第16話 冨田勢源とその兄弟

 前回は中条流の冨田九郎左衛門とだくろうざえもん長家ながいえとその弟子印牧かねまき氏の逸話でしたが、今回は冨田九郎左衛門の子孫についてです。


 冨田九郎左衛門とだくろうざえもん長家ながいえには前回紹介した印牧助右衛門かねまきすけえもんの他に、師で兄弟子でもある山崎昌厳やまざきまさとしの子、山崎景公やまざきかげきみ山崎景隆やまざきかげたかの兄弟、青木藤兵衛あおきとうべえ、そして長家の子、与五郎景家よごろうかげいえでした。長家より中條流の正統な印可である「家ノいえのしょ」を授かったのは山崎景公でした。冨田景家は長家が亡くなった1509年まだ18歳だったため、景家の印可には兄弟子である山崎景公と景隆の二人による裏書がされていた、と加賀藩山崎家の文書には記載されているそうです。


 冨田景家とだかげいえは後に治部左衛門じぶざえもんと名乗り、朝倉家の武士として活躍したようです。


 景家には成人した息子が四人いました。長男は祖父と同じ九郎左衛門くろうざえもんを名乗った郷家さといえ、次男は五郎右衛門ごろうえもん隆家たかいえ、三男は与五郎景政よごろうかげまさと言いました。三人とも平法に達した兄弟でした。また、四男は与左衛門源長よざえもんよしながといい、系図には越後に住したとのみあり、平法の印可を得ていたかについては不明です。


 長男の九郎左衛門くろうざえもん郷家さといえ長谷川宗右衛門はせがわそうえもん(宗喜)や印牧一右衛門かねまきいちえもん阿波賀あわか某など後に一家を建てる弟子を育てました。越前朝倉家に仕えていたようですが、父治部左衛門より早くに亡くなったため、中条流関係の資料にもほとんど名前が出てきません。また、戸田流(冨田流)関係の末流では祖父である九郎左衛門長家くろうざえもんと混同されている例もあります。


 次男の五郎右衛門隆家ごろうえもんたかいえは眼を患い(一説には耳が不自由だった)、仕官はかなわず一生を牢人ろうにんとして暮らしたようです。また、特に平法は上手ではなかったと記録されています。後に剃髪ていはつ入道勢源にゅうどうせいげんと名乗ります。この次男の隆家が有名な冨田勢源とだせいげんです。


 三男の与五郎景政よごろうかげまさ、(与六衛門とも、後に治部左衛門となのります。)は天文21年(1552)、父治部左衛門から印可を得ます。長兄郷家が亡くなり、次兄隆家も目(耳)が不自由であったため、景政が富田家を継ぎました。前田利家に仕え、後に豊臣秀次に平法を指南することになります。彼の娘婿が名人越後として有名な冨田重政とだしげまさです。彼の活躍時期はおもに安土桃山時代になります。



―富田勢源―


  冨田勢源、戸田清眼や戸田清玄とも書かれ、冨田流小太刀の名人として有名です。各地にあったトダ流を名乗る流派の流祖とされていることがあります。


 中条流加賀藩師範、山崎家の記録では、勢源は平法が上手ではなくとも仕合には強かったと書かれています。神道流しんとうりゅう梅津うめづ某との仕合が特に知られています。

 この逸話は加賀藩の中條流や弘前藩の當田流とうだりゅうに「仕合之巻しあいのまき」として同一内容の伝書が伝わっています。加賀藩の中條流と弘前藩の當田流は冨田勢源の代ですでに別れているので、勢源が自分で書いた伝書でなければ(自分で書くとは思えませんし)、どちらかが取り入れた、もしくはどちらも別の所から取り入れたものだと思います。

 正徳しょうとく4年(1714)に書かれた日本各地の武芸流派を紹介した「武芸小伝ぶげいしょうでん」に既にこの逸話が載っているため、古くから出回っていた話なのだと思われます。(武芸小伝の内容と仕合之巻はやや表現などに違いがあります)


