幸せの王子

銀冠

前編「食べるなら、僕を」

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「私の体は純金で覆われている」王子は言いました。「それを一枚一枚剥がして、貧しい人にあげておくれ。生きている人間たちは、黄金があれば幸せになれると考えているものだからね」


 ツバメは純金を一枚また一枚と剥がしていき、ついに、幸福の王子は完全に薄暗い灰色になりました。一枚また一枚と、貧しい人々に金を運ぶと、子供たちの顔は薔薇色になり、笑顔になって、通りで遊び始めるのでした。「ご飯の心配をしなくていいんだ!」みんなでそう叫びました。


(オスカー・ワイルド『幸福の王子』 訳 石波杏)


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 ジャパリとしょかんの階段の上。絵本を読んでいた僕はその手を止めて、屋根に開いた穴に顔を向けた。としょかんの周りを覆う森の木々から、一羽のツバメ(フレンズではない)が空へ上がっていく。僕は半ば無意識のうちにそれを目で追って……太陽をまともに見てしまって目が眩む。

 ――ああ、まただ。またあの感覚を思い出してしまう。


 ほんの数日前。僕はサーバルちゃんやラッキーさんと共に巨大セルリアンに立ち向かい、一度はそいつに食べられて、その後フレンズの皆に助け出された。食べられていた間のことについて、僕自身ははっきりとは覚えていない。後から博士の説明を受けて概要を知っているだけだ。

 けれど一つだけ覚えている感覚があった。僕の知っている言葉の中だと、一番近いのは多分『飢え』だと思う。綺麗なもの、輝くもの、きらきらした光が欲しいという底知れない渇き。

 ……あれは多分、僕自身の感覚ではない。僕を食べたセルリアンのものだ。


 博士の話では、僕はあのとき、ほとんどセルリアンに消化されかかっていたらしい。が感じていた飢えを、僕も我が事のように感じることができたのは、そのせいなのかもしれない。

 この飢餓感について、フレンズの皆には話していない。話したところで不安がらせるだけだろう。けれど……


「かばん、時間なのです。もう博士も下で待っていますよ」


 助手さんに声を掛けられて、はっと我に返る。そうだ、としょかんの本を自由に読ませてもらう代わりに新しいりょうり・・・・を作るという約束をしていたのだった。


「はーい、今行きまーす」


……………………



「なんなのですか、これは!? げほっ、げほっ! 本当に大丈夫なのですか!?」


「けむいのです! 火事になってしまうのです! 水をかけるのです!」


 慌てふためく博士と助手を制して、燻製器の上蓋を開ける。レシピ本に書いてある通りやったとはいえ、こんなにもくもく燻ってて大丈夫なのか僕自身も心配だったけれど……あ、大丈夫。こんがり小麦色になったチーズとナッツが、香ばしい匂いを漂わせている。スプーンでチーズを一掬い、ナッツをのせて口に運ぶ。よし、味もばっちりだ。


「もぐもぐ……ん、おいひい。らいりょうふへふよ」


 それを聞いた博士と助手の目の色が変わる。


「さっさとよこすのです! もっしゃもっしゃ……これは!? たまらないのです!!」


「口の中から鼻まで覆いつくすように香りが広がって……なんとも……」


 たくさん用意した燻製がみるみるうちに平らげられていく。美味しそうに食べてくれるのを見ると、作った側として誇らしい気持ちになる。けれど――


「きゅるるるる……」


 お腹が鳴った。そういえば僕、朝からさっきの一口以外何も食べてないんだった。


「んっく、んっく……かばん、どうしたのです。お前もこっちにきてお相伴にあずかるのです。おいしいものを食べてこその人生なのですよ」


「あ、はーい」


 博士に呼ばれて、僕は、ようやく今日の分のご飯を食べる気になった。




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「ずっと遠くに」音楽的な低い声で、像は続けました。「ずっと遠くに、小さな通りがあって、そこに貧しい家がある。窓がひとつ開いていて、テーブルの前に座っている女の人が見える。やせこけて疲れた様子で、赤く荒れた手は、縫い針のせいで傷だらけになっている。裁縫を仕事にしているんだ。いま、サテンのドレスに時計草の刺繍を入れている。今度の公式舞踏会で、女王様の侍女のうち一番かわいい子が着るドレスだ。部屋の隅のベッドには、幼い息子が病気で寝ている。熱があって、オレンジを食べたがってる。母親は川の水をあげることしかできないから、子供は泣いている。ああ、ツバメよ、ツバメよ、小さなツバメよ。私の剣の柄のルビーを外して、あの家に持って行ってくれないか。私の両足は、台座に打ち付けられていて動かない」


(同)


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 翌朝。僕はさばんなちほーを訪れた。大きなセルリアンに初めて立ち向かったゲート。サーバルちゃんに分けてもらったじゃぱりまんを生まれて初めて食べた木陰。たっぷり喉を潤した水場。そんな懐かしい場所を巡りながら、ラッキービースト(ラッキーさんとは別の)に貰ったじゃぱりまんを頬張った。


「もぐ、もぐ……」


 ラッキービーストは僕に食べ物を配ってくれる。それは僕がフレンズだから。かつてこのパークにいたというヒト・・が、フレンズに食べ物を配るようにラッキービーストを作ったから。


「あの、ラッキーさん……あっ」


 いつもの癖で右手に向かって話しかけてから、苦笑する。そう、いつもなら僕の右腕には、ベルトとレンズだけになってしまったラッキーさんが巻き付けてあるはずなのだ。けれど、昨日の夜としょかんに来たツチノコがラッキーさんに興味津々だったので、彼女に貸し出していた。


「ははは……」


 サーバルちゃんも最近、僕に内緒で何か企んでいるようで(バレバレなのが可愛らしい)、一緒に来てはいなかった。


「そっか……一人きりになるのって、生まれてすぐの時と、サーバルちゃんと一回お別れしたときと……だけ、だったっけ」


 そのことに思い至って、不意に心細くなってきた。あまり思い出さないようにしてきた生誕直後の一晩の記憶が浮かび上がってくる。自分が何者なのかも、何故ここにいるのかも分からず、ぺこぺこの腹と渇ききった喉の苦しみに(それが食事で解消可能だとも知らず、ただそういうものなのだと思いながら)翻弄され、空が暗くなっていくのに怯えて震えながら眠り、刺すような朝日に叩き起こされて当てもなく草原を歩き――そうして、この草原で、僕はサーバルちゃんと出会った。初めて他のフレンズと出会い、名前をもらって、僕は『かばんちゃんぼく』になった。


「食べないでください」


 最初にしたお話。喉を裂かれて喰われると思って必死に叫んだ言葉。もちろんサーバルちゃんはそんなことしなかったけれど。もしも、あの時出会ったのがフレンズではなかったら。腹をすかせた獣や、あるいは――セルリアンだったら。

 そんなことを考えていたときだった。


「あっ……」


 草々の切れ目から、小さなセルリアンが見えた。りんご2つ分ほどの背丈で、今まで見たことのあるどのセルリアンより小さい。きっと生まれて間もないのだろう。特徴的な一つ目がまだ開き切っていなかった。まだ真っ直ぐ歩くことすらおぼつかないようで、草と草の合間をこけつまろびつ這い進んでいた。


「……こっちにおいで」


 僕は地べたに座って、そのセルリアンを手元まで引き寄せた。こんな小さいセルリアンなら、何か不測の事態があっても独力で対処できるだろう。

『ヒトのフレンズである僕は、食べられても記憶と心を失わずに済むらしい。なら、僕が食べられて再生するのを繰り返せば、セルリアン達もお腹いっぱいになれるし、他のフレンズ達も襲われずに済むのではないか?』

 機会があれば試そうと思っていたその実験を、僕は実行に移すことにした。


「お腹がすいているの? じゃあ……食べるなら、僕を」


 そう囁きかけながら、右手の人差し指を差し出す。するとすぐに、セルリアンの口が指先に吸い付いてきた。粘液じみた彼の摂食器官が触れるところ全て、痛みではないどろりとした不快感に侵されていく。まるで僕自身の指までドロドロに溶けてしまうかのような――否、本当に溶けていた。彼の半透明の身体を通して見える僕の指が、みるみるうちに消えてなくなっていく……!


