たぬきはなんと鳴くでしょう

　冬の低山で遭難した。

　凍った斜面をすべり落ち、足を折って登山道にもどれなくなった。

　疲弊と骨折をかかえたまま、山中で夜の極寒を迎えた。

　ぶつけた頭からの出血が多く、鮮血がシャツを湿らせ、地面に激突したショックでの失禁がズボンをしとどに濡らしていた。ぬれた服は体に貼り付き冷えて、こごえる全身からさらに体温を奪っていった。

　地獄の夜だった。

　生きる気力など早々についえていた。

　一人でただこごえ死ぬ恐怖と、生きながら凍るような苦痛だけがあった。

　この苦しみからいま逃れたい、いま救われたいと、乾いて切れそうな目を剥（む）き、凍てつき痛む歯をうち鳴らして自分の不運を呪った。しかし、いつしか、無限につづくようだった夜は明けていて、私は昇りゆく朝日を見つけていた。

　極寒がゆるみ、日が差してぬくまりゆく大気のなか、私は安堵とみじめさのために泣いた。

　灰色に曇る空を見上げ、柚子（ゆず）を噛んで渇（かわ）きをやり過ごす。

　冷えきった果肉が歯にきしみ、苦みの暴力が意識をはっきりさせる。

　登山口に向かう道中で、民家の老婆がくれたものだった。

　——きょうは冬至だからよお。

　ひしゃげて形の悪い、けれど、大きく艶（つや）やかな黄金色の柚子を紙袋に詰めてくれた。

　——風呂に入（い）れんのよ。あったまっから。

　下山後は温泉にゆく予定であったし、今日は家風呂には入るまい。そのまま駄目にするかもと思ったが、受け取った。好意のぬくもりを受け取りたかった。

　ちりん。

　あの音を思い出す。

　凍える夜のさなか、夢のように狸（たぬき）と出会った。

　あの極寒の闇で、何度めかの気絶から飛び起きると、鈴のような音を聞いた。また、ふんふんと鼻を鳴らす音があり、圏外のスマホ画面で照らすと狸がいた。

　今のはこの狸が鳴いたのか、狸とはちりりと美しく鳴くのかとうつろに思ううち、姿を消していた。

　また柚子を嚙む。私はまだ生きるのだろうか。

　でも、また夜が来るなら。

　救（たす）けもなくまたあの絶望を味わうのなら。

　生きていることがおそろしい。

　その夜に死ぬ自分がおそろしい。

　いま死んでしまいたい。

　——死んでしまおうか。

「あんたァ！！」

　見上げると、薪（たきぎ）を背負った初老の男がいた。

　男は片手になにか抱えていた。

　狸（たぬき）だった。

　赤い首輪を付け、可愛い鈴を揺らすふかふか、ころころと丸い狸がいた。男の小脇に抱えられ、きょとんとした顔で私を見ていた。

　男は何ごとか叫びながら器用に斜面をすべり降りてくる。

　ああ。

　私は、柚子の風呂に入れるのだろうか。

　狸が、キュウと鳴いて答えた。