 以下に仕合の巻を意訳したものを抜粋します。



-冨田勢源と梅津の仕合(仕合之巻より意訳抜粋)-


 勢源せいげん、姓は富田とだ氏、名は五郎右衛門尉ごろうえもんのじょう。剃髪して勢源と名乗った。越前の人である。


 かつて永禄3年(1560)の夏、五郎衛門は旅の途中、濃尾の国、井口郷の朝倉成就の館に宿を借りていた。井口郷は一色治部太輔義龍いっしきじぶのたゆうよしたつの城下である。


 偶然同じころ、常陸の国鹿島香取かしまかとりの人、梅津という人が来て、井口郷の大原氏に仕えて新當家しんとうりゅうの剣術を人に教えていた。


 梅津は勢源が井口郷に来たことを聞き、弟子に


「ぜひ勢源に会い、中條家ちゅうじょうりゅうの小太刀を見てみたいものだ」

 と語った。


 弟子は喜び勇んで勢源の宿へ行き勢源にそのむね語った。


 勢源は


「私は目を病んでいます。どうして家法ちゅうじょうりゅうを知っていましょうか。もし家法を見たいとお望みなら、越前へ向かい富田氏の者に尋ねてください。そして我が家の遺戒には、争うなかれ、勝負を決するものではない、とあります。富田氏は勝負は受けられません。」


 梅津はこれを聞き


「勢源は私にかなわない。私は関東で剣術を会得し、その名は童でも知らぬものはいない。汝ら《門弟》はみな知っているだろうが、この地において使い手と知られていた、吹原や三橋貴傳といった者どもも私の敵ではなかった。勢源も伏首して去るだろう。たとえ太守義龍といえども、いまの私は恐れ憚ることのなく勝負を決めることができる。いわんや勢源などはそもそも私の敵ではなかったのだ!」


 義龍はこれを伝え聞き激怒し、武藤淡路守むとうあわじのかみ吉原伊豆守よしはらいずのかみに命じて勢源に使いを出した。

 武藤と吉原は朝倉屋敷の勢源に会い、義龍の言葉を伝えた。


「梅津の言は甚だ憎く許してはおけない。願わくはあなたの力で彼を打ち破ってはくれないか。」


 と。


 勢源はこれに対して


「中条の家法は固く仕合を禁じています。これに加え梅津は剣術で生きています。私がその切先を折り、彼を困窮させたくありません。ことわざに曰く「正法に奇特なし」。私の法へいほうはただ教えを守って外に出しません」


 と返答し、二人は太守にこれを報告した。


 義龍はこれを聞き


「大勇は無勇に似ているという。勢源の言葉は喜ばしい。梅津を見過ごすのは国の恥、世の笑いものとなる。勢源は聖賢であろう。何度でも願いに行くべきである。」


 義龍の言葉を請け、二人は再び勢源の宿へ向かった。


 勢源は


「太守の御命も本来受け入れられないものではありますが、もし強く断れば世の人は私が家法へいほうを知らないのだ、と言うでしょう。争わず、という中條家の遺命は恐れ憚るものではありますが、今のこの状況はやむをえません。」


 と命に従うと答えた。


 使いの二人が義龍に伝えたところ、義龍は大いに喜び、即座に七月二十三日辰の刻に武藤淡路守の屋敷と場所を決めた。


 仕合の日時を聞いて、勢源は使者の二人に伝えた。


太刀撃しあいは二度はしません。今回だけですよ。」


 人々は勢源が勝つ、いや梅津だ、と語り合った。


 仕合までの日々を両人は次のように過ごした。


 梅津は


「己の太刀に神助あるべきなり」


 と沐浴斎戒もくよくさいかいし仕合にそなえた。


 勢源は


「心が誠道にいたれば、神に祈らずといえども守護されるものだ。なぜ沐浴斎戒の必要があるのか」


 と言い、井口郷を見て回り、老若男女と語りあい過ごした。


 七月二十三日の明け方、武藤の館は仕合を前に暗く静まりかえっていた。そして朝日が昇る頃、勢源が数人の供を連れてやってきた。勢源は武藤の館の舟木籠たきぎの中から一本を取り出し、革で包み、これを木刀とした。その長さはわずか一尺四寸か五寸ほどであった。(およそ42㎝~45㎝)