「ひっ!」


 僕は思わず左手で彼を掴み、引き離してしまった。そして震えながら、自分の右手を見た……彼に触れられた人差し指の第一関節が欠け、切断面は虹色の粘体となって輝いていた。


「あ、あ……」


 食べられてしまうことはどんなにか痛いだろう、苦しいだろう。覚悟していたつもりだった。つもりだったけれど。血も出ず痛みもない異様な傷口を見て、想定外のことに総身は震え、脂汗はだくだくと流れ、涙が止まらない。


(ああ、僕はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。このおかしな傷口はこの後どうなってしまうんだろう。この虹色の変なのはそのうち全身に広がって、僕は消えてなくなってしまうんじゃないだろうか)


 そんなことを考えていたとき。虹色の傷口からにょっきりと、指先が生えてきた。そこだけ手袋けがわが剥げて地肌が見えていることを除けばきれいに元通りだ。掌を結んで開いて、動かしてみる……動作も全く問題ない。


「これって……もしかして、成功?」


 僕はもう一度小さなセルリアンを抱き寄せ、今度は薬指と小指を差し出した。吸い付きの不快感に耐え、今度は二本の指を根元までくわえさせる。指が消化され虹色の粘体になるまで待ってから、今度は静かに彼を振り払う。

 そのまましばらく待っていると、やはり指は手袋のない状態で再生した。虹色の傷口からにょきにょきと指が生えてくる様はなかなかに肝の冷える光景だが、事前に分かっていれば耐えられないほどではない。


「きみ……まだ、お腹空いてる?」


 セルリアンに呼びかける。その言葉を解したかどうかは分からないが、彼は僕の足元にすがりつくような仕草を見せた。僕は思い切って、左手の拳全部を彼の口に含ませてみた。


「うっ……!」


 手首の先全てが溶けていく感触。痛みとも熱さとも違う、何とも言いようのない喪失感。それでも、後で元に戻ると分かっていれば我慢できる。後で元に戻ると……。


「……あれ?」


 さっき指を与えた時よりも治りが遅い。ぐずぐずと溶けた手首は十を数えても二十を数えてもいっこう治らず、百を数えた頃にようやく半分まで生えてきて……そこから後はスッと元に戻った。


「そうか、いっぺんに沢山あげすぎると治らなくなるんだ」


 僕が一人で納得している間、セルリアンはお腹いっぱいといった様子で僕の膝の上で寝っ転がっていた。――なんだかちょっと可愛らしい。




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 ツバメは一日中飛び続け、夜になって街に着きました。「どこへ泊まろうか」彼は言いました。「寝床の支度がどこかにできているといいな」


 そして、高い円柱の上の像を見つけました。


「あそこに泊まろう」彼は大きな声で言いました。「いい場所だ。新鮮な空気がいっぱいだもの」それでツバメは幸福の王子の両足の間に舞い降りました。


(同)


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 セルリアンに身体を食べさせるようになって七日目。小さかった彼の背丈は、僕の膝くらいの高さまで成長していた。体つきもしっかりしてきて、腕(と言っていいのかどうか分からないけれど、頭部の両脇にある可動部分)も器用に動かせるようになった。

 どれくらい器用かというと――石ころでお手玉ができるくらい。もう1個と2個のやり方はマスターしていて、これから3個に挑戦するところだ。


「こう、手元でくるっと……よっ、とっ、はっ」


 言葉が通じてるのかどうかは分からないけれど、こうして目の前でやってみせると、ちゃんと真似しようとしてくれる。丸い小石をひょいっ、ひょいっと……あ痛っ。お手本見せるはずの僕が失敗しちゃった。

 彼の方も同じようなタイミングで失敗したみたいで、小石が彼の頭のいし・・に当たって痛そうにしていた。


「ふふっ、大丈夫?」


 ぶつけたところをさすってあげる。以前は、セルリアンはみんな無表情で何を考えているのか分からない相手だと思っていた。でもこうして身近に接してみると、痛いときは痛そうだし、喜んでいるときは嬉しそうだし……こんなふうに足元にすり寄って甘えてきたりもする。


「お腹すいた? じゃあ、今日の遊びはここまでにしようか」


 いつもそうしているように地面に座り、彼を膝の上に乗せて指を差し出す。


「っ……」


 食べさせたところが溶けていく感覚にもすっかり慣れた。慣れてくると、日が進むにつれて彼の噛み付き方・・・・・が微妙に変わって、食欲が増えていってるのが分かる。

 初日に左拳全部をあげてしまったのは食べ過ぎだったみたいで、二日目からしばらくは指二本か三本くらいで満足していた。でも昨日一昨日からは、指五本くらいペロッと平らげてしまう。

 十分に食べた後は眠くなったようで、彼は僕の膝の上でコロンと丸くなってしまった。


「僕がいないあいだ、ちゃんと隠れててね。ハンターさんに見つからないように」


 岩場の影に作った隠れ家に彼をそっと寝かせてから、僕は火山に向けて出発した。



……………………



 セルリアンはフレンズの体内のサンドスターを食べているのだという。なら、僕自身がたくさんのサンドスターを摂取するような生活をすれば、もっと沢山ご飯をあげられるのではないか?

 そう考えた僕は、生活を少々改めてみた。食事の量を意識して増やしたり、あるちほーが曇っているときは晴れているちほーに移動して太陽光をなるべく長く浴びるようにしたり。中でも、火山に登ってサンドスター噴出孔で深呼吸するというのはその最たるものだ。


「あら、また会ったわね。今日も火口の様子を?」


 登山道の入り口に差し掛かったところで、トキさんに話しかけられた。フレンズの皆に対しては『火口のフィルターが無事かどうかの監視』という体をとっている。


「はい。もう日課になってるので」


「あなたが見てくれているお陰で、セルリアンも大きいのは出てこなくなって、皆感謝しているわ」


「あはは……」


 そのセルリアンに自分の身体を食べさせるために火口へ通っているのだと言ったら、どう思うだろうか。まるで皆を裏切っているように思えて、少し心が痛んだ。




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 ツバメは聖堂の塔を通り過ぎました。そこには白い大理石の天使が彫られていました。続いて宮殿のそばを通り過ぎるとき、舞踏会の音楽が聞こえてきました。バルコニーには、美しい女の子が恋人とともに出てきました。「なんて素晴らしい星空だろう」恋人が女の子に言いました。「そして愛の力はなんて素晴らしいんだろう」


(同)


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 セルリアンに身体を食べさせるようになって十四日目。

 今日は、彼を鞄に隠して高台の木の上に登ってみることにした。彼をずっと岩場の隠れ家に閉じ込めておくのもどうかと思ってのことだ。

 いつもより背中に気を遣いながらてっぺんまで登り、辺りを見回してみる――折よく、見渡す範囲にフレンズはほとんどいない。ずっと遠くにあまり目の良くないガラガラヘビさんがいるだけだ。


「出てきていいよ」


 鞄の口を開くと、荷物の中に埋もれていた小さなセルリアンがもそもそ這い出してきた。僕はそんな彼を肩の上に乗せて、樹上に直立した。


「あそこに見えてるのが、いつもいる岩場。草むらのあの辺が、初めて会った場所。……ふふ、覚えてないか。あっちはカバさんのいる水場だからあんまり近付いちゃ駄目だよ。向こうの、遠くに見えてるのがじゃんぐるちほーの入り口で、あっ、ちほーっていうのは……」


 本当はそれぞれの場所や他のちほーに直接連れて行ってあげたい気持ちもある……けれど、途中でセルリアンハンターに出会ったら。特に嗅覚鋭いリカオンさんとかに嗅ぎつけられたら……それを考えると簡単には連れ出せない。


「……ここから見える場所の説明はこれくらいかな。じゃ、また鞄に入って……」


 木から降りるため、彼を鞄の中に戻そうとしたとき。突風が吹き、僕の帽子がずり落ちた。


「あっ」


 手を伸ばそうとした刹那、彼が帽子のつば・・をはっしと掴んだ。


「ありがとう」


 僕が帽子を受け取ると、彼はくりんとした瞳をこっちに向けて、笑った――ような気がした。




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「幸福の王子様を見てごらんなさい」お母さんが落ち着いて、男の子にそう言いました。男の子は、無いものねだりをして泣いていたのです。「王子様は決して、何か欲しがって泣いたりしないでしょう?」


