水に恵まれた。
ただしそこに、人は住まない。一人の少年と、それより幼い一人の少女。この二人の兄妹を除いては。
「ソーラ。戻ったぞ」
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
「薬をたくさん買えたからな。しばらくは、ずっと一緒に居られるぞ」
「本当? 嬉しい……」
妹のソーラは、身体が弱かった。なにが原因とも分からないのに、高価な薬を飲み続けなければ、すぐに高熱を出した。
戦えば強かった両親も、病であっさりと死んだ。部族の仲間も、同じように死んだ者は多い。
この地に住む者への、呪い。兄は、そう考えていた。
二人が住む家は、森の外れ付近にある。すぐ目の前には、見渡す限りの草原が広がった。
誰かがそうしているのかというほどに、高さの揃った柔らかい草。寝転べば天然のベッドとして、最高の昼寝が約束された。
もう住む者のない、部族の仲間たちの家。それらは全て、草原の端を取り巻くように、森の中へ建っている。
彼らはその草原と、そこを縄張りとする神を守る部族だ。彼らは自身を、また周囲の人々は彼らを、
時に草原を荒らす、よそ者を追い払うのが彼らの仕事だった。今はもう、それを行うのは兄だけだ。
「どこの商人さんだ? 悪いことは言わん。荷物を持って、早く出ていけ」
「疾き風か。厄介と聞いていたが、一人だけか?」
「ああ、そうだ。俺が見逃したとしても、神が直々に裁きを下すからな。手は足りている」
妹が使うのとは違う、やはり高価な薬の材料が、草原には多く生えていた。それを目的に訪れる者たち。
兄は十五にして、たいていの大人よりも優れた体格を持っていた。しかし一人では、護衛を連れた商人たちに侮られる。
「うちの神さまは、人間の作った物が嫌いでね。その荷箱一つでも置いておけば、今日中にはお仕置きがあるだろうさ。あんたたちが身一つで来て、身一つで帰るってのなら、なにもしない。気のいい神さまだ」
「お前を殺してしまえば、神さまも気付かないだろうさ」
それでもその日までは、なんとか役目を果たしていた。兄には、それだけの能力があった。
◆◆◇◆◆
「ソーラ! どうした!?」
ある日。妹が血を吐いた。兄は慌てて駆け寄り、咳き込む妹を抱き起こす。たちまち、胸や腕が血に汚れた。
「どうして……今までこんなこと、なかったのに」
部族の呪いは、見た目に穏やかなものだ。
それまで健康だった者が、次第に体力の衰えを感じる。じきに起き上がることが出来なくなり、終いには食事も出来なくなって死ぬ。
最初の兆候から死ぬまでの期間は、人によってそれぞれだ。半年ほどだった者が居れば、数年をかけた者も居る。
妹も同じだとすれば、既に五年ほどが経っていた。けれども血を吐くという症状は、聞いたことがない。それを言い出せば、高熱を出すのもあまり例はないが。
「この間から、気分が悪くて」
「この間? いつ頃だ」
「――ええと」
「いつだ。ソーラ、教えてくれ」
「半月くらいかな……」
このひと月ほどは、この家から離れていない。もちろん見回りなどで出ることはあるが、それほどの時間はかからない。
その間に変わったことは、なかったはずだ。ならばその直近に、なにかなかったか。兄は記憶を辿ったが、思い当たるものがない。
妹の咳は治まった。苦しそうだった顔は遠慮がちに、兄から目を背けようとする。その視線が、ちらちらと脇に置いている薬を見ていた。
「こいつか。こいつがおかしかったのか」
「……ううん、分からない。私もう、随分前から味を感じなくて。でもなんとなく――そうかな、って」
兄の必死の問いに、妹は渋々答えた。
言われてみれば、おかしかったと思い当たる。いつもの三倍近い量の薬を、いつもの金額で買えたのだ。
懇意にしてきた薬屋だし、前の年に異常繁殖した材料が使えるようになった、という説明にも納得した。
すぐにでもあの薬屋を絞め上げて、どういうことか問い質したかった。しかし町までは、兄の全力で三日かかる。往復で六日間も、今の妹を一人で置けるはずがない。