 丁度その時、梅津の主、大原某が数十人の供とともにやってきた。

 その持ち込んだ木刀は三尺四寸か五寸(102㎝~105㎝)、八角に削り出してあり、錦の袋に入れてあった。


 そして背が高く骨太であり、大髭の色黒の男が前へ出て勢源へ会釈した。梅津であった。


 梅津の下人が言った


「どこを打って勝負を決するとするつもりか?目か?指か?」



「白刃を以て勝負を決するがよかろう」


 と勢源は言った。


「梅津殿が白刃を使うとしても、私はこの木刀を使おう」


 と手に持った革で包んだ薪を見せた。


 梅津は


「白刃を使うには及ばない。」


 といい、持ち来た長柄の木太刀を諸手に握り、頭の廻りを三振りして右脇構えを取った。その様子はあたかも龍が雲に乗り、虎が風に向かって吠えるようであった。


 それに対して勢源はまさに年寄りのように立ち、ゆるやかに梅津に向って進みながら


「打つぞ」


 と声を掛けた。


 梅津はこれを聞き、木太刀を鋭く回旋させ打ちかかり、勢源を近寄らせまいとした。


 勢源はその意を察し、掛け声とともに梅津に打ち懸かった。


 はたして梅津の木太刀は当たらず、勢源の木刀は梅津の左側頭と両腕をしたたかに打ち据えた。

 梅津は頭より流血し、怒りに任せて木太刀を振り打ちかかったが、勢源は先ほどと同じように梅津の右腕をしたたかに打ち、梅津はそのまま勢源の足元へ突っ伏し、木太刀を取落した。

 勢源はこれを見てすぐに飛び上がり、木太刀を踏みつけ、へし折ってしまった。


 梅津は益々怒り狂い、懐に手を入れ小脇差を抜き、勢源に突き掛かった。勢源は再び飛び上がり梅津の腕を踏み落とした。


 全く通じず茫然とした梅津を勢源はさらに足を上げ、留めをさそうとした。


 まさに丁度そのとき、武藤と吉原が二人の間に飛び込み、梅津と勢源を左右へ引き分けた。


 武藤の館にいた者は皆この勝負に驚愕した。


 憐れ敗れた梅津は血にまみれ傷だらけであったため、武藤の館で休養を取っていた。しかし梅津の主、大原氏はすっかり恥じ入って先に帰っていったため、武藤と吉原はあきれ返ってしまった。


 勢源の使った木刀と梅津の折れた木太刀は太守義龍のものとなった。

 義龍は


「勢源は本当にこの世の人であろうか。摩利支天の化身ではないか。今回の仕合を後世に伝えるために、この木刀を大事にしよう」


 と言い、勢源へ使を送り、銅十と衣服を贈ろうとした。


 ところが勢源は


「このような褒美を受け取ることは中条の家風にはありません。褒美を受け取るために仕合をしたのではないのですから」


 と言って、再三の使者にも関わらず固辞した。


 これを聞いて義龍は


「まさに勢源は真の太夫である。中条家の中興である。ぜひ直接会いたい」


 と言い、勢源を招くために使いを送った。しかし、勢源はこれを固辞し、


「仕合を恨んだ梅津の門人によって何が起こってもおかしくない」


 と言って翌朝早く越前へ帰ったという。


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 勢源の弟子は多く、間違いなく勢源の弟子だったと思われる人物は中堀與左衛門、北村きたむら(喜多村)主計かずえ冨田内記とだないき関久右衛門せきひさえもん保重やすしげなどが知られています。勢源の跡は娘婿であった関保重せきやすしげが継いだようで、彼の息子関善左衛門せきぜんざえもんは前田利家に仕え、関家は加賀藩平法師範として幕末に至ります。また、喜多村主計の弟子は富山藩に仕え、これまた明治維新まで富山藩の流儀として栄えます。




参考文献:

「中条流平法十二巻上下」金沢市立図書館蔵

「山崎軍功記」金沢市立図書館蔵

太田尚充「津軽弘前藩の武芸」弘前大学文化紀要

山崎正美「平法中条流総論 その伝系について」



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