第2話 そうだ。家出しよう!

 説得は失敗に終わった。こうなれば、最後の手段である。


 夜中にこっそり抜け出そう。


 廊下に足を踏み出すと、静寂が俺を包み込んだ。昼間の喧騒が嘘のように、館内は深い眠りについている。しかし、それは表面上のことだ。マキシマム邸の夜は、昼間以上に危険な時間帯である。


 執事達による夜間警備が始まっているのだ。


 問題ない。一応、俺は才能だけならマキシマム家一だ。家令エスメラルダが出張らない限り、出し抜くことは容易である。


 とはいえ、油断は禁物だ。


 足音を殺し、呼吸を整える。気配を完全に消去し、影に身を潜めながら移動する。


 執事達が廊下を哨戒していく。


 カツカツと規則正しい靴音が廊下に響いている。その音は機械的で、寸分の狂いもない。五歩ごとに立ち止まり、左右を確認。十歩進んで振り返り、後方を警戒。完璧に計算された巡回パターンだ。

 

 洗練されたその動きに無駄がない。

 

 どんな変化も見逃さないプロの目がある。床に落ちた髪の毛一本、壁の微細な傷まで記憶している。ここに侵入するぐらいなら米国のホワイトハウスに潜入するほうがよっぽど楽だろう。


 執事の一人が俺の隠れている柱の前を通り過ぎる。あと数センチずれていれば発見されていた。俺の計算に狂いはない。警備パターンは完全に把握している。


 三十秒後、次の執事が角の向こうから現れるはずだ。その間隙を縫って移動する。


 二十九、二十八、二十七……。


 心の中でカウントダウンを刻みながら、次の移動ポイントを確認する。


 五、四、三、二、一……今だ!


 影から影へ、無音で移動した。


 しかし、今夜は妙に警備が厳重だ。普段より執事の数が多い。もしかして、昼間の俺の行動がバレているのか?


 不安が脳裏をよぎるが、今さら引き返すわけにはいかない。


 気配を消し、足音を殺して移動を繰り返す。そして、カミラの部屋の前まで到着した。


 ドアノブを慎重に回す。わずかな軋み音すら立てないよう、時間をかけて開錠する。


 ついにカミラの部屋に足を踏み入れた。


 カミラはベッドに入り、スースーと寝息を立てていた。


 月明かりが窓から差し込み、カミラの銀髪を淡く照らしている。無邪気な寝顔は、まさに天使のようだ。頬が薄っすらと紅潮し、小さな唇がわずかに開いている。


 こうして眠っている時のカミラは、本当に普通の子供に見える。いや、普通以上に愛らしい。


 昼間見た殺戮の光景が嘘のようだ。生首を嬉しそうに掲げていた少女が、今はこんなにも無垢な表情で眠っている。


 うんうん、そうやって寝ていれば、普通の子に見えるぞ。


 静かにベッドサイドに近づく。


「カミラ、カミラ」


 起こすため、カミラの肩を優しく揺する。


「う、うん……なぁに?」


 寝惚け眼のカミラが目を擦りながら返事をした。半分夢の中にいるような、ぼんやりとした表情だ。


「カミラ、寝ているところ起こして悪かったな。すぐに家を出よう」

「いいのー?」


 その言葉で、カミラの眼が一気に覚めた。驚きと喜びが混じった表情で俺を見つめている。


「あぁ、いい」

「わぁい。おでかけー♪ おでかけー♪」


 カミラはベッドから跳ね起きると、スキップをしながら喜びのダンスを踊った。寝間着姿でくるくると回る姿は、まさに無邪気な子供そのものだ。


 俺の心は複雑だった。


 カミラは短絡的に考えているようだが、これから大変だぞ。うちの価値観は異常だ。世間とのギャップを埋めるのは並大抵の苦労ではないだろう。


 外の世界で、カミラは何を学ぶのだろうか。そして、俺は本当にこの子を正しい道に導けるのだろうか。


 不安が胸中を駆け巡る。今更引き返すことはできない。このままでは、カミラは確実に道を踏み外す。

 