「この世の中にも本当に幸福な人がいるというのは、嬉しいことだね」落ち込んでいた人が、素晴らしい像を見つめながらつぶやきました。


「天使みたいだ」そう言いながら聖堂を出てきたのは、明るい緋色のマントを身につけ、真っ白なピナフォア・ドレスを着た、慈善学校の子供たちです。


「なぜ分かるのです?」数学の先生が言いました。「天使を見たことはないのに」


「うーん、でも分かるんです。私たち、夢で見ましたから!」子供たちがそう答えると、数学の先生は眉をひそめてとても厳しい顔になりました。子供が夢を見ることを好ましく思っていなかったからです。


(同)


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「かばんさん、そっちはどうっスか? 動かしても直角出てるっスか」


「大丈夫みたいです」


 今日はアメリカビーバーさんのところにお手伝いをしに来ている。最近のビーバーさんはいろいろなフレンズさんからものづくりや修繕を請け負って、代わりにじゃぱりまんを貰うという商売をしているらしい。

 今手掛けているのはジャガーさんが使っている筏の修理。で、どうせ直すなら向きを変えやすいよう舵をつけようという話になって、ずいぶん大掛かりな改良になってしまった。


「ありがとうございますかばんさん。助かったっスよ~…… 俺っち一人だとどうしても不安になってしまって、でもこういう細かいのはプレーリーさんには相談できないっスから……」


「いえ、こっちこそ勉強になりました」


 僕にはビーバーさんのように歯で木を削ることはできないけれど、としょかんの本で見た『彫刻』というのを試すことはできた。のみつちで木を削り、形を作る。我ながら初めてにしてはよくできたと思う。


「じゃあ約束通り、僕もこれ手伝ってもらっていいですか?」


 借りてきた彫刻の本を開いてビーバーに見せた。そのページにはヒトの腕をかたどった彫刻の写真があった。


「もちろんっス。ふんふん……この絵の腕はけっこう黒いっスけど、かばんさんの肌と同じ色のを作りたいんスよね? なら材料は犬槇イヌマキか梅がいいんじゃないかと思うっス。表面は……」




………………




「ただいま」


 岩場の隠れ家に戻ってきてみると、彼は床に並べた数本の枝とにらめっこしていた。この前、枝を使って足し算を教えてみようとしてあまりうまく行かなかったのだけれど、それ以来ずっとあの調子だ。

 彼の横に座って、持って帰った荷物を鞄から取り出した。何種類かの義手――指だけのもの、手首から先、それと将来必要になるかもしれない肘から先・二の腕・腕全体、のそれぞれ左右。手を彼に食べさせてから治るまでの間に他のフレンズさんと出くわした時のための保険だ。とはいえ、木目が消し切れていないのでけがわでうまくごまかす必要がある。

 それと、ビーバーさんから余分にもらったじゃぱりまん。以前だったら「彫刻の相談に乗ってもらったのだけで十分です」と言うところだけれど、食事の量を増やしたかったので素直にもらっておくことにした。


「もぐ、もぐ……」


 いろいろ試してみたものの、やっぱりセルリアンが僕らと同じじゃぱりまんや野菜や豆を食べることはできないみたいだ。フレンズが食べ物や水や空気からサンドスターを取り込んで、何か別の形に消化して、そのフレンズをセルリアンが食べる……という過程がどうしても必要らしい。

 黒い巨大セルリアンが松明の炎を食べているかのような仕草をしていたことがあったけれど、あれと同じことを彼に試してみるのは、今はまだ気が引ける。本当にあれで栄養を得られているのか分からないし、得られているとしても適量がどれくらいか分からない。ヒグマさんが「サンドスターを摂り過ぎたセルリアンは身体を維持できなくなって自滅する」と言っていたように、食べ過ぎはかえって害になるはずだ。


 ――そんなことをつらつら考えていたとき。彼が僕のほうに寄ってきて、肘をちょいちょいとつついてきた。


「あ、お腹がすいたんだね。ちょっと待って、すぐ……」


 手袋けがわを外してご飯に備えようとしたところ、どうやら彼の様子がいつもと違う。引っ張るような仕草をしてくる。かと思うとスッと離れて、地べたの枝の方に行って……枝をひょいひょいと動かし始めた。


「えっ……あっ、もしか……して?」


 1+1=2。3+2=5。4+7=11。それと……鞄の中のじゃぱりまんを引っ張り出して、枝の下に並べて対応させるみたいな仕草。これって……


「枝の5本とじゃぱりまん5個が、おんなじ『5』だって……そう言いたいの?」


 そこまではまだ教えてなかったのに。真ん丸で感情の見えない彼の瞳が、今はなんだか誇らしげに見える。


「すっ……ごーい!! すごーい! あはははは、すっごーい!」


 僕は嬉しさのあまり、彼を抱きかかえて転げ回った。何ならこのままさばんなちほー中を駆け回りたいくらいだった。




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「ツバメよ、ツバメよ、小さなツバメよ」王子は言いました。「ずっと遠く、町の向こう側に、屋根裏に住む若い男が見える。書類の束の積まれた机に突っ伏していて、そばにあるコップには枯れたスミレの束が挿してある。髪の毛は茶色で縮れていて、唇はざくろのように赤い。夢見るような大きな瞳を持っている。劇場の支配人のために脚本を書き上げようとしているが、寒すぎてもう何も書けない。暖炉に火は無く、空腹で気が遠くなり始めている」


「もう一晩、ここにいることにするよ」ツバメは言いました。本当に優しい心を持っていたのです。「ルビーを持っていこうか?」


「ああ、ルビーはもう無いんだ」王子は言いました。「私に残されているのはこの両目だけだ。千年前にインドからもたらされた、貴重なサファイアでできている。ひとつ抜き出して、若者のところに持って行っておくれ。それを宝石屋に売れば、食べ物や焚き木を買えるし、脚本を書き上げられるだろう」


「王子様」ツバメは言いました。「そんなことできない」そして泣き出しました。


「ツバメよ、ツバメよ、小さなツバメよ」王子は言いました。「言うとおりにしなさい」


 ツバメは王子の目を引き抜き、学生のいる屋根裏部屋へと飛んで行きました。屋根には穴があいていたので、入るのはいとも簡単でした。ツバメは穴をくぐり、部屋の中に飛び込みます。若い男は両手で頭を覆っていたので、羽ばたきの音は聞こえませんでした。彼が顔を上げると、枯れたスミレの上に、美しいサファイアが載っていました。


「僕もやっと認められてきたのか」彼は叫びました。「きっと、熱烈なファンからの贈り物だろう。これで脚本を書き上げられる」彼はとても幸せそうでした。


(同)


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 セルリアンに身体を食べさせるようになって二十日目。

 彼はもう僕の股下くらいの背丈まで成長していた。僕の鞄に入りきらないほどの大きさ、最初に用意した岩場の隠れ家が手狭になる大きさ、さばんなちほーの背高の草でも隠れられないほどの大きさに。

 だからそろそろ、セルリアンハンターから身を守るための逃げ方、隠れ方を教えてあげる必要がある。そう思って、数日前から狩りごっこやかくれんぼをしていたのだけれど……


「どこ行っちゃったんだろう」


 土砂降りの雨の中で、僕は彼を探し回っていた。迂闊うかつだった……彼がうまく隠れすぎて見つけられなくなる、という事態も想定していなかったし、さばんなちほーの雨の激しさ、天気の急変の速さも分かっていなかった。サーバルちゃんやカバさんから話に聞いてはいたものの、こんなにひどいだなんて。

 そして何より……こんなとき、呼びかけるための名前を、僕はまだ彼にあげていなかった。一応、考えてはいたのだけれど。


「セーバルちゃん!!」


 僕がサーバルちゃんと初めて出会ったのと同じ場所で出会ったセルリアン。だから、セーバル。あまりにも安直な名前で、もっと良い名前があるんじゃないか、明日にはもっと素敵なのを思いつくんじゃないかと思って、命名を延ばし延ばしにしていた。