口に入れた物の味が分からないのも、初耳だった。兄として妹を愛し、妹も信頼してくれていると思っていた。それは幻想だったのか。
いや、妹は慎み深い。兄に余計な心配をさせたくなかったのだ。それが自分の命を蝕むものであったとしても。
信じてはいても、それが妹を苦しめるのでは意味がない。兄は思い悩んだ。
――翌日まで見ていても、妹は血を吐かなかった。兄が居ても、見守る以外に出来ることはない。やはり薬を手に入れて来るべきだ。
前に使い切った薬瓶にこびりついた物を集めると、二、三回分の量にはなった。どうにかこれで六日を耐えてくれれば、まだ妹は生きられる。
「お兄ちゃん、行ってらっしゃい。待ってるからね」
妹は、草原に咲くどの花よりも可憐に笑って、見送った。
あれを枯れさせてなるものか。兄は眠る時間を削り、いつもは絶対に通らない危険な場所を駆け抜ける。
おかげで町には、二日で着いた。すぐに薬屋を訪ね、他の客の目も構わず首を絞めて吊り上げる。
「ま、待って……はな、話を!」
「どんな言いわけをする気だ」
手を離すと、薬屋は首を押さえて咳き込んだ。それがまた、癇に障る。
「――薬の仕入先に脅されたんだ。そうしないと、薬は卸さないって」
「仕入先?」
「そうだ。奴らはそれから、私の家族の名を一人ずつ言ったんだ。それがどういうことか、分かるだろう?」
仕入先を聞くと、有名な豪商の名前だった。最近追っ払ったどれかがそうだったのかもしれないが、名など聞かないので分からない。
「ちっ――時間がない。いつもの薬をよこせ」
「ああ、いいとも! また次に来たときに、まともな物を渡しちゃいけないとは言われなかった」
調合の時間を待って、出来上がった薬を、兄はひと匙舐めた。前に舐めた記憶と、同じ気がする。
どうして毎回こうしなかったのかと、悔やんでも悔やみきれない。
薬屋にも舐めるように言うと、彼はふた匙をためらいなく舐める。
「正真正銘、間違いない。これでなにかあれば、次に会うときは黙って殺されよう」
「分かった。信用する」
飲まされた毒を消す薬はないらしい。体力さえ十分ならば、じきに元通り治るものなのだそうだ。
薬屋を完全に信用したわけではなかった。この町に、薬屋は他にない。妹の薬を手に入れられる当てが、他になかった。
しかし今は、それ以上に妹の安否が気にかかる。そこまで事情を調べたならば、兄の居ない機会になにをするか、知れたものでない。
急ぎに急いだが、帰りは登りだ。行きに使った近道も、使えないものが多い。それでも二日と半分で、兄は家に戻る。
朝の早い時間。扉を開けると、妹がテーブルでスープを飲んでいた。
「ソーラ――大丈夫なのか」
「平気よ、お兄ちゃん。フレミトゥがお話してくれて、それから調子がいいの」
「そうか。それは良かった……」
フレミトゥとは誰か。山の中へ気紛れに住んでいる者も含めて、兄には聞き覚えのない名だった。
商人に言った通り、この草原を通るだけなら神は怒らない。あるいはひと晩、寝転がっていたとしても問題ない。
人の作った物が嫌いなのだ。それが例え、ひと張りの幕であっても。
だから草原をどうにかしようとするのでなければ、誰が付近に居てもおかしくはない。兄の居ぬ間にということから、例の豪商を疑ったが、それもどうやら違うようだ。
「フレミトゥはね、私と同じくらいの女の子よ」
「そうか。また来てくれるといいな」
妹はスープを飲み終えると、ベッドに戻った。早速に薬を飲ませると、すぐに眠ってしまう。
「またすぐ、来てくれるといいんだがな」
そうすれば、何者なのか聞くことが出来る。怪しげな相手でなければ構わない。妹に友人が出来るのは、いいことだ。
しかしそれは、あまりに不自然な出来事だ。
それから妹は眠り続け、夜になる。そろそろ兄のほうが、眠気に耐えきれなくなった。何日も見ていなかった妹の体調が心配だったのだが、本人が言うように悪くはないらしい。
いつもそうしているように、食卓の脇にあるベンチで身体を横たえた。
――ふと。
