第40話 井津治の失踪2
彼の母の実家がある能登へは井津冶を連れて祖父は何度が行っている。泊まる旅館はいつも同じで子供時代は礼子と一緒のときもあった。
井津冶が叔父さんの養子になっても会社がどうなるか判らない。と云うのも祖父が引退してからは、叔父さんが表向きは引き継いでいた。だけど実態はやはり祖父の手腕で成り立っている。だからここからが会社が盛り上がるか倒産するかは叔父さんの営業努力、手腕が試される。それで全てを失う前に財産を分散しておきたい。と云う祖父のもくろみも見え隠れしないでもなかった。樺太から持ち帰った財産、原資に見合う分だけは残したい。これは希望でなく切なる願いなのだ。祖父が次男に事業に対する発展の未知数を思案して孫に分散させる。それが今、私の肩にのし掛かっているの。だから叔父さんと井津冶が共倒れになったことを考えるとあたしと一緒にしたい。すなわち陰で婿入りを勧める理由がそこにあるの。今はそんな飛躍するよりあのコ、井津冶のことを能登に着くまでに前よりもう少し詳しく話しておきたいの。
まず姉達は中学生だから子供らしい遊びはしない。だから歳の近いあたしが自然と井津治と一緒に遊ぶ。
あたしがあのコと仲良くなるとおじいちゃんは益々ご機嫌になった。お陰で色々な物を買ってくれるから姉達からひがまれた。たまに姉達のほしがる物をねだって姉達の機嫌を取ったこともあった。とにかくあのコが来てから生活サイクルが変わってきた。たまにあのコを泣かすとおじいちゃんが飛んできて叱られることもあった。しかしおじいちゃんはけじめはつけていた。井津冶に非があると彼を叱った。これは頼もしかった。だから二人は競うように行いを正した。今までの暮らしで身に付けた彼の価値観は次第に矯正されていった。性格に明るさが増し物怖じしなくなったのに、この家を出て一人暮らしを始めるとまた元に戻ってしまった。誰かが付いてないとあのコの性格は治らない。でも別段悪い性格じゃない、人一倍気にしてくれる良い子には違いない。でもそれが企業家としては正しいのかどうかと考えるとハラハラさせられる。それに最近に父権を唱える実の父親が気になる。昔の母を思うと絶対に許せない存在だった。だが血は流れている。それでどう対処するか多分悩んでいるはずだ。どっちつかずのそう云う性格をあのコは旅の途中で呪っているでしょうね。
まずそこまでの過程だけれど・・・。あれは二十年も前だろうか、あたしが小学生の頃にあのコは来た。いやに神経質な物怖じするコだった。あの日は三月の終わりに近い日曜日で、春だと云うのに随分寒かった。それは昨日までが暖かすぎて急にぶり返しのきつい朝で珍しく雪が薄く積もった。祖父が囲っていた人が最近亡くなったのは耳にしていた。残された男の子をしきりに不憫だと祖父は吹聴していた。だが連れて来るとは一言も言わなかった。けれどその子は我が家にその日にやってきた。祖父は横付けしたタクシーから男の子の手を引いてやって来た。縁側のガラス戸はすべて閉められ、庭の木々は雪を被り、石油ストーブが赤々と焚かれていた。祖父は庭に面した奥の居間に鎮座するとみんなに集まるように指図した。
訪れた家族は襖を開ける度に、祖父の隣に座る小さな子供を見て、何かを悟ったらしく無言で座ってゆく。みんな揃うと祖父はおもむろに口を開いた。
第一声はこの子を家族の一員に加えるとの口上で始まった。みんなは傍に座った祖母の表情に集中した。祖母の微動だしないその顔でみんなは納得させられた。
家族会議が始まる前に子供たちを外へ出した。四人は一斉に降り積もった雪の庭に出た。
例のメリーさんのひつじを合唱した後。雪よ! 雪だ! と子供たちははしゃぎ回り、そのうちに雪合戦が始まった。
庭に立つ井津治の頭に雪の玉が当たった。負けずに彼も投げ返す。砂利の上の雪はすっかり解けて木々や枯れ草に残る雪をかき集めての雪合戦だった。上の姉二人は早々に離脱して観戦に回っていた。さっきまで祖父の隣に、お人形さんのように座っていた子が、嘘のようにはしゃぎまわっていた。委細構わず礼子は男の子に雪の玉たまを投げつける。
「礼子! 手加減しなさいよ」姉から言われるのと同時に雪が男の子の目に当たり、泣きそうな顔をしてしゃがみ込んでしまった。何してんの! と言わんばかりに慌てて二人の姉が駆け寄って来た。ゴメンネ、ゴメンネと礼子は男の子に掛かった雪を払い落としていた。姉はチラッと縁側の窓ガラス越しに笑っている祖父を見て安堵した。
「うちはお父さんよりおじいちゃんの方がエラインだから気をつけなさいよ」と姉の優子は礼子に懇々と諭し、雅美にも、あんたまで夢中で雪を投げるからこうなったのよ、と言ってる後ろには祖父が忍び寄っていた。ここで祖父に気付いた雅美が、姉の袖口を引っ張って後ろに喚起を促した。振り返った優子が今度は祖父から小言を言われる。何であたしが言われるのいったい何なのあの子は、と礼子を見て脹(ふく)れていた。それを見て「そんなのあたしのせいじゃない、あっかんべー」と礼子はその場を走り去った。
「それはいつ頃なの?」
「九つ頃かしら? もちろん小学生になるんだけど。お陰で苦労させられた」
その苦労は最初のこの子の転校時から始まった。この初っ端の出来事で井津冶は畏縮してしまった。それをいいことに特にまだ子供で悪戯(いたずら)ごころが抜け切らない礼子は、二人の姉への鬱憤を井津冶で紛らわすようになった。
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