 でも今はもう、そんな悠長なことは言っていられない。喉が張り裂けんばかりに叫びながら、彼のいそうな場所を回る。水分を含んだ草と泥濘は重く重く足を取り、いつもひょいっと登れる坂が一命を落としかねないドロドロの崖となり、普段なんということはない小川も濁流と化して進路を阻み、一足で跨げるはずの地の裂け目も決死の覚悟で跳び越えるべきクレバスとなる。

 そうして何時間探し歩いただろうか。ある大きな木のうろの中で、びしょ濡れになって震えているセーバルをようやく発見できた。


「ああ、良かっ……」


 良くなんてなかった。木のうろの中は天然の水樋のようになって雨水が流れ続けており、セーバルはその水を長時間浴びてしまっていた。身体をうまく動かせないらしい。しかも――目が、濁っている。白目と黒目がくっきり分かれているはずの瞳が、泥水と同じ茶色に濁ってしまっている。

 僕はセーバルを抱えて、大急ぎで屋根のある場所バス停跡地まで走っていった。



……………………



 上のけがわを脱いでギュッと絞って、布巾代わりにする。こんなことになるならジャパリカフェに行ったとき布巾を一枚貰っておけばよかったと思いながら、セーバルの身体を拭いてあげる。

 どうやら身体に入った水分を少しずつ排出しているようで、拭いたあとしばらくするとまたびっしょりと濡れる。そんなことを何回も何十回も繰り返すうちに、セーバルの身体に段々と精気が戻ってきたようだ。


「セーバルちゃん……」


 薬指をセーバルの口に含ませてやると、いつもより弱々しくゆっくりだけれども、溶かして食べていく感触があった。なんとか峠は越したらしい。頭のいし・・を撫でてあげたら、甘えるように身を寄せてきた。けれど……


「やっぱり、見えてないんだね……」


 普段なら動くものに敏感に反応するはずの目玉は、目の前で何を動かしても反応がない。思い切って『叩くようなそぶりをして寸止め』というのもやってみたけれど無反応だった。やっぱりもう、セーバルの瞳は光を失ってしまっている。

 そのとき、僕の頭の中には、としょかんで読んだあの本の一節が思い浮かんでいた。


「私に残されているのはこの両目だけだ。ひとつ抜き出して、若者のところに持って行っておくれ」――


 僕は迷わず、セーバルの口のところに自分の右目を押し付けた。これで彼の目が治るかどうかなんてわからないし、僕の目が指と同じように再生してくれる保証もないけれど……そうせずにはいられなかった。


「うっ……! ぐっ……!」


 すぐに瞼が溶け、目を閉じることができなくなった。セーバルの体内の、普段見えない細かな体組織が鮮やかに目に映った。と思ったのも束の間。視界がにじみ、歪み、ぐにゃりと溶けていき――言葉で名状できない衝撃が、僕の心を襲った。


「うあ……!!! ぁ……!!」


 視神経つながっているところを通じて、セーバルのこころ・・・が流れ込んでくる。

 ひもじい、うごけない、こわい、おいしい、うれしい、おなかいっぱい、ねむい、びっくりした、いたい、くやしい、さみしい、わからない、くやしい、わからない、くやしい、わかった、ほこらしい、わくわく、たのしい、さみしい、いたい、くるしい、とってもうれしい……


「ひぃ……!! うぇぇっ……!」


 自分が自分ではなくなってしまう。自分ではない誰か、あるいは誰でもないもの・・になってしまう。消えてなくなってしまいそう。この感触を、僕は知っている。前にも経験したことがある。はっきりと思い出した。あの黒いセルリアンに食べられたとき。


「えげっ……!! ぐぅぃぃ……!!!」


 何か小さいけもの・・・が足元にしがみついている。鬱陶しい。振り払おうとしたら……背中が痛い。沢山のけもの・・・が寄ってくる。足が痛い。腿が痛い。振り払えない。痛い。水をかけられて熱い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い……


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ゛っ゛っ゛!!!」


 恐怖の記憶と沢山の感情とを叩きつけられて、僕の意識は飛んでいった。




===


 幸福の王子の両目から涙があふれ、金色の頬を伝っていました。その顔は月光に照らされてとても美しく、小さなツバメは心から気の毒な気持ちになりました。


「あなたは誰?」ツバメは言いました。


「私は幸福の王子」


「どうして泣いているの?」ツバメは尋ねました。「僕はもうびしょ濡れだよ」


「私がまだ生きていて、人の心を持っていた頃には」像は答えました。「私は涙なんて知らなかった。私は無憂サンスーシ宮殿で暮らしていて、そこに悲しみが忍び込む隙はなかったんだ。昼間には庭園で友達と遊び、晩には大広間でダンスをした。庭園はとても高い塀に囲まれていたけれど、その向こうに何があるか尋ねようとも思わなかった。私のまわりの全てが美しかった。廷臣たちは私のことを幸福の王子と呼んだ。そして実際、私は幸福だった。楽しく暮らすことが幸福なのだとすればね。私はそうして生きて、死んだ。死んだ後に、みんなは私をこの高い所に置いたんだ。ここにいると、この町のあらゆる醜さとあらゆる悲しみが見えてしまう。私の心臓は鉛でできているのに、涙をこらえることができないんだ」


(同)


===




「……ヵばんちゃん、かばんちゃん!!」


 忘れもしない一番の親友の呼び掛けで、僕は目を覚ました。


「ぅ……サーバルちゃん……? あ痛てっ!」


「う゛っ゛」


 起き上がった拍子、サーバルちゃんとの距離を見誤っておでこをぶつけた。


「うぐぐ……ごめんサーバルちゃん、大丈夫?」


「わたしは大丈夫だよ、かばんちゃんこそ大丈夫なの」


「え……」


 言われてみて、自分で右目を触ってみた……右目は、ある。すくなくとも触覚上は。だけど……右目と左目をそれぞれパチパチしてみた。左目は問題ないが、右目の視界がかなりぼやけている。目の前にいるサーバルちゃんが「ネコ科っぽいフレンズ」になってしまう程度の視力だ。

 ふらふらと立ち上がって、近くの水たまり(雨は既に止んで水面は凪いでいた)を水鏡に自分の姿を確認した。上半身裸で、他の部分のけがわも傷だらけのボロボロ。僕とサーバルちゃんの立場が逆だったら心配でたまらなくなるだろう。


「一体どうしたのかばんちゃん? セルリアンに襲われたの?」


「セルリアン……」


 そうだ。セーバルはどうなった? 近くには……いない。まさか、サーバルちゃんの手に掛かって……!


「サーバルちゃん、僕が倒れてたところの近くにセルリアンがいなかった?」


「えっ、いなかったよ」


 僕は「はあーーーーーっ」と大きな溜息をついて、その場に座り込んでしまった。まだ無事かどうか確証は持てないけれど、セーバルは雨が止んだあと『隠れないといけない』と自分で判断して、自力で移動することができたということだ。


「かばんちゃん、本当にどうしちゃったの?」


 サーバルちゃんはそう言いながら、ラッキーさんを僕の右手に巻き付けた。


「ピピピピピピピ……体温38.4度、心拍数88bpm、血圧71-99mmHg。発熱、風邪様ノ症状ガミラレル」


 風邪様の症状。ラッキーさんにそう言われた途端、急に寒気がして「へっくし」とくしゃみが出た。


「かばんちゃん!? うぅ~、えーっと、わたしの毛皮って外せるんだよね……」


 サーバルちゃんが慣れない手つきでけがわを外して僕に掛けてくれた。


「ありがとう、でもそれじゃサーバルちゃんが寒く……」


「かばんちゃんの方が寒いでしょ! いいからあったかくして!」


「あはは……」


 といったやり取りをしている間に、何体ものラッキービーストが周囲に集まってきた。


「うわぁ、ボスがいっぱいきたー!」


 驚くサーバルちゃんを尻目に、ラッキービースト達は僕を取り囲み、胴上げみたいな要領で持ち上げてしまった。


「ふぇっ!?」


 そしてそのまま、どんどん僕をどこかへ運んでいく。


「ピーッ、ピーッ。人命ニ関ワル事態ニツキ、ゆうえんち救護所ニ緊急搬送スルヨ」


 サーバルちゃんもラッキーさんも僕を助けようとしてくれて、心底ありがたい。ありがたいけれど……これからどうしよう。セーバルを探しに行こうにも、しばらく単独行動は許してもらえそうにない。いっそサーバルちゃんとラッキーさんにはセーバルのことを話してしまおうか……でも……

