第16話
グォォォーッ‼︎
突然、とてつもない音量の獣の咆哮が聴こえてきた。
状況が理解できず、身体が硬直して動けない。
目だけ動かして周囲を見回す。
だが視界の中においては何も変化が見られない。
次の音を聴き逃さないようにと耳をすませる。
上側から聴こえたような気もするが、川面にいることもあってその正確な方向が掴めない。
ハッと我に返り、彼女の方を見る。
彼女も同様に混乱しているようだった。その場に立ちすくみ口元に手を当てている。
"サヤ‼︎ こっちにおいで‼︎"
なんとか彼女の名を呼ぶ事が出来た。彼女は急いで僕の元へ駆け寄ってきた。
"今の…なに…?"
彼女は恐怖に怯えた表情を見せながら、必至に僕の右腕にしがみついている。
"わからない…。"
僕は思ったことをそのまま口にした。
あれは本当に獣だったのだろうか。今までに聴いたことのない鳴き声だった。鳥の警戒音やオオカミの遠吠えとも違う。馬鹿でかいイノシシの咆哮のような鳴き声だった。以前に聴いたことのある鳴き声とは少し様子が違うが…。しかし今は夜だ。野生の動物たちにとって恰好の時間帯とも言える。あり得なくはない。だが、声の質も鳴き方も、何より威圧感がケタ違いだ。種類が異なれば鳴き声も変わるのだろうか…。もしそうだとして、果たしてそんな大きさの動物が存在するのだろうか…。ここまでけたたましい咆哮になり得るのだろうか…。
庇うようにして左手を彼女に添えながら、周囲を見渡す。
音を聞き逃さないよう耳をすませる。
だが、何の変化も見受ける事が出来ない。
逆にそれが余計に不安を駆り立てた。
姿の見えない恐怖。どこから迫り来るかわからない焦り。正体のわからぬ不安。
それらは目に見えない鎖となって僕たちの精神と肉体をがんじがらめに締め上げ、行動の自由を制した。
あれだけの咆哮をあげたのだ、その大きさも熊以上であり、なんらかの捕食行動や威嚇によるものである可能性が高い。であるのに、この静けさ。川の流れる音や木々のさざめき、虫の音色。静かである筈がないのだ。
彼女もそれがわかっている。だからこそ、僕の隣で必至になって辺りを見回し、咆哮の原因を突き止めようと探していた。しがみつく腕の力はますます強くなっている。
"ここから離れましょう…⁉︎ このままここにいては危険だわ‼︎"
"だけど、もし上った先にヤツがいればたちまち襲われてしまう‼︎ せめて方向さえわかれば逃げようがあるんだけど…。"
ハッとある事に気付く。
そういえば刀はどこに置いた⁉︎ 酔いが覚めたとはいえ、これに気付くのが遅いとはまだ頭が働いていない証拠だ。出発しようと帰り支度を整えているところであの咆哮。僕はまだ太刀を手にしていない。慌てて太刀を探す。だが見つからない。先程までと変わらない景色、明るさだというのに、なかなか見つける事が出来ない。
"どうしたの⁉︎"
彼女が咆哮の持ち主に悟られぬように小声で叫ぶように聞いてきた。
"刀が見つからないんだ‼︎ くそっ、あれが唯一対抗できる武器なのに…‼︎"
焦りが余計に見つけにくくしていく。
何度も繰り返し、あり得る場所に目を向ける。
あった‼︎
ついに見つけた。灯台下暗しとはこのことか。太刀は目と鼻の先にポツンと置かれていた。取ろうと左手を伸ばした、その矢先。
ズダァン‼︎
何かが破裂したような音が聴こえてきた。
咄嗟に右手を強く引かれ、太刀を取ることが出来なかった。
続けてミシミシと木が折れていくような音が聴こえてくる。
今度はその方向がわかった。自分たちが今いる場所の真上だ。
よかった。もし、あのまま着の身着のまま上っていたらヤツの目の前に現れてしまうところだった。
"サヤ、かた…。"
ズォォォーン‼︎
言葉を言い終わる前に先程とは反対側から大きな音が聴こえてきた。
想定外の音に慌ててその音の方向へ視線を向ける。
"なに…? あれ…。"
彼女がか細く、戸惑いを口にした。