「カミラ、お外では今までの常識が通用しなくなる。辛いこともたくさん経験するかもしれない。覚悟はいいな」


「だいじょうぶだもん。ぼく、つよくなった。おそとでもおしごとできるよー」


 カミラが胸を張って答える。その自信満々な様子が、逆に俺の不安を掻き立てた。


「カミラ、そうじゃない。お外では――」

「あぁ、たのしみだなぁ。おうちのそとってどんなとこだろうー?」


 カミラが目を輝かせて喜んでいる。その瞳には、純粋な好奇心と期待が宿っていた。

 

 まぁ、今は、よしとくか。

 嬉しそうなカミラの笑顔を曇らせたくない。

 世間の常識は、おいおい説明しよう。今はすぐにでもここを離れなければならない。


「じゃあ出発だ。最低限の荷物だけ持っていくぞ」

「うん、わかったー」


 カミラは頷くと、身支度を整えていく。

 

 ハンカチ、シャツ、下着……ここまでは普通だ。その後に取り出したものを見て、絶句した。


 ナイフ、仕込刀、手裏剣、毒針……。


 おい、おい、おい!


 さらにでっかい金髪人形を背負って……って待て、待て!


「カミラ、最低限の荷物って言っただろ。それは大きすぎる」

「えぇー、もっていっちゃだめなのー?」


 カミラが人形を抱きしめながら、上目遣いで俺を見つめる。その表情は、お気に入りのおもちゃを取り上げられそうになった子供そのものだ。


「だめだ。必要最低限の荷物にするんだ」

「これだってひつようだよー。ほら、こうやってなかをあけてつかうんだー」


 カミラが金髪人形の背中にある隠しボタンをぐぃっと押す。


 瞬間――


 なにぃい! 金髪人形がパカッっと開かれ、無数の鋭い棘がびっちりと出現した。

 

 て、鉄の処女かよぉおお!!


 人形の内部は完全に拷問具と化していた。鋭利な針が規則正しく並び、まさに中世ヨーロッパの処刑道具そのものだ。

 

 うぉ! よく見れば、部屋の他の場所にも怪しいものがちらほら見える。


 あの可愛らしいオルゴールは、実は毒ガス噴射装置だった。メロディーと共に致死性の毒が放出される仕組みになっている。


 ベッドサイドの花瓶も、見た目は優雅だが実際は手榴弾だ。花を抜くとピンが外れ、三秒後に爆発する。


 舌絞め具、拘束衣、電気椅子の小型版……。

 

 妹の部屋がファンシーだと思ったら、拷問器具のオンパレードだった件……。


 しかも、それらがすべて可愛らしくデコレーションされている。リボンが巻かれ、パステルカラーに塗装され、まるで本当のおもちゃのように偽装されていた。


 この異常さは、もはや芸術の域に達している。悪い意味で。


「……カミラ、身支度は俺がする。少し待ってろ」


 これ以上カミラに任せていたら、移動式兵器庫になってしまう。


 クローゼットを開けて、カミラのリュックに肌着等、常識的な旅の道具を入れていく。着替え、タオル、石鹸、歯ブラシ……普通の旅行用品だ。


 これらの中にも怪しいものが混じっている。一見普通の歯ブラシなのに、柄の部分に毒針が仕込まれていたり、石鹸が実は爆弾だったり……。


 慎重に選別しながら、本当に無害なものだけを選んでパッキングした。

 

 つ、疲れた。


 普通の荷造りがこんなに大変だとは思わなかった。地雷原を歩くような気分だ。


 なんとか準備を終えた俺達は、すぐに部屋を出た。


「急ぐぞ」

「うん」


 廊下に出ると、再び緊張が走る。さっきより警備が厳重になっているような気がする。


 駆け足で移動する。


 途中、見回りの執事に見つかった。


 しまった! カミラの荷造りに手間取りすぎて、巡回パターンが変わってしまったか。

 

 執事が反応する前にその背後に回る。一瞬の隙を突き、音もなく接近した。


 手刀を執事の首筋に打ち、昏睡させた。


 執事はどさりと通路に倒れた。申し訳ないが、しばらく眠っていてもらおう。

 