 などと迷っている間に、全身をだるさが襲ってきた。いや、実際にはさっき目覚めたときからずっとしんどかったのに、自覚出来ていなかったのだ。

 雲の切れ間から穏やかな日差しが差し込んでくる。ゆるやかに吹く風も適度に湿気を含んで暖かい。ラッキービースト達の胴上げ動作が与えてくる振動。それら全部に後押しされて、僕はふたたび眠りに落ちてしまった。




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 ツバメが川を通りかかると、船のマストにかけられたランタンが見えました。ユダヤ人街を通ったときには、年をとったユダヤ人同士が商いをしていて、銅の秤でお金を計っていました。やっと目的の貧しい家にたどり着くと、ツバメは中を覗きました。男の子はベッドで高熱でうなされて寝返りを打っており、母親はとても疲れて眠りこけていました。ツバメは中に飛び入って、テーブルの上にある母親の指ぬきのとなりに、大きなルビーを置きました。それからベッドのまわりを優しく飛び、翼で男の子の額に風を送ってあげました。「ああ涼しい」男の子は言いました。そして、「きっと良くなってきたんだ」と言いながら、心地よい眠りに落ちていきました。


 ツバメは幸福の王子のもとへ帰り、してきたことを報告しました。「変だなあ」ツバメは言いました。「こんなに寒いのに、とても暖かい気がする」


「それは良い行いをしたからだよ」王子は言いました。小さなツバメは考え始めましたが、そのうち眠ってしまいました。ものを考えるといつも眠くなってしまうのです。


(同)


===




 セーバルに出会ってから二十四日目の夜。ゆうえんちの中の救護所?という場所に運び込まれた僕は、三日三晩たくさんのラッキービーストに色々な処置をされて、ようやく元気を取り戻した。その三日の間、たくさんのフレンズさんたちも入れ替わり立ち替わりお見舞いに来てくれた。


「これねぇ葛根湯かっこんとう?って言うんだってぇ~ツチノコが遺跡から見つけてきてくれたのぉ、風邪によぉぉっぐ効くってハカセも言っでたゆぉ」


「うちのロッジで一番いい枕とお布団持ってきました。タイリクオオカミさんから応援の書き下ろし原稿も預かっています」


「携帯ゲーム機。寝るしかなくて暇なときの最終兵器だよ。後でちゃんと返してね」


「陣中見舞いだ。我々一同お前の回復を心から祈っているぞ。はっはっは! なに? こういう時は陣中見舞いとは言わない?」


「よく眠れるように子守歌を歌ってあげるわ。えっ、今は眠くないから後でいい?」


 そんな大騒ぎもようやく落ち着いて、みんなそれぞれの棲み処に帰って……病室は僕とラッキーさん、そしてサーバルちゃんの三人だけになった。


「……ねえかばんちゃん、どこか痛いところ無い? 寒くない? お腹は?」


「あはは、もう大丈夫だよ。ほら元気、元気」


 笑顔を作って腕を振って見せる。……自分でもあまり元気なフリをできた気はしない。身体は完全に回復したと思う、でも……セーバルのことがずっと気に掛かっていた。


「じゃあ、この前、」


 さらに質問を継ごうとしたサーバルちゃんを遮って、僕の方から質問した。


「僕以外の他のフレンズさんが風邪をひいたとき、同じように運ばれて治療を受けたりするの?」


 サーバルちゃんに向けたつもりの問いかけに、答えたのはラッキーさんだった。


「ボクラハぱーく本来ノ自然状態ニナルベク干渉シナイヨウ設定サレテイルヨ」


「やっぱり、ヒト・・だけなんですね」


 ヒトのフレンズである僕は、ただ寝ているだけで食べ物がもらえる。馬鹿なことをして怪我しても病気をしてもラッキーさん達から治療を受けられる。沢山のフレンズにお見舞いに来てもらって、沢山の優しさと元気をもらえる。


「ああ――」


 僕は深いため息をつきながら、ベッドから身を起こして窓の外の月を見つめた。まず両目で。次に左目だけで。そして――まだ少しだけ視力の劣る右目で、ぼやけた朧月を見つめた。

 セーバルも同じ月を見ているだろうか。四日間の絶食に耐えられているだろうか、それとも飢えを満たすためにフレンズを襲っているだろうか。あるいはもう――


「かばんちゃん、やっぱり何かおかしいよ! どうしちゃったの!? なんで怪我したの!? どうして何も教えてくれないの!!」

 サーバルちゃんが、とうとう我慢の限界といった様子で詰め寄ってきた。こんなに心配させてしまって、本当に申し訳ないと思っている。……だけど。


「ごめん。本当にごめん。やっぱりサーバルちゃんには言えない」


 セルリアンにもこころ・・・があるのだと。良いことがあったら嬉しくて、嫌なことがあったら悲しくて、叩かれたら痛くてお腹がすいたらひもじい生き物なのだと知ってしまったら。優しいサーバルちゃんはきっと、セルリアンと戦ったり逃げたりできなくなってしまう。

 どうかすると、僕がやったみたいにセルリアンに身体の一部をあげてしまうかもしれない。ヒトのフレンズであり、食べられても記憶と心を失いにくいはずの僕でさえ、加減を誤った末あんなことになったのだ。いわんやサーバルちゃんでは。


「かばんちゃん、教えてよ」


 なおも食い下がるサーバルちゃんに、僕はちょっと卑怯な反論をした。


「サーバルちゃんも、僕に何か隠してるんでしょ。としょかんやゆうえんちやみずべちほーで、他のフレンズさんと相談しながら何か企んでる」


「えっ、それは……あ、あのね、私たちかばんちゃんのために、」


 自分の秘密をバラすことで僕の秘密も聞き出そうというつもりだろう。とっても正直で素直で、優しいサーバルちゃん。僕はそんな親友を卑怯な詭弁で黙らせる。


「言わなくていいよ。僕のために何か、秘密で計画してくれてるんだよね。……僕もだよ。フレンズのみんなが安全に安心して暮らせるように、一つ実験しているんだ」


 それは半分本当だけど、半分嘘。確かに最初は『僕がセルリアンに食べられて再生するのを繰り返せば、他のフレンズが安全になるのでは』という実験だった。あのセルリアン・・・・・・・のことだって、実験台みたいに思ってた部分があった。けれども今の僕は、居ても立ってもいられないくらいにセーバルを心配している。


「だから、ごめん。もう一回だけ心配をかけさせて」


 言いながら僕は、右腕のラッキーさんを外してサーバルちゃんに渡した。……渡そうとした、そのとき。


「暫定ぱーくがいど・カバン。ぱーくノ非常事態デナイ時ニ、人命ヲ危険ニ晒ス行為ハ容認デキマセン」


 以前、山頂で僕を止めようとしたときと同じ赤い光を発しながら、ラッキーさんが抗議の声を上げた。


「分かってますラッキーさん。自分の命を犠牲にするつもりはないし、三日前みたいな失敗はもうしません。……サーバルちゃん、ラッキーさんをお願い」


 今度こそラッキーさんをサーバルちゃんに渡して、僕はベッドの柱に掛けてあった帽子を深くかぶりこむ。


「かばんちゃん……絶対、元気で帰ってきてね……」


 消え入りそうなサーバルちゃんの懇願に後ろ髪をひかれながら、一方ではやる気持ちに前髪を引っ張られて、僕は救護室を後にした。




………………




 煌々と満月が照らすさばんなちほー。

 岩場の隠れ家にセーバルはいなかった。初めて会った草原の周りにも、以前登った高台の木にも、かくれんぼの時使った大木の洞にも。

 しばらく捜し歩いたあと、僕は『岩場の近くで火を焚き、少し離れた場所に隠れてそれを監視する』という手段に出ることにした。セルリアンは火の輝きに惹かれる。こうして火を焚けば、セーバルも現れてくれるかもしれない。――まだ生きていればの話だが。


