2-7


「エマの近くにいるよ」


 それがたっぷり五分ほど考えた後にニコが発した一言だった。

 思わぬ答えに肩の力が抜けていく。

 何を考えているのかと思えば、もしかしてこいつ何も考えずに生きているのではとすら疑ってしまう。

 思いつめて捕まえてしまったが、くだらないことをしたと自分に溜息をつきながらニコの上着から手を離した。

 さらりと揺れている前髪の隙間からニコの目が見える。

 戸惑ったように揺れるそれに、また困らせてしまったのだと思った。


「別に、お金が手に入れば私の近くにいなくても……」


「俺は何にもわからないし、今この状態で放りだされても一人でやっていける自信はない」


 戸惑い気味なニコが言うそれは、至極冷静な判断だった。確かにその通りである。今のニコは私に突き放されたらどうにもできなくなる。また奴隷に逆戻りか、身分を偽りながらどこかで働くか。


「それに、魔法も覚えてみたいんだ」


「もちろん、それは教える予定だけれども」

 

 ニコが真剣な顔をする。何かしら希望があるのはいいことだ。『エマの近くにいたい』なんていう漠然としたものよりずっといい。つまるところ、彼が言いたいのはそういうことかもしれなかった。

 しかし、それに続く言葉に首を傾げることになる。


「俺が魔法を覚えたら、エマの手伝いできるかな?」


「手伝い? 何の?」


「エマがあの魔物を倒すっていう」


 嫌に真剣な顔でニコがそう言った。なまじ顔がいいので迫力がある。何か言い返そうと思ったが、咄嗟に言葉が出てこない。

 近づいてきた顔に怯んでしまって、一歩後ろに下がってしまう。今度はニコの手が私の服を掴んでいた。


「俺、手伝いたいんだ。エマの事」


 進退窮まった。そんな感じだ。

 何も言えずにニコの手に自分の手を重ねた。

 こいつ、どこまでお人よしなんだ。と思ったが、冷静に考え直せばどこまでもお人よしだった。私が覚えている中のニコでお人よしでなかった時がないほどだ。出会った時も、そのあとも。私が奴隷解放派だったからよいものを、そうでなかったらどうしていたのだろうかとすら考える。考えはまとまらなかった。

 正直、首輪さえ外れれば私と一緒にいなくてもよくなるのだ。もしかして、奴隷印があるのかもしれないが、そっちは人前で服を脱ぐようなことさえしなければわからないだろう。

 それに、魔法の練習だってきっと毎日するのは難しい。私の魔力が持たないのだ。

 先生と呼ぶ人に教えていてもらったころは、色々な魔法を試してみても大丈夫だったが、魔女になろうと本格的に不可視魔法を教わり始めたころに私の魔力は底をついた。一日寝ればある程度は回復するのだが、やはり不可視魔法を使うのには届かない程度になってしまっていた。先生は成長による魔力の揺らぎだと説明してくれたが、それ以降私は尽きるか尽きないかのギリギリの魔力で生活している。魔女になれないと知ったときの母や姉の顔は忘れられない。私の家は血縁の中で父以外の誰もが魔女だったから、きっと父も責められたことだろう。

 嫌なことを思い出してしまってハッと顔を上げる。

 ニコに顔を向けると、僅かにほほ笑んでくれた。

 何故かその表情にほっとする。その気持ちを少しだけ知っているからこそ、ほの暗い感情にさいなまれた。

 ニコが魔法を自主練してくれる分には構わないが、巨大な魔力を持つ初心者がどんな事故を起こすのかと思うと、目を離せないというのが正直なところだ。それに、不可視魔法を教える段になれば私でなくもっと教えるに適した人がいるだろう。私も不可視魔法はもちろん知識として知ってはいるが、使役の魔法を使うのが精いっぱいなのだ。ニコに詳しく教えることは困難だろう。魔法のイロハを教えたら自分の先生か、魔族に教えてみたいという人の所に弟子入りしなければニコがかわいそうだ。

 伝手は同僚や上司に腐るほどある。魔族に興味がありそうなのは、あいつとあいつと……。と具体的に顔を思い浮かべ始めると、なんだかもやもやしたものが心の中で鎌首をもたげた。これも私の感じるほの暗いものの一端だろうか。

 ともかく、と自分の思考をぎゅっと絞ってまとめ上げる。

 分からないものを今考えたところで仕方がない。


「まぁ、どうしたって首輪が外れるまでは一緒だから、それまではいろいろ手伝ってもらうかもしれないわ」


「もちろん」


 ニコが嬉しそうに笑った。

 ここまで快い人物もなかなかいないだろうと思いなおす。

 人生で一度会えるかどうか位の人間だ。貴重な経験だと思うようにした。

 頷けば、ようやくニコが服の裾を離してくれる。今度は並んで歩き始める。

 見上げれば、ニコの首輪が動くたびにちらちらと見えている。後でポンチョを整えてやろうと思って、ふと首輪へと思考が移った。

 首輪が外れたらニコはどうするんだろうと考える。まさかそれでも私と一緒にいたいなんて言わないだろう。魔法使いになってから、きっとどこかに行くはずだ。ニコのことを魔女として育て上げられなのは本当に残念だと心から思った。

 私と一緒にいた魔物たちとは違うのだ。いつかどこかへ行く。ニコにはニコの人生があった。それも私が考えも及ばないような激しい人生だ。

 そんな彼の行く先が気になって仕方がない。

 考えて考えて煮詰まったので尋ねる。


「首輪が外れたらどうするの? 故郷には帰らないの?」


 口から言葉が出た後に、もっと言葉を選べばよかったと思わないこともない。だが、口から出てしまった後に取り戻すのは難しかった。

 ニコを見やると、驚いたような顔をしている。傷つけたか、と思ったがそんな様子はない。どちらかと言えば、そんなこと思いつきもしなかったと言いたげだ。


「いや、なんか。あんまり思い浮かばない」


「思い浮かばないって? ……どういうこと?」


「……故郷の場所もはっきり覚えてないし、帰りたいかと言われると……」


「私の伝手を使えば、もしかすると故郷は探せるかもしれないけれど……」


「うーん、具体的に何かしたいって感じでもないから、今は分からないな」


 と困ったように首を傾げるニコだった。

 またその表情だ。さっき魔物の話をした時も同じ表情をさせた。きっと困らせたんだろう。

 申し訳ないと思うと同時に、ニコが困っているのはなんだか嫌だった。

 助けてあげたい、と思ってしまう。

 この気持ちを私は知ってる。

 自分が魔物たちに向けていた気持ちだ。

 自分はニコのことを魔物扱いしている。正確に言えば重ねてしまっているのだろう。刷り込みにも近い何かだということは私が一番よく気が付いている。あの子たちを亡くした日に、出会った自分で自分の身の保証もできないような人間に私は出会ってしまったのだから。

 ほの暗い感情はこれのせいだ。

 だが、彼に命令の一つでもした途端に、私は人間でなくなる。

 ニコのことを無理やり従わせていた奴隷商たちと同じ、傲慢で自分勝手な生き物になってしまうはずだ。それは、人間にも魔物にも、動物にも何より劣る。

 隣を見上げるとニコの横顔がある。なぜだか、僅かに笑んでいた。

 従わせることは絶対にできないぞと心の中で呟く。

 私は自分勝手な奴が嫌いだ。

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