第18話 真昼5

 次の年も、またその次の年も雨川は夏休みになると真昼の地元に遊びに来た。


「姉ちゃん、海開きって今日やんな?」

「そうね」

「雨川君、来てるんかな」

「あら、最近そわそわしてると思ったらそういうこと? 来てるといいわね」

「うん!」


 雨川と夕莉、二人が初めて話した時のことはよく覚えている。

 互いに目が合ったかと思うと、時が止まったかのように無言の時間が続いた。

 なんだろう、と真昼が夕莉の顔を伺ったタイミングで姉が小さく笑い、雨川は会釈をするように頷いた。


「自己紹介はまだだったよね。真昼の姉の夕莉よ」

はれ……だけど」

「うん? 今日は多分ずっといいお天気じゃない?」

「あー名前な名前。雨川晴」

「…………そう。だけどって、なに?」

「特に意味はないな。はは、わりい」

「なんだか生意気ね、雨川君」

「どこらへんが!?」


 それは決して真昼が想像していたようなやり取りではなかった。

 もっと安穏で、和気あいあいとしたものを想像していた。

 それは三人で遊び始めてからも変わらなくて。


「なあ夕莉、海が青い理由って知ってるか?」

「ねえ、さっきから思ってたんだけどなんで呼び捨てなの? 私の方が年上なんだけど」

「一歳差だろ? 変わらん変わらん。それにあんたは別にそういうことを気にしないようなタイプに見えたけど、違ったか?」

「まあそうね」

「だろ? それより知ってるか? 青い理由」

「……知らないわね。どういう理由なの?」

「俺も知らないな。あ、年上なら知っとけよ」

「…………」


 しかし真昼の望んだ通りにはいかずとも、それが悪いわけではなかった。

 本人たちにしか分からない距離感や理解は確かにあったのだと思う。


「真昼? 今日は雨川君が家に来るのよね」

「そやで。夜ご飯一緒に食べようって話になってんねんけど……」

「そう」

「あ、でも姉ちゃんが嫌なら断るで」

「嫌だなんて。違うわよ、ただ聞いただけ」


 幼い真昼からみて、二人は仲が悪いのかと思ったこともある。


「いやあああ! 蛙が背中に! 取って取って、取ってよお!」

「おい! 暴れると潰れちまうぞ!」

「やだあああああああ!」


 けれど、違った。


「……ちょっと、姉ちゃんに何したん?」

「いやな? 蛙だぞって言ってから、背中を指でなぞったらこうなった。騒がしい奴だな全く」

「雨川君さあ……」

「だってあいつ、いつも余裕そうな顔してるだろ。崩してみたくならないか?」

「ならんけど。あ、姉ちゃん。ここ、ここ。ここにおるで」

「おい何ばらして――」

「雨川君!」


 二人の互いに対する態度は他の子供たちに比べて明らかに異なっていた。それは、真昼も含めて。

 悪く言えば雑で、良い意味で言えば遠慮がなかった。

 夕莉が自ら年上だと主張したり、怒ったりしたところなんて見たことがない。

 彼女にしては珍しく、近い年齢の相手に対して年相応の感情を見せていた。


 大人になった今なら分かる。

 この時からすでに二人は互いに意識をし始めていたのだと。

 求めていたのは、必要だったのは対等な存在だったのだと。

 気付けば、ずっと真似をしたかった夕莉の余裕のある笑みが、ただ薄く笑っていただけだったようにも感じた。

 だって夕莉は本当によく笑うようになったから。


「あら雨川君、それは何?」

「親父がこの前の飯のお礼に持って行けって」


 夕莉の想い、雨川の想い。

 それを推し量るには真昼は幼すぎたが、自分の想いには気づくことができた。

 気付いたのはずいぶん経ってからだったが。


「それと、これは夕莉に……」

「なによ」

「そう警戒するな。詫びだよ詫び。お前、蛙の嘘の時泣いてただろ」

「……泣いてない」


 最初は二人が仲良くなってくれて嬉しいという純粋な感情だけだったはず。

 真昼からみれば奇妙な関係だったが、それでもなんやかんや二人が離れることはなく、真昼を含めて三人で楽しく夏を過ごした。


「何が入っているの?」

「キーホルダー」

「キーホルダー? え、いいの?」

「いいぞ。可愛い蛙のキーホルダーを買ってきたんだ」

「…………」

「ほら、真昼の分も」


 尊敬する姉を馬鹿にされて突っかかったこともあったし、姉に構ってもらえなくなったことで雨川を敵視していた時期もあった。

 雨川が相手だと、普段とは違う顔を見せる夕莉に複雑な感情を抱いた。

 完璧だった姉を崩されるのが許せなかった。

 気高い姉の心に土足で侵入するのが許せなかった。


「雨川君、ちょっと意地悪とちゃうか」

「印象的な方が思い出に残るだろうと思って」


 なのにいつしか変わってしまった。

 いつからだろう、嫉妬の対象が入れ替わってしまったのは。

 なぜだろう、姉を馬鹿にされたような苛立ちを感じると共に、仄かに安心している自分もいたのは。


「このキーホルダーは可愛いけどな。さすがに姉ちゃんが可哀想や」


 違う。

 可哀想なのは姉じゃない。

 プレゼントを貰った時は不機嫌な表情をしていたが、後にとても大事そうに持ち歩いていたのを知っている。

 嬉しかったに決まっている。

 それが何であれ、気になる男の子から貰ったものだったのだから。

 もちろん真昼だって嬉しかった。

 でもそれは真昼の思い出ではなく、夕莉の思い出だ。


「雨川君、あんまり悪戯ばっかしてると姉ちゃんに嫌われるで」


 本当に嫌われてしまえばいいと思ってしまった。

 誰が、誰に?

 嫌だ。そんなことになって欲しくない。

 そんなこと、思いたくもなかった。


「久しぶり! また今年も来てくれたんか。あ、姉ちゃん呼んでくるわ」


 年を経るごとに体は成長していった。

 合わせるように心も成長していった。

 しかしその成長は時に、望んでもいない感情までをも育んでしまった。

 様々な感情が混ざり合い、より複雑な想いとして真昼の中に留まり続けた。


「雨川君、また砂の城でも作らへん?」

「んーじゃあ夕莉もいるし、一人一つ作るってことで」

「えー! 一緒がいい!」


 あの頃に戻りたかった。


「雨川君、うち泳げるようになってん。だから競争しよ!」

「おーい待て! お前の姉ちゃん、まだ泳げないってよ」


 嫌な感情なんて知らない、純粋で綺麗な感情だけを持っていたあの頃に。


「雨川君、姉ちゃんの胸はどんどん膨らんでいくのに、うちは全然やねん……なんで?」

「そんなこと俺に聞くな」


 姉を好きなことには変わらない。

 憧れは以前としてあった。


「雨川君、今度夏祭りがあるんやけど」

「おー行ってみるか」


 でも、彼のことも好きなのだ。

 二つの好きは両立できそうなのに難しかった。


「雨川君――。雨川君――。雨川君――」


 先に彼と知り合ったのは、夕莉ではなかったのに。

 先に彼を好きになったのも、夕莉ではなかったはずなのに。


「ねえ雨川君……」


 もっと私を見て。


「なんだ?」

「んーん。なんでもない」


 真昼が鬱屈とした気持ちを抱え始めた頃、夕莉が重い病に侵された。

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