 およそ二十分後。セーバルとは別のセルリアンが現れて、焚き火を食べてしまった。少し場所を変えて同じことをする。――同じように別のセルリアンが食べてしまった。

 ……考えてみると不安になってきた。僕はセルリアンがどんな風に成長するかを知らない。もしも成長過程で、芋虫がさなぎになり蝶になるような大きな変化をするとしたら、セーバルは僕の知らない全然別の姿になっているかもしれない。

 そんな不安にさいなまれながら十七回目の焚き火をつけて、隠れようとした瞬間。近くの草むらから、拍子抜けするほどあっさりと、セーバルが飛び出してきた。見間違いの心配は完全に杞憂だった――外見もほとんど変わってないし、何より、あのとき布巾代わりにした僕の上着を大事に持ってくれていたのだ。


「セーバルちゃん!」


 叫びながら駆け寄ると、いつもみたいに足元にすり寄って甘えてくれた。心配だった目玉もちゃんと元通りになっている。


「ああ、よかった、本当によかった……」


 手袋を外すいとまも惜しんで左手を食べさせた。指が溶けていく感触が本当に懐かしくて、嬉しくて、反対の手で夢中になってセーバルのいし・・を撫でた。

 そうやって、僕がぐすぐす泣きながら再会を喜んでいたとき。後ろで焚きっぱなしにしていた火がフッと消えた。


「あ……」


 振り返ってみると、セーバルより一回り小さな(七日目のセーバルと同じくらいの)セルリアンが焚き火を食べ、煙を立てる炭を舐めていた。その子は全ての残り火を舐めつくすと、かぶりを上げて、飢えた瞳を僕の方に向けた。


「……ごめんね」


 僕はセーバルを抱えて、その子の前から立ち去った。残念だけれど、今の僕にはセーバル一人・・を養うのが精一杯だ。




………………




 次の日、僕は少しだけサーバルちゃんのところに顔を出して無事を報告した後、一日中セーバルと一緒に過ごした。僕自身が一緒にいてあげたかったというのもあるし、火のことについて確認もしておきたかった。

 昨日の夜、僕は結果的に、何人ものセルリアンに焚き火の炎を食べさせることになった。サンプル数が少ないとはいえ、そこから推測できるのは――少なくとも短期的には、火を食べさせて害になることはない。


「どう? お腹いっぱいになりそう?」


 煙で他のフレンズさんに気付かれる可能性に注意しながら、炎の大きさ・燃やす材質などを色々に変えて、セーバルの反応を見てみた。どうやら好みの違いがあるようで、一番好むのは僕やフレンズさんのけがわの火だった。せっかく陣中見舞いでもらった頭巾を燃やしちゃってごめんと心の中でパンサーカメレオンさんに謝った。次に良い反応だったのはゴムだ。僕自身はゴムの煙の臭いに耐えられなかったけれど、セーバルは平気で近付いて美味しそうに平らげた。紙や布といった燃料はまあそこそこの食いつきといったところで、枯草や枯れ枝・木屑のような自然にある燃料は他のものより風味が劣るらしい。

 そして肝心の『飢えを満たせるか?』という点では――残念ながら駄目だった。セーバルにどんなに炎を食べさせても、僕の手を食べる量は減らなかった。成長で食事量が増える分を相殺すらできなさそうだ。炎はセルリアンの栄養になっていないか、なっているとしてもごくわずかだ。炎だけでセルリアン達を満腹させようと思ったら、島中の草木を燃やし尽くしても足りないだろう。


「そっか……だめかー」


 万策尽きた僕はセーバルの隣に寝っ転がった。僕自身の身体ではセーバルを養うだけで限界で、それすらいつまで続けられるか分からない。かといって他のフレンズさんに同じことをさせるのは危険すぎる。ああ、こんなことなら――


ヒト・・がもっとたくさんいたら、どうにかなるのかな」


 僕と同じようなヒト。博士の話やとしょかんの本によると、昔この世界にはヒトが七十億人もいたという。そこまで贅沢は言わなくとも、セルリアン達の二倍か三倍くらいの数のヒトがいてくれたら、セルリアン達みんなお腹いっぱい食べられるようになって、フレンズのみんなも安全になるのに。


「……セルリアンってどれくらいいるのかな」


 さすがに一億や二億もはいないはずだが、正確に数える方法が何かあるだろうか。以前さばくちほーの『めいきゅう』やゆきやまちほーで出会った群れを思い浮かべてみたものの、細かい数なんて分からない。


「うーん……うーん……」


 僕がうんうん唸りながら転げ回っていると、セーバルが心配してか寄り添ってくれた。


「ごめんね心配かけて。……セーバルともお話できたらいいのにな」


 セーバルはほぼ確実に僕の言葉を理解してくれているけど、喋ることはできない。仕草とか、身体の特定の場所を触る符丁なんかである程度のコミュニケーションを取るのが精一杯だ。……『目を食べさせる』という最後の手段があるのはこの前分かったけれど、あれはさすがによっぽどの事がない限りやりたくない。

 あともう一つ……絵や文字を使ったやり取りができないかなと、ぼんやりとは思っている。ただ問題は、どうやって教えてあげたらいいのかということだ。僕は文字が読めるけれど、初めて文字を見たときから当たり前に読めていたから、「文字って何? 読むって何? どうやるの?」と聞かれても答えることができない。その辺は、後から頑張って文字を覚えたらしい博士や助手やタイリクオオカミさんに聞いた方がいいのかもしれない。


「どうしようかな……やっぱりセーバルちゃんのこと話そうかな……でもなぁ……」


 答えの出ない悩みに唸りながら、一日が過ぎていった。




===


「下の広場に」幸福の王子は言いました。「小さなマッチ売りの少女が立っている。彼女はマッチを溝に落としてしまい、全て駄目にしてしまった。お金を持って帰らないと、父親にぶたれるだろう。それで彼女は泣いている。靴も靴下も履いていないし、頭にも何もかぶっていない。私の目を抜き出して、持って行っておくれ。そうすれば父親はあの子をぶたないだろう」


「もう一晩、ここにいることにするよ」ツバメは言いました。「でも目を引き抜くことはできない。そんなことをしたら、何も見えなくなってしまうよ」


「ツバメよ、ツバメよ、小さなツバメよ」王子は言いました。「言うとおりにしなさい」


 ツバメは王子の目を引き抜いて、それを持って飛んで行きました。そしてマッチ売りの少女のそばをかすめて飛びながら、少女の手の中に宝石を滑り込ませました。「なんてきれいなガラスでしょう」少女は言いました。そして笑顔で、走って家へと帰りました。


 ツバメは王子の元に戻りました。「何も見えないよね」ツバメは言いました。「だから、ずっと一緒にいることにするよ」


「それはいけない、小さなツバメよ」哀れな王子は言いました。「エジプトに行きなさい」


「ずっと一緒にいるよ」ツバメは言いました。そして王子の足下で眠りました。


(同)


===




 セーバルと出会って三十日目の夜。

 僕がうだうだと悩んでいる間にも、セーバルの身体はどんどん成長していく。

 彼の背丈はもう僕の腰のあたりまで伸びていて、腕を上方に伸ばせば顔に届くくらいになった。比例して食事の量も増え続けて、今では腕一本与えてようやく腹八分目、足をいくらかあげないと満腹できない様子だ。

 そしてもちろん、与える量が多いほど、僕の方の回復に掛かる時間も延びた。二時間から長いと三時間くらいはかかる。


「明日は一日中出かけてくるし、ご飯もあげられないから、今のうちにたくさん食べておいてね」


 なるべく自然な笑顔を心がけてみたけれど、ちゃんと笑えてるだろうか。


(僕はいつまでセーバルと一緒にいられるだろう。あと一月か、二十日か、それとも十日か)


 『自分の命を犠牲にはしない』ラッキーさんとそう約束した。目玉のときみたいになりかねない以上、手足以外をあげるわけにはいかない。そうなると、やっぱり僕一人ではそう遠くないうちに限界が来る。――何らかの形で、セーバルとお別れ・・・しないといけない。


(……そのことを考えるのは明後日からにしよう。明日は大事なパーティなんだから)