僕は衝撃のあまり言葉が出てこなかった。
それは突然やってきた。
川を挟んだ反対側で、土煙をまといながら、前屈みの姿勢でこちらを睨みつけている。
見たことのない姿をして、頭には二本のツノを生やした、この世ならざる異形のもの。
まさに鬼だ。
グォォォーッ‼︎
先程の咆哮の正体が目の前で判明した。
周囲の空気を切り裂きながら身体を突き抜けていくビリビリとしたヤツの叫び声。
冷静さを取り戻し始めた僕の頭は再びその働きを停止した。
目の前の出来事が理解出来ない。
恐怖で身体がすくむ。
次第に土煙が消えていき、ヤツの全体像が見え始めた。
ヤツは両腕を垂らし、肩で息をしながら、二本足で立ち、こちらを睨みつけていた。
その爪は鋭く、あんなものを振り抜かれればひとたまりもない。
頭部には歌舞伎役者の長い髪のような毛状のものがあり、額からは天を突き刺すように左右一対のツノが生え、呼吸をする度にその毛状のものが揺らめき、笑うように開いた口から見える牙はノコギリのように鋭く尖っている。
人のような姿をした、明らかに人外の異形な存在。
ジャリ…
ヤツがこちらに向かって一歩足を踏み出した。
彼女が言葉もなく僕の腕を強く握りしめた。
更にもう一歩、ヤツが踏み込む。
僕の身体は自らの意思を持たぬ木偶の坊になっていた。
ヤツの動きを目で追いながらも、逃げることなくその場に立ち尽くした。
マズイ…。殺される…。
瞬間的に死を連想した。
"クク…。オレが恐ろしいか…?"
何か言葉が聴こえてきた。
言葉…。…‼︎ ヤツは人の言葉が話せるのか⁉︎
理解するまでにいくらか時間がかかった。同時に、悔しいがヤツの言葉で冷静さを取り戻した。
ヤツは再び語り出した。
"見ていたぞ…。お前たちのくだらないやり取りを…。クク。地蔵の前からな。いつ殺してやろうかと楽しみでならなかった。"
あの時感じた違和感の正体はこれか‼︎ クソ‼︎
もっと注意深くしていたら…‼︎
ヤツの動きに注意しつつ逃げる算段を考える。
だが、何も思い浮かばない。
先程の破裂音、木の倒れるような音の位置からヤツがあそこまで飛んできたのだとすると、それだけその為に必要な脚力なり身体的構造があるという事だ。それだけで常軌を逸しているが、あの見た目だ。どのみち常識なんてものは当てにならない。こちらに向かって飛びかかって来る事など造作もない事だろう。川を挟んでいるとはいえ、そんな事は障害にすらならない。
ヤツがまた一歩踏み込む。
"オレはな…お前たち人間が絶望に打ちひしがれる様を見るのが最高に気持ちいいんだ…。
ヒヒ。ほら、笑ってみせろよ。さっきまでのような馬鹿面をして愛し合ってみせろよ。
結婚しましょ〜ってな。"
彼女が涙を流し、震えながらヤツを睨む。
"おうおう、その調子だぜ。ほら、怒れよ。悔しいなら殴ってもいいんだぜ。出来るもんならな。"
ヤツはそのニヤニヤした口元を更にニヤつかせながら、彼女を睨み返した。
ヤツがジリジリと距離を詰める度に、その大きさをより正確に見て取ることが出来た。
前屈みになっている状態で2メートル以上はある。それに見るからに屈強なあの筋肉の隆起。
太刀を取るにしてもこの態勢では…。手に取るよりも先にヤツが襲いかかる可能性だってある。
それに、まともにやり合えば、まず勝ち目はないだろう。
どうすれば…。
"ただ殺すだけじゃあ面白くない。お前たちの苦しみ、悲しみが、オレにとっての喜びなのさ。
ずっとこの時を待ってたんだ。"
ズダァン‼︎
ヤツは川を容易く飛び越え、僕たちのいる川辺へと降り立った。
両腕を垂らし、長い毛状の物の隙間から見下ろすように僕たちを睨みつけ、仄暗い不気味な赤い目を光らせた。
"クク…。その顔を苦痛に歪ませ、絶望し、オレを楽しませてみせろ。"
そうか…。
僕は諦めると同時に覚悟を決めた。
彼女の腕を無理やり剥がし取り、彼女の背中を押した。彼女は呆気に取られた表情を浮かべていた。