 大丈夫。警護のパターンは把握している。この執事がチェックインするまで、あと十分はある。

 

 あと、数分は気づかれない。


 家を飛び出し、裏門に向かっていると、複数の気配に気づいた。

 

「ちっ!」


 思わず舌打ちを鳴らす。

 

 周囲を観察する。

 

 一人、二人、三人……十人、二十人……。


 暗闇から音も無く現れる影の数は、予想を遥かに上回っていた。


 うちで雇っている使用人達だ。しかもこいつらは上級使用人アッパーサーヴァント上級使用人アッパーサーヴァントは、選抜に選抜を重ねたエリート達だ。平使用人ノーマルサーヴァントとは一線を画す存在である。ちなみに、うちの平使用人ノーマルサーヴァントでさえ、通常のSP十人分以上の働きを見せるからね。

 

 そんな上級使用人アッパーサーヴァント数十人に囲まれていた。


 完璧な包囲陣形だ。逃げ道は完全に塞がれている。

 

「なんだよ。お見通しってわけか」


 苦笑いを浮かべる。やはり甘く見すぎていたか。


「申し訳ございません。奥様から坊ちゃま達を見張るようにお言いつけをいただいております」


 家令ハウススチュワードのエスメラルダが一歩前に進み出て、頭を下げてきた。

 

 こいつか……。


 月明かりが彼女の美しい横顔を照らしている。黒髪が風になびき、その端正な顔立ちが浮かび上がる。一見すると、深夜のドレスアップパーティーに向かう貴婦人のようだ。


 その美貌に惑わされてはいけない。この女性こそ、マキシマム邸で最も危険な人物の一人なのだから。

 

 違和感を感じてたんだよな。いくら俺がマキシマム家一才能があるからって、あまりにあっけなさすぎるって。


 執事達の配置、巡回ルート、警備の穴……すべてが計算され尽くしていた。俺が通るであろうルートに、あらかじめ網を張っていたのだ。

 

 エスメラルダが今夜の警護を指揮していたのなら、納得である。彼女は、家族以外で俺の裏をかき、用意周到に包囲網を成功させられる唯一の人物なのだ。

 

 くそ。俺としたことが少し焦っていたらしい。


 家令ハウススチュワードエスメラルダ・ジェム・ラッハ。

 

 うちの化物揃いの使用人達をまとめている統括だ。二十代後半という若さながら、本邸を任されている完璧メイドである。


 その経歴は華々しくも血生臭い。元はSSランクの賞金稼ぎであった。


 SSランクとは、賞金稼ぎ業界の最高峰を意味する。世界でも片手で数えるほどしかいない、伝説クラスの実力者だ。

 

 もともとは親父に懸けられている賞金目当てに潜入した。当時の執事達を出し抜き、寝室にいる親父と一対一まで持ち込んだのは、伝説だ。


 日に数百と挑戦しているが、誰一人親父の寝室どころか二階の階段先ですら潜入できた者はいないといえば、この偉業がどれだけ凄いかわかるだろう。


 今のところ、この超人記録は破られていない。


 そして、エスメラルダは親父との戦いで敗北。その実力を認められ、家に雇われることになった。


 敵として恐ろしく、味方として頼もしい。それがエスメラルダだ。

 

 黒髪、怜悧な目、整った目鼻。ボンキュッボンとパリコレモデルを思わせる完璧なプロポーション。身に纏うメイド服も、彼女が着ると高級ドレスのような気品を醸し出す。

 

 見かけだけで言えば、とんでもない美人なお姉さんである。


 ただし、中身は、とんでもない化物チートだ。曲者が多い使用人達の中でも一番相手をしたくない人物である。


「どけ!」


 声を荒げる。それは強がりでもあった。エスメラルダが本気で阻止しようとすれば、俺一人で突破は困難だ。


「リーベル様、いけません」


 エスメラルダが両手を広げて、行く手を遮ってきた。


 その動作は優雅でありながら、隙がない。まるでバレエダンサーのような美しさと、戦士の鋭さを兼ね備えている。


 そして、半身を横身に腕を伸ばす。


 堂に入った構えだ。言葉は丁寧だが、腕ずくでも行かせないって感じだな。殺意とは違うが、それに準ずる闘気が溢れんばかりに膨れ上がっていく。


 エスメラルダの瞳が、わずかに鋭さを増した。美しい顔立ちはそのままに、眼光だけが氷のように冷たくなる。


 これが、SSランクの貫禄か。


 周囲の空気が張り詰める。他の執事達も身を固くし、一触即発の緊張感が漂った。

 

