天下を背負う者
織田信秀が
当の六角
蛍見物と
実は、定頼が奈良に来た真の目的は別にあった。
娘婿である
細川晴元が将軍父子と仲違いして争ったせいで、
そもそもの対立の発端は、将軍父子が頼りない晴元を切り捨てるべく、彼と対立していた同族の細川
この一連の
しかし、遊佐長教たち氏綱一派との間にしこりがまだ残っていたため、定頼は彼らと晴元を和睦させるべく奈良に
「殿様。晴元様が仕出かしたことの後始末はこれにて一件落着ですか? 私、まだ一度も蛍見物に連れて行ってもらっていないのですが」
「遊佐との談合はいちおう決着がついた。蛍見物は
「でも、ここでじっとしていると、あなたがこの寺にいることを聞きつけた人々がまた問題事をあれこれと持ちこんで来ますよ?」
「…………」
「あら、もう眠っていらっしゃる。それとも
四月下旬のある日の夜。
妻に膝枕をさせながら、定頼は寝息を立てていた。
やや丸みのある
しかし、真っ直ぐ整った鼻筋は、名門・佐々木氏の嫡流にふさわしい気品を備えているようにも見える。
また、両目を閉じてうとうとしている今は分からないが、彼のギョロリとした
「あーあ。こんなことなら奈良になんかついて来なければよかったわ。蛍ぐらい近江でも見られるのだもの」
「……そう愚痴を申すな。約束は必ず守る。本当に疲れているのだから寝かせてくれ」
狸寝入りだったらしく、定頼は苦笑しながら妻にそう
六角定頼は今年で五十四。そろそろ激務が身にこたえる年齢である。疲れているというのは本当だった。
この数日間、定頼は遊佐長教ら反晴元派の武将たちと面会し、彼らの晴元に対する不満を聞いたりなだめたりなど、かなり多忙であった。
また、定頼夫妻が奈良のとある寺に
本来ならば、幕府の政治を取り仕切るべき立場にあるのは管領の細川晴元である。しかし、彼は権力闘争に明け暮れて戦場を駆け回っているため、将軍家や
――陰謀家の晴元などよりも、京都近くの領地でどっしりと構えている南近江の雄・六角定頼のほうが頼りになる。
という六角家への評価が高まり、定頼は足利将軍家の後ろ盾のような立場になっていたのである。
定頼は幕府の政治・外交を多岐にわたって補佐し、
大名同士の和睦の仲介
大名の家督相続問題の解決
各地の寺社の揉め事の裁判
京都の商人たちの紛争の裁判
明国との貿易に必要な
などなど、天下の
細川晴元は、貿易の商売敵である大内氏に勘合の許可が下りるように定頼が取り計らったことに怒って抗議したことがあったが、定頼にしてみれば「だったら、管領である婿殿がちゃんと
(我が父・
……しかし、室町幕府の庇護者になれたと思ってゆめゆめ油断するでないぞ、六角定頼。
将軍家の厄介なところは、我が身を守る矢盾を頻繁に替えることじゃ。生き残るために、使い物にならなくなった古い盾をあっさりと捨て、頼れる新しい盾を……幕府の次の庇護者となる大名を探すのが力無き天下人の世渡り術だ。将軍や全国の武士たちに頼みとされる強き大名であり続けなければ、あっと言う間に、逆賊扱いされていた時代の六角家に逆戻りすることであろう……)
定頼は薄っすらと目を開きながら、心の中でそう呟き、おのれを戒めていた。
自らが天下の
だから、将軍家は、伝統的な生存戦略として、第二、第三の「幕府の庇護者候補の大名」を常に探している。
あてにならない管領の細川晴元を見限って細川氏綱を取りこもうとしたのも、近江の雄である定頼に新将軍・義藤の
後年、最後の将軍・足利
――幕府の今の庇護者は、力が衰えてきた。もう将軍家の盾として使えぬ。
そう判断したら、足利将軍はこれまで自分を守ってきてくれた大名を切り捨てるのである。
今の将軍父子が細川晴元から細川氏綱に
信長の父である信秀は、「上洛して室町将軍の天下の
天下を背負った英雄を待ち受けている運命は――乱れた世を