"行けぇー‼︎ 走れっ‼︎ サヤだけでも生き残るんだ‼︎"
"イヤ…‼︎ シオンくんも一緒じゃなきゃ…私…‼︎"
彼女が顔を横に振り、涙を流しながら僕に悲壮を訴えている。
"があー‼︎"
僕はヤツに向かって走り出し、どうにかヤツの身体にしがみついた。
持てる力の全てを注ぎ込んだ。
なんとしてでもサヤの逃げる時間だけは作らなければ。
"ダメだ‼︎ いいから行けっ‼︎ 行けー‼︎"
彼女は躊躇いながらも、僕に背を向け走り出した。
そうだ、それでいい。
僕が犠牲になる事で彼女が生き延びるなら。
"クク。誰が逃すって言ったよ。"
一瞬だった。
ヤツは僕を造作もなく振り払い、手を叩きつけ、足で踏みつけた。
"ぐぁッ…‼︎"
身体が割れるような衝撃が走る。
ヤツはその頭上を飛び越すと、彼女の背後に立ち、彼女の足を掴み、僕の目の前に放り投げた。
"…痛‼︎"
彼女は岩に身体をぶつけながら、転がるようにして僕の前で止まった。
ヤツはのっそりと腕を垂らし、揺らすようにしながら前のめりに歩いて近づいてくる。
"また逃げ出されると厄介だからな。"
そう言うと、そのまま彼女へと近づき、とうとう彼女の前に立ちニヤリと笑い見下ろした。
ヤツは右手を伸ばし、彼女の右足を掴むと、引きずるようにして引き寄せた。
彼女の左足は摩擦でその場にとどまり、右足だけが真っ直ぐに伸び、裾と靴の隙間からは彼女の白い肌が見えていた。顔の向きが気に入らなかったのか、そのまま引きずるようにして彼女の顔を僕の方へと向けた。
"クク…。"
彼女を押さえつけると、右手の爪を立て、彼女の足首を押し込むようにして力を込めていく。
"痛い痛い…‼︎ イヤ…‼︎ お願いやめて…‼︎"
彼女が苦悶の表情を浮かべ涙を流しながら懇願する。
"テメェ…この野郎…‼︎"
ヤツに向かって叫んだ。
だが、やはり身体が動かない。どこかの骨が折れたのか、動かそうとする度に激痛が走る。
その間にも彼女の悲鳴が響き渡る。動け、動け‼︎ だが無情にも立ち上がることが出来ない。
"キャアアアっ‼︎"
とうとう、そのまま右足を切断した。
彼女の足首からは大量の血液が溢れ出ている。
"あぁ…⁉︎ サヤ…⁉︎"
"クク…。いいねぇ‼︎ その顔が見たかったんだよ。"
そう言いながら、暴れまわる彼女のもう片方の足を無理やり引き寄せ、再びその爪を押し込んだ。
"アァアアアアッ‼︎"
彼女が声にならない絶叫を再び上げた。
左足も切断され、本体から切り離された二つの足が僕の目の前にゴトリと放り投げられた。
彼女は苦痛のあまり、のたうちまわるように手足をばたつかせたあと、身体を丸めピタリと動くのをやめた。
"がぁあああーっ‼︎"
再び身体が動いた時、全ては最早遅かった。
僕は理性を失い、痛みすら感じぬままヤツに飛びかかった。
"そういうのはもういいんだよ。"
"ぐっ‼︎"
ヤツは僕を殴り、蹴飛ばし、その反動で川岸へと吹き飛ばされた。
何度も頭を岩にぶつけながらも、当たりどころがよかったのか、意識をかろうじて保ち続けることが出来た。サヤの方が辛いはずなんだ。そうだ。サヤ、サヤは何処だ…。
サヤ。サヤ。サヤ…。見つけた。
もはや力は入らず、腹這いになりながらも、なんとか彼女のもとへと近づこうとする。
"シオンくん、どこ…。シオンくん…。"
彼女もまたうわ言のように僕の名を呼び続け、姿を探しているようだった。
彼女がニッコリと微笑んだ。僕をどうやら見つけたようだった。
腕だけの力で、ズルズルと僕の元へと近づいてくる。
景色が白くなっていく。眩しい。今は夜じゃなかったか。そうか、朝陽が昇り始めたんだ。
彼女の姿だけがハッキリと見える。サヤ、どうしたの? どうしてそんな格好をしているの?
ほら、起きなきゃダメだよ。もう少しで手が届くよ。そうしたら起こしてあげるね。
ん? 何かを僕に伝えたいの? あの時言えなかった事?