 ……蹴散らすか。

 

 エスメラルダは敵に回したくないほどの強敵だ。俺が本気を出せば、まだなんとかなる。多分。おそらく。いや、なんとかなってくれ。

 

 もたもたして親父達が出張ってきたほうが最悪だ。親父達相手に、力ずくで出て行くのは不可能である。


 とりあえず、他の執事達はカミラに任せよう。


「カミラ、門までかけっこだ」

「はーい♪」


 カミラが無邪気に返事をする。この緊迫した状況でも、まったく動じていない。それが逆に恐ろしい。


「カミラ様、いけません」


 エスメラルダが前に出て制止してくる。そして、エスメラルダの指示で残りの執事達がカミラの行く手を遮ってきた。


 数十人の執事達が、カミラ一人を取り囲む。普通に考えれば、大人数対子供一人という、あまりにも不平等な構図だ。


 実際は逆かもしれない。


「おにいちゃん、どうすればいいー?」


 カミラが振り返る。その表情は、まるで新しい遊びのルールを聞くかのように無邪気だった。


 ああ、この子にとって、この状況も「遊び」の一種なのか。


「無理やり通るぞ」

「たべていいのー?」


 カミラの瞳が、一瞬だけ輝いた。それは期待の光だ。


「食べる?」

「うん、べる」


 ……殺すって意味なのだろう。


 なんだ、その欲望に直結した物言いは!

 殺しと人間の三大欲求を同列にすんじゃねぇえ!


 カミラにとって、殺人は本当に食事と同じレベルの基本的欲求なのだ。お腹が空いたからご飯を食べる。それと同じ感覚で、退屈だから人を殺す。


 この異常さを、俺はどうやって矯正すればいいのだろうか。

 

 すぐにカミラを教育したい。


 何度も言うように、今はまず家を出ることが先決だ。カミラの思想を指摘している場合じゃない。


 深く息を吸い、覚悟を決めた。


「わかった。べていいぞ」

「ほんとうー? パパたちにいつも使用人はたべちゃだめっていわれてるのに、いいんだねー?」


 カミラが目を輝かせて確認してくる。その表情は、お母さんにお菓子を食べてもいいと言われた子供のようだった。


「あぁ、いい。緊急事態だ。しょうがない」


 俺がそう答えた瞬間、カミラの雰囲気が一変した。


「わぁい! やったー!」


 カミラが小さく飛び跳ねる。その瞬間、周囲の執事達の間に戦慄が走った。


 彼らも、カミラの恐ろしさを知っているのだ。可愛らしい外見に騙されてはいけない。この少女は、マキシマムの血を引く天性の暗殺者なのだから。


 エスメラルダの表情も、わずかに強張った。SSランクの彼女でさえ、カミラを前にすると警戒を怠らない。


 さすがに手加減をして、この包囲網を突破できるとは思えない。


 カミラ、最後の仕事ころしになるだろう。


 本当は殺させたくないのだけど、これで最後だから。


 心の中で執事達に謝罪した。君たちは悪くない。ただ、主人の命令に従っただけだ。


 カミラを外の世界に連れ出すためには、どうしても通らなければならない道なのだ。


 カミラが、ゆっくりと執事達の方を向く。


 その小さな唇が、微かに弧を描いた。


 瞬間、執事達の顔が青ざめた。


 エスメラルダが、初めて声を荒げる。


「全員、最大警戒! カミラ様を甘く見るな!」


 もう遅い。


 カミラは既に、「遊び」を始める気になっていた。


 ああ、始まってしまう。


 俺たち兄妹の、長い夜が。

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