 そう、明日はフレンズのみんなが『僕の正体がわかった記念+巨大セルリアンをやっつけた記念』のパーティを開いてくれるのだ。みんなを心配させたくないし、僕自身も精一杯楽しみたい。将来の事は一旦棚上げにしよう。




……………………




 一日がかりの長いパーティの最後。サーバルちゃんが用意してくれたサプライズプレゼントは、まさに渡りに船だった。バスを改造して外洋に出られるよう設えられたふね・・

 僕は親友の名を呼び、力一杯抱きしめた。


「サーバルちゃんっ!」


 島の外へ旅に出て、ヒトのなわばりを探す。それは、僕が自分の正体を知り・この島に限りがあることを知って以降、ずっとやりたいと願っていた夢だった。黒セルリアンとの戦いで船を犠牲にしたとき、一旦は諦めた夢だった。それが今、思わぬ形で実現しようとしている。


「ハンドルを回すと、こう、下の舵もクイッと動いて……こんな感じッス。いやー、ちゃんとした舵作るの大変だったッスよ。外の海だとやっぱり川の中のときより頑丈じゃないと駄目スから……」


 いつも心配性のアメリカビーバーさんが、今回ばかりは自信満々といった様子で機能を説明してくれる。よほど試行錯誤を重ねたのだろう。


「ぴっかぴかのまんまるはアライさんとフェネックが見つけてきたのだ! アライさんにもせつめい・・・・させるのだ!」


「まぁまぁここは専門家に華を譲ろうよアライさん」


 バス修理用の部品を探してくれたらしい二人も、どかどかとバス船に乗り込んできた。屋根の上には博士と助手が座っている。


「いまPPPの五人が、余分のじゃぱりまんを探しにいっているのです。早ければ十日後にも出発の準備が調ととのうのです」


「我々も『くんせい』を作っているのです。名残惜しいですが、一番よくできたやつを旅の餞別にくれてやるのです」


 すました顔で言う博士たちに「実際作るのは私だけどな」と付け加えるヒグマさん。ああ、本当に至れり尽くせりだ。


「ありがとう……ありがとうございます、みなさん」


 涙でえずきながら、僕はみんなにお礼を言って回った。嬉しくてたまらない。これで島の外へ旅に出られる。

 ……だけど。


 この涙の理由が喜びだけではないということを、僕は皆に隠しきれただろうか。




===


 次の日、ツバメは王子の肩にとまって、これまでに色々な土地で見てきた面白いことを一日中 王子に話して聞かせました。赤いトキが、ナイルの河岸にずらっと並んで立ち、くちばしで黄金の魚を捕まえること。スフィンクスは世界の誕生と同じくらい昔から生きていて、砂漠で暮らし、何でも知っていること。商人たちはラクダと一緒にゆっくりと歩き、いつも両手に琥珀の数珠を持っていること。ナイルの源流がある「月の山脈」の王様は、黒檀のように黒い肌で、大きな水晶を拝んでいること。緑色の大蛇が、椰子の木の中で眠っていて、二十人の僧侶から蜂蜜ケーキをもらって食べていること。ピグミー族たちが、大きな葉っぱに乗って広い湖を渡り、いつも蝶々と戦争をしていること。


(同)


===




 セーバルと出会って三十二日目。旅立ちを十日後に控えた日。


「セーバルちゃん。もしセーバルちゃんが嫌じゃなかったら……おでかけしようか。ちょっと……いや、けっこう長いおでかけ」




……………………




 僕はさばんなちほーの隠れ家からセーバルを連れ出し、パークの色々なところを巡った。


 ――じゃんぐるの鬱蒼とした木々と、じめっとした空気。こうざんでは美しい御来光と見晴らしを楽しんだ。下山途中、麓で野外ライブしていたPPPのステージを上から無賃視聴できたのはとても幸運だった。さばくちほーでは砂のキャンパスでお絵かきを満喫し、こはんの地面の穴(九割方プレーリーさんが掘ったものだろう)ではもぐらたたきごっこをした。へいげんちほーでは、ちょっとした策でライオンさんとヘラジカさんに家来ごと他所に行ってもらい、僕とセーバルが一日城主になった。としょかん……にセーバルを連れ込むのは流石に無理で、それどころかヒグマさんにセーバルのことがバレそうになって冷汗をかいた。ゆきやまで初めて雪に触れたときのセーバルの様子(びっくり→逃げる→おそるおそるもう一回触る→慣れてしまうと夢中に)は本当に可愛らしかった。温泉の湯はセルリアンには毒になるんじゃないかと心配だったけれど、ほんの微量であればむしろクセになる刺激みたいだ。セーバルを隠したままこっそりロッジでお泊りするためのトリックを絞り出すのには、かなり頭をひねった。ここでも危うくタイリクオオカミさんにバレそうになったけれど、アミメキリンさんの自覚なきサポートのお陰で難を逃れた。


 セーバルにいろんなものを見せてあげたかった。楽しいこと、面白いこと、興味深いこと。きれいなもの、雄大なもの、ちょっとヘンなもの。僕がこの世界で体験させてもらった素敵なこと全部、セーバルにも体験させてあげたかった。

 そして――




……………………




 セーバルと出会って四十一日目。旅立ちの前日。


「ここが『かざん』。この火口からサンドスターが飛び出して、それが当たったもの・・がフレンズになったり、セルリアンとして生まれたりする……んだって」


 おでかけ・・・・の終着点。日程的にも旅程的にも、もう他の場所には行けそうもない。

 僕はここで最後の希望にすがるつもりでいた。火山の火口からサンドスターが噴出しているのなら、それをセーバルに直接食べさせることができるのではないか? と。

 火口縁のうち一番低い地点に立ち、火口へ向けて縄梯子(旅先で使う用としてトキさん達が用意してくれたもの)を降ろし、片方の端を地面にしっかり固定する。その準備が済んでから、鞄を置いてセーバルを背負った。


「セーバルちゃん、しっかり掴まっててね」


 肩に掛かったずっしりとした重みに、セーバルの成長を実感して、しばらく感慨にふけった。


「……じゃ、降りるよ」


 足を滑らせないよう慎重に、一歩一歩、虹色の輝きの只中へ降りていく。なんだか自分の身体がぼやけていくような、茫洋とした感覚がしてくる。シャキッとさせようと自分で自分の頬をはたいて、さらにもう一歩二歩と降りていく。


 ――そうして五十歩ほども降りたころ。背中のセーバルが、僕の後頭部をぺちぺちと軽くたたいた。この叩き方は……『ちょっと』『イヤ』の符丁だ。


「セーバルちゃん、辛い? もう止めた方がいい?」


 ぺちぺち。――『いいえ』。『まだ』『がまんする』。


「わかった。ごめんね、もうちょっと頑張ってね」


 さらに十歩、二十歩と降りていく。虹色の霧が濃くなり、深く息を吸い込むと眠くなってしまう。僕はなるべく浅い呼吸を心がけ、ときどき岩の角で額や手の甲をこすって痛みで意識を維持する。

 と、ここで、セーバルがまた背中を叩いた。――『とても』『つらい』。


「セーバルちゃん!?」


 首を傾けてセーバルの様子を見る。外見上は特に変わったところはない……が、また頬を叩いて苦痛を訴えてくる。

 これでは、火口の底まで降りてサンドスターを食べるどころの話ではない。僕は諦めて火口縁に戻ることにした。




……………………




 火口縁に戻ってしばらく休憩すると、セーバルはまた元気になった。むしろ僕の方が、なかなか疲れが抜けなくてしんどいくらいだ。


「ごめんセーバルちゃん、身体、大丈夫?」


 いし・・を撫でてあげると、いつもみたいにすり寄って甘えてきた。そしてそのまま、くりんとした瞳を僕の顔に向けてくる――お腹が空いたときの仕草だ。


「……うん、いっぱい食べて。今日は頑張って我慢してくれたもんね」


 セーバルの食事の量は減らなかった。両腕と左足、それから右足の膝下まで。火口内で生のサンドスターに触れることは、セーバルのお腹を満たす役には立たなかった。


「そっかー……やっぱり、そうかー……」


 分かり切っていたことだった。それで飢えが満たせるのなら、この山頂はセルリアンだらけになっていないとおかしいのだから。分かっていたけれども……やっぱり、希望が断たれるのは、つらい。