なんだ、やっぱり僕たちは相性バッチリだ。僕もサヤにあの時言えなかったことを言おうと思ってたんだ。じゃあ、あの時と同じで、サヤの方から先に聴こうかな。なぁに?
"仕上げだ。"
バツン。
不思議な音と共に、白い世界が途端に暗くなっていく。同時に意識が鮮明になっていく。
そうだ。僕は鬼と出会って…。サヤ‼︎ サヤは何処だ‼︎ 僕が彼女を助けなければ‼︎
視界が完全に元に戻ると同時に、僕は絶望を目撃した。
彼女はうつ伏せのまま、鬼の手によって心臓を貫かれていた。彼女の手は僕の手へと伸ばされ、だが僕の手を掴むことなく、そのまま息絶えていた。僕を見つめ、微笑んだままで。
"あああぁああーっ‼︎"
心が壊れていくのがわかった。
"クク…クククク…アーハッハッハ…‼︎"
ヤツは腹を抱えて笑っていた。
彼女を踏みつけ、身体から手を引き抜き、血を払うように手を振るった。
彼女の血が僕の顔にかかり、頬をつたう。
ヤツは手に残った血液を舌で舐め、優越感に浸るような笑みを浮かべた。
"あぁ…あぁ…。"
僕は身体を引きずりながら、ゆっくりと彼女へと近づいた。
彼女の手を取り、彼女を抱きしめ、泣きながら彼女の名を呼び続けた。
血溜まりの中、必至に彼女の名を呼んだ。頬をさすり、手を握り、髪を撫でた。
だが、彼女が返事をすることはなかった。
"はぁー。満足したぜ。"
声のする方向へゆっくりと首を動かす。
ヤツは僕を見下ろしていた。
歯をむき出しにして、楽しそうに笑みを浮かべながら。
何かヌルヌルとする暖かい感触に、再び手元へと視線を戻す。
彼女の胸にはポッカリと大きな穴が開けられ、微笑みかける視線の先は何もなく、瞼を閉じようとしない。
軽く揺すってみたが、なんの反応もない。
彼女の体温が流れ落ちる血と共に段々と冷たくなっていく。
僕の手から彼女の命がすり抜けていく。
先程まで、あれほど幸せだったというのに…。
なぜこうなってしまったのか…。
アイツか。
全てアイツが悪いんだ。
アイツさえいなければ‼︎
ジャリジャリと足音が遠のいていく。ヤツは山の中へ戻るために歩を進ませ始めたようだった。
僕は彼女をそっと地面に寝かせると、ヤツへと走って飛びかかった。
"もういい。"
あっさりと避けられ、僕は地面を転がった。
起きようとして頭を上げると、視線の先に太刀が見えた。
太刀ならば…‼︎
そのまますぐに立ち上がろうとするが、身体が言うことを聞かず、足も震えて上手く立てない。
グラグラと視界が揺らぐ。身体が軋み、力を込めると激痛が走る。
ふらふらになりながらも、なんとか太刀を手に取り、刀を鞘から抜いた。
太刀の重みで身体がよろめく。このまま帰してやるものか。
"待てよクソ野郎ッ‼︎"
太刀を落とさぬよう精一杯握りしめ、その切っ先にヤツを捉える。
頭から流れる血が目に入り込んできたようだ。ズキズキとして視界がぼやける。
だが知ったことか。太刀が触れるだけでヤツの身体を切り裂くことが出来るのだから。太刀の長さは三尺ある。然程難しい事じゃない。
ヤツに向かって走り出し、太刀を振り上げ、今ある力の全てを込めて思い切り振り下ろした。
"だから、もういいって言ってんだろうが。"
バキンッ‼︎
当たった‼︎ 太刀が何かに触れた感触が手へと伝わってくる。だがそれは肉を斬るというよりも、刀同士をぶつけ合ったような、硬質な物に当たった感触だった。同時に右腕に激痛が走る。
ヤツは手を振り下ろしていた。刀はいとも簡単にへし折られ、同時に僕の右手はヤツの爪により深く抉(えぐ)られた。
"がぁああっ‼︎"
右手からは大量の血が吹き出していた。
痛みで力が入らず、刀身の折れた太刀は無造作に地面に落ちた。
"俺が憎いか。クク。なら殺しに来るがいい。俺を殺そうと日々憎しみ続けるお前のその苦しみが、俺にとっては何よりの快楽なんだ。せいぜい俺を楽しませてみせろ。"
ヤツは言った。"俺はいつでもお前を見ているぞ。"
ヤツは高笑いしながら山の中へと姿を消した。