目が覚めた。しばらく眠っていたようだが、まだ朝には遠いらしい。
家の扉が開いた気がしたのだが、閉まっている。家の中に誰かが居る気配もない。念のために妹のベッドを見てみると、居ない。
「ソーラ! どこだ!」
妹が家を出ていくのにも気付けないとは。町までの無理な往復が、兄の体力を根こそぎ奪っていた。
草原に出てみたが、妹の姿はない。月が明るくて、見落とす心配はしなくて良かった。
それなら山頂方向か。まさかと思っていたが、それしかないようだ。
妹は家の中を歩くくらいならば、一人で出来る。しかしその足取りは頼りなく、とても斜面を登れるものではないはずだ。
家から獣道を伝って、登っていく。まださほどの距離ではないはずだ。少し登っては耳を澄まし、妹の立てるであろう音を聞いた。
「……ソーラ」
何度か繰り返して、妹を見つけた。どこに向かうつもりか、宙の一点を見つめて足を進める。
しっかりと土を踏みしめ、痩せ細った脚と動作がアンバランスだった。方向も山頂ということはなく、なにがあるともない向きだ。
あれは本当に妹なのかと、兄が疑いを抱くほどに異様な姿だった。
「どこまで行く気だ――」
兄が少しばかりの音を立てても、妹は気付く様子がない。事態が分からず、兄はただ着いていく。
ほどなくして、妹は足を止めた。斜面でなく平たい場所ではあったが、他とどれほども違わない。
「フレミトゥ」
妹が名を呼んだ。なにか関係があるのではと思っていたが、やはりそうらしい。
どんな相手なのか、姿を見ようと思った。先に姿を見せていては、相手が怖れるかもしれない。そう考えて、藪の中に身を隠した。
「あれが…………?」
闇の中から姿を見せたのは、痩せて疲れ果てたような老婆。妹が話していたのとは違う。しかし漏れ聞こえる声からすると、あれを妹はフレミトゥと呼んでいる。
なにを話しているのだろう。もっとはっきり聞こうと、兄は藪の中を進んだ。
「くっ……」
気付かれた。音は立てていないはずなのに、土の沈む音でも聞いたというのか。老婆は兄の潜む藪を、兄の眼を真っ直ぐに見る。
しかし現れてからずっと、およそ表情と呼べるものがない。疲れた目は不用心に兄から逸らされ、老婆は妹の頭を撫でた。
【失せろ】
頭の中で、大きな鐘を鳴らされたようだ。言葉にはなっていなかったはずなのに、意味が分かる。そう言っているのが、老婆であることも。
老婆は身をくねらせて、姿を変えつつあった。人の大きさの限界などすぐに超えて、木々を薙ぎ倒して膨れ上がる。
その背には一対の羽が伸びて、月明かりに複雑な模様が美しく映えた。しかしやはり、朽ちたような印象を抱いてしまう。
細長い嘴も乾ききったような、哀れな鳥の姿だった。
「おい。ソーラをどうする気だ!」
妹は、その嘴に咥えられている。市壁でも見上げているような高さで、妹の表情も分からなかった。
しかしあれが、怖ろしくないはずがない。恐怖に震える妹を助けなければ。しかし武器を持ってきていない。迂闊だったと臍を噛む。
【食う】
また鐘の音が響き渡る。他には聞こえない、兄の頭の中だけに届く音。
それに身悶えして、膝を突かないよう耐える。ようやく意識がはっきりしたところで、告げられた意味を理解した。
既に妹の姿はない。尋常の鳥と同じように、顔を上向けて飲み込む動作をした。
兄の膝から、力が抜けた。地面に崩れ落ちて、呆然と見上げる。
その目の前で、フレミトゥは羽を広げた。瑞々しい、活力のある躍動の音が響いて、ついさっきとは輝きの違う姿が猛々しい。
紫と黄の模様も、一層の細やかな装いへと変わったかのようだ。
そして前触れもなく、辺り一面に雷が降り始める。届く全てを打ち砕こうとするように。
◆◆◇◆◆
兄は我が家に戻り、たった一人となった村を捨てた。
そこから持ち出したのは、妹が母から譲られたネックレス。それから、自身が父から譲られた、両手持ちの大剣だけだった。
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