 そうして放心している間に、セーバルは食事を終えてしまった。最後の晩餐を食べさせる感覚、きちんと噛みしめなかったのは勿体なかったと思う。

 お腹いっぱいになったセーバルはころんと丸くなった。こうして眠ると、たいてい翌朝まで目覚めない。僕は手足が再生するまでの四~五時間、ずっとずっとセーバルの寝顔を見つめていた。


「大きくなったね、セーバルちゃん」


 四肢をあげてしまった状態の僕と比べると、もう彼の身体の方が大きい。ここまで成長するまでに、色々なことがあった。楽しいことも、つらいことも、面白いことも、怖いことも、素敵なことも痛いことも、たくさんあった。


「……ごめんね」


 本当にごめん。僕のことをどんなに恨んでくれてもいい。もし生まれ変わりというものがあるのなら、来世で何をされたって構わない。だけど、だけどそれでも今は、セーバルとお別れ・・・しないといけない。

 再生しかけの腕でセーバルの頭のいし・・を撫でると、一瞬ピクッと目を覚ました。でも触ったのが僕だと気付くと、すぐにまたスヤスヤと眠りに落ちていく。僕のことを信じ切っている、安らかな寝顔。

 いっそこの腕が二度と生えてこなかったらいいのに。そんな願いは当然のように叶わず、夜明け前までにきっちり再生しきってしまった。

 僕はその再生したばかりの手で――鞄から静かに包丁を取り出し、鞘を外した。月も星もない曇り空の下、火口から立ち上る虹色の光を受けて刀身がきらりと輝いた。


「……ごくっ……」


 生唾を飲み込み、極力緊張を抑えようと深呼吸する。仕損じてセーバルを無駄に苦しませてしまったら最悪だ。何度も丸太で練習した通りに、包丁これをいしに突き立てる。せめて苦しまないように、一撃で、確実に。目一杯振りかぶり、真っ直ぐに、いしの真ん中に――


「うっ……ぐうぅぅっ……!!」


 刺せなかった。できなかった。手から滑り落ちた包丁がセーバルの頬を浅く裂き、驚いて目覚めたセーバルが何事かときょろきょろしている。


「ごめんなさい……ごめんなさい……本当に……ぅっ、くっ、ごべんなざい……!」


 怖い思いをさせてしまったセーバルに。将来セーバルに食べられるかもしれないフレンズさん達に。知恵のある危険な敵を相手に回さないといけなくなるハンターさん達に。

 謝っても謝り切れない罪悪感に押し潰されて、身動きも取れずただ泣きわめく僕に、セーバルは朝まで寄り添ってくれた。




===


「さようなら、愛する王子様」ツバメはささやきました。「手にキスをしてもいい?」


「小さなツバメよ、ついにエジプトに行くんだね。嬉しいよ」王子は言いました。「お前はここに長く居すぎた。でもキスは唇にしておくれ。お前を愛しているから」


(同)


===




 翌日。僕は日出港に見送りに来てくれたフレンズさん達に無理を言って、旅立ちを三日延ばしてもらった。


「もし旅に出るのが嫌になったのなら、『みんなが手伝ってくれたから』って無理して行かなくてもいいのよ?」


 そう気遣ってくれたカバさんに、かぶりを振って答えた。


「いえ、そういうのじゃないです。むしろ、旅に出たいって気持ちは前より強くなってます」


 島の外へ行ってヒトのなわばりを探す。かつて自分のためだけだったその夢には『セルリアン達がお腹いっぱいご飯を食べられるようにして、フレンズも安全にする』という使命感が加わっていた。

 だけど。旅に出るためには、セーバルに身体をあげることを諦めねばならない。何が起こるか分からない島外への旅にセーバルを連れて行くことも、旅のさなかに毎日数時間を給食と再生に費やすことも土台無理な話だ。




……………………




 最後の三日間、僕はセーバルに教えられる限りのことを教えた。

 僕はもうすぐこの島からいなくなり、ご飯をあげられなくなること。セルリアンは本来、フレンズを完全に食べて元動物に変えてしまう存在であること。フレンズは身を守るためにセルリアンから逃げるか、ときには武器を振るって殺しにかかるということ。セルリアンが生きていくためには、自分一人の力でフレンズを狩る必要があるのだということ。

 具体的な狩りの仕方は――さすがに教えられなかった。セーバルが生きていくために狩る相手は僕の見知った親しいフレンズかもしれないし……もしかしたらサーバルちゃんかもしれない。今までセーバルを育ててきておいて無責任な話だけれど、どうしてもそれだけは教えられなかった。

 代わりと言っては何だけど、身の守り方は入念に教え込んだ。視覚に優れた鳥のフレンズに対する隠蔽。別の強い臭いをかぶって鼻の利くフレンズから逃れる方法。蛇のフレンズのピット器官には、身体に泥を塗って対処する。どうしても戦いが避けられないとき、頭のいしをかばって致命傷を避ける格闘術。

 他にも教えてあげたいことが、あれも、これも――と思う間に、時間は矢のように過ぎ去っていった。




……………………




 セーバルと出会って四十五日目。今度こそ、旅立つ前日。


「これが最後のご飯だからね。次からは、自分でご飯を探してるんだよ」


 いつものように僕の右腕を食べるセーバルに、念を押すように語り掛ける。食べられて溶けていく部位の、身を切るような喪失感も、今となっては心から愛おしい。


「……ごめんね。いつか……」


 いつか遠い将来、セルリアンみんながお腹いっぱいご飯を食べられるようにするから。そう言葉を継ごうとして、ぐっとこらえた。本当にそれを実現できるかどうか分からないし、仮に達成できたとして、その時までセーバルが生きていなかったら何の慰めにもならない。

 そんな不確定で当てにならない約束の代わりに――


「こんなことでお詫びにはならないけど、最後に一つ、贈り物をしたいんだ」


 残った左腕で、セーバルの首に木で拵えた名札を掛けてあげた。将来、身体が大きくなったり形が変化しても、セーバルちゃんだと分かるように。紐の部分は身体の変化に対応できるよう、じゃんぐるちほーのゴムノキの樹液を使って作ってある。


「精一杯考えた名前で、精一杯作った名札だから、どうか受け取ってほしいんだ。どう、かな」


 真ん丸で光彩のない、感情の見えない瞳。でもセーバルは、嬉しいときいつもそうしているように、足元にすり寄ってくれた。大きくなった体をわざわざかがめてまで。


「よかった。気に入ってくれて」


 そんなセーバルのいしを右手で撫でてあげようとして……さっき食べさせたばかりなのを思い出して、慌てて左手を伸ばした。いっそこの腕が二度と生えてこなかったらいいのに。山頂のときと同じことを一瞬考えてしまって、苦笑した。


「それじゃあ……さようなら」


 セーバルのそばを離れ、背を向けて歩き出す。彼は少しだけついてきたけれど、やがてその場に立ち止まって僕を見送った。


 二十歩か三十歩あるいたところで、僕は最後に一度だけ振り向いた。

 セーバルが元気に生きていくためには、フレンズを食べなければならない。食べられるのは僕が見知った大切なフレンズかもしれないし、もしかしたらサーバルちゃんかもしれない。

 それが分かっていても、それでも、言わずにはいられなかった。


「セーバルちゃん。どうか、元気で」





===


「ツバメよ、ツバメよ、小さなツバメよ」王子は言いました。「もう一晩だけ、私の所にいてくれないか?」


「もう冬だよ」ツバメは答えました。「じきにここにも、冷たい雪が降ってくる。エジプトでは、暖かい太陽の光が緑色の椰子の木に降り注いで、ワニが泥の中で横たわって、けだるそうに辺りを眺めているんだ。僕の仲間たちはバールベック神殿に巣を作って、それを見た桃色と白の鳩たちがクークー鳴き合ってる。王子様、僕は行かなくちゃ。でも忘れないよ。次の春には、あげてしまった物の代わりに、きれいな宝石を二つ持ってくるからね。赤い薔薇よりも赤いルビーに、広い海と同じくらい青いサファイアを」


(同)


===





【後編に続く】

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