切り裂かれた右手の痛みを堪えようと手を強張らせた。指先から血が滴り落ちる。
意識を失い倒れそうになるが、足にどうにか踏ん張りを効かせる。
姿が見えなくなったとしても、またどこかから飛んで現れるかもしれないと耳をすませる。
眉間にシワを寄せ、血と脂汗を流しながらヤツの消えた方向をくまなく探す。
"出てこい‼︎ ぶっ殺してやる‼︎"
たが聴こえてくるのは、川のせせらぎと虫の声、葉の擦れる音だけだった。
ヤツが姿を現わすことはなかった。
危機は去った。
取り返しのつかない惨状を置き去りにして。
周囲は静まりかえり、まるで何事もなかったかのように閑静を取り戻していた。
振り返ろうとしたところで何かが足にぶつかりガチャリと音を立てた。
折れた太刀だった。
この役立たず‼︎
蹴ろうとしたが、足がもつれて上手くいかなかった。
視線を上げると、目の前には大量の血溜まりがあった。
否が応にもそれは視界に入ってきた。
血溜まりの中心に横たわる…。彼女…。
…。
…。
サヤ…。
僕は未だに血が吹き出る右手の痛みを堪えるように、左手で強く右手の肘付近を握りしめながら彼女の元へと近寄った。
足が重く、頭も、腕も…身体中がズキズキとした痛みに襲われ、すぐに駆け寄ることが出来ない。ゆっくり、一歩ずつ彼女へと近づいていく。
サヤ…。サヤ…。
仰向けで、夜空を見上げるように横たわる彼女。
髪は乱れ、綺麗好きの彼女には似つかわしくないボロボロの服。
胸には大きな穴が空き、瞼を閉じず瞳は虚空を見つめていた。
しゃがみ込み、左手で彼女の肩を抱くように引き寄せた。
サヤ…。サヤ…。サヤ…。
右手を伸ばし、彼女の瞼を震える手でそっと降ろす。
僕の血が彼女の頬に垂れ落ち、ゆっくりとつたって、涙のような跡を残して地面へと落ちていく。"もっと優しく扱ってよね。"
そんな声が聴こえてきそうな気がした。
髪を撫でた。頬に手を当て、彼女の血の涙を指で拭った。
サヤ…‼︎
涙が止まらなかった。
彼女は死んだ。
そう実感せざるを得なかった。
周囲をホタルたちが揺蕩い、彼女を優しく照らす。
彼女は今にも話しかけてきそうなほど、穏やかな表情で優しく微笑んでいた。
あの時、君は何を言おうとしたの?
僕はね、やっぱり君が大好きだって事。
僕は声をあげて泣いた。彼女に覆いかぶさるようにして。
彼女との日々が走馬灯のように蘇る。
出会い、笑い、怒り、悲しみ、泣き、悔やみ、夢を語り、愛し合った。
歩き、つまずき、走り、転び、手を取り合って立ち上がり、支え合った。
思い出の中の彼女はいつも笑っている。
今も…。楽しい夢でも見ているかのように、微笑みながら眠っている。
だが、もう二度と彼女の声を聴くことは出来ない。
もう二度と、僕に微笑みかけてくれることはない。
ちゃんと言葉にして伝えておけば良かった。
後悔が胸を締め付けた。
同時にヤツに対する怒りが腹の奥底からフツフツと湧き上がり、身体を流れる血液は沸騰して逆流するようだった。
"覚えていろよ‼︎ 絶対に俺が、お前をブッ殺してやる‼︎ 必ず、必ずだ‼︎"
僕は姿の見えなくなった鬼に向かって叫んだ。
そのとき、突然右手が光り出した。青とも紫とも言えない炎のような光の揺らぎ。
その光は次第に蛇のような姿へと変わり始めた。
一匹、二匹、三匹…。右手の周囲を蛇のような模様の光が何本も渦巻いている。
"な…。なんだこれは…。"
動揺している僕を余所に、その蛇は突然彼女を食い始めた。
"おい…。やめろ、やめてくれ‼︎"
必至にその蛇を振りほどこうと両手をバタつかせる。
だが、蛇に触れる事が出来ない。その間にも彼女の身体は無情にも蛇に喰い散らかされていく。
"あ…。あぁ…。"
あっと言う間に蛇は彼女の亡骸を喰い漁ると、右手で再び渦を巻きだし、フッと消えた。
足下には、血だまりに浮かぶ彼女の骨だけが残されていた。
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