織田信秀はこの事実を知ることなく死に、息子の信長が遥か後年に足利義昭を
「……天下様という荷を背に負って行く道は遠く険しい。いい加減、肩が凝ってきたわい」
定頼はそう言いい、ムクリと身を起こす。
定頼は、部屋の中を心細そうにうろうろ飛んでいる蛍には目をくれず、月下の庭先にたたずむ二つの影に視線をやる。そこにいたのは、忍び装束を着た二人の伊賀者だった。
「
「織田信秀の正室がわずかな供を連れ、
伊賀の
この男は、「伊賀崎入れば落ちにけるかな」と後々詠まれるほど忍びの術を使った城攻めが得意で、伊賀でも指折りの凄腕忍者である。また、信長を鉄砲で狙撃したという伝説もある。
「ようやくか。『来るらしい』という情報を儂がそなたたちから聞いて、十日以上経つな。即断即決が信条の織田信秀らしくもなく、ずいぶんともたもたしておったものよ。病弱な妻を旅に行かせることを
恐らく、美濃の
……道順よ。蝮の刺客から織田家の一行を守るように手はずをいたせ」
「ハッ」
定頼が指示を下すと、道順はパッと姿を消した。
伊賀の上忍・藤林長門守は、道順の気配が完全に感じ取れなくなったのを確認すると、「……定頼様は織田家と手を結ぶおつもりですか」と問うた。
読者は覚えているだろうか。この藤林長門守は、今川家の
彼は、勝手に任務を放棄して今川家を出奔した後、二、三か月ほど弟子である
そんな長門守が今、六角家は織田と親交を結ぶのか、と定頼にたずねている。
忍びごときが雇い主である大名の外交方針に口を挟む権限など無いはずだが、この誰にでも
定頼は、長門守のような一癖も二癖もある伊賀忍者や甲賀忍者を
「儂は天下を背負う者だ。室町幕府を助け、天下
そんな儂にとって最も憎むべき敵は、天道の罰を恐れることもなく天下の秩序を乱す下剋上の鬼どもだ。奴らを野放しにしておけば、ただでさえガタガタな室町幕府の支配体制が完全に崩壊しかねぬ。
そんな下剋上の鬼たちの中でも、斎藤利政は我が妻の兄である美濃守護殿(
「……そうですか。天の道に逆らう者があなた様の敵ということですか。
されど、信秀の嫡男の信長という少年にだけはお気を付けくだされ。信長には底知れない力があります。
ご存知の通り、拙者には刃を交えただけで相手の器量を図ることができる不思議な力がありますが、奴と戦った際に伊賀の里を焼き滅ぼされる幻覚を見ました。末恐ろしき武将に化ける危険性がありまする」
「ほう……。他者を見下しがちなおぬしがそこまで言うのは珍しいな。そんなふうに脅されると、逆にその少年に会うのが楽しみになってきたわい」
定頼はニヤリと笑い、熊のようにのっそりと立ち上がる。年のせいか少し腰が痛むらしい。
「妻よ。今から蛍見物に参ろう。こんな迷子の蛍一匹を見ていても寂しいだけだ」
「え? 今から? よろしいのですか?」
「ああ。明日の早朝、奈良を発つゆえ今宵のうちに旅の目的は済ませておこう。儂が奈良にいることも知らずに近江に来ようとしている
<おすすめの六角氏の書籍物について>
昨年、ミネルヴァ日本評伝選シリーズで『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』(村井祐樹著 ミネルヴァ書房刊)が発売されました。
この本は三好長慶・織田信長に先んじた天下人として六角定頼の生涯が詳細に紹介せており、高頼(定頼の父)・承禎(定頼の子。義賢)・義弼(定頼の孫)の事績も含めた六角氏の興亡が一冊にまとまった良書となっています。
六角氏に関する伝記物はこれまでほとんど無かったので、とても助かります。六角氏をテーマにした小説を書きたいと思っている方にはおススメです(*^^*)
さりげなく、文中にガンダムネタがところどころ仕込まれていますが……(笑)
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