第12話 新陰流その3

 続きです。

 前回、言及した言継卿記ときつぐきょうき国賢卿記くにたかきょうきを見ると、上洛した上泉信綱かみいずみのぶつなは色々な公家や武家の自宅を訪れ、兵法ひょうほう軍配ぐんばい、さらには紙漉かみすきなどを教えたり(※1)、披露していたようです。本当に多才な人物ですね。


 個人的にはどうやって生計を立てていたのだろう?という点が不思議ですが、なんだかんだと色々な収入があったのかもしれません。印可いんかを与える事で謝礼などを貰っていたのでしょうか。


※1 軍配ぐんばいは今でいう軍隊に関連した兵法ひょうほう軍学ぐんがくです。ただ、現代イメージする兵法と違い、多分に呪術的な内容を含みます。


 それはともかく、入門側の記録が残っています。まぁ、かなり後に記録されたものなので、どこまで信頼性があるのかわかりませんが、貴重な記録です。


 4、丸目蔵人佐まるめくらんどのすけの入門

 信綱が上洛した後、上泉信綱の高名を聞いた武士、丸目蔵人佐長恵まるめくらんどのすけながよしが上京し信綱に入門します。この時の話が安倍立剣道あべりゅうけんどう(※2)の伝書でんしょ鎬言集こうげんしゅう」に書かれています。

 その前に丸目蔵人佐についてですが、丸目は天文9年(1540)、肥後国の八代やつしろに生まれ、16歳で初陣、その後天草あまくさの天草伊豆守に寄寓、兵法修業したとされています(ちなみに丸目は若い頃はキリシタンだったとか)。

 この時、有馬流ありまりゅう門井流かどいりゅう、松本流、岡野流、新當流しんとうりゅう(※3)を学んだようです。有馬流、門井流、松本流の三つは共に新當流の一派ですし、岡野流も小神野流おかのりゅうだとするとこれも新當流の一派ですので、丸目が新陰流以前に学んだ流派は新当流だったと考えて良さそうです。


※2 安倍頼任あべよりとう(一鎬士、1624-1693)が丸目蔵人佐のタイ捨流しゃりゅうから創始した流派。日本の武道史上最初にを名乗った流派とされています。江戸時代には福岡黒田藩ふくおかくろだはんの主流剣術の一つで、維新後も道場が残っていました。剣道十段の斎村五郎さいむらごろうも少年時代にこの流儀の道場で剣を学んでいます。話によると昭和末か平成頃まで経験者がいたとか。


※3 有馬流は第8話で言及した松本備前守まつもとびぜんのかみの弟子、有馬大和守ありまやまとのかみの流派。門井流は新當流開祖飯篠長威斎の弟子、門井主悦かどいもんどの流派、松本流は松本備前守の流派です。岡野流はおそらく松本備前守の弟子の小神野おかの氏の流派だと思われます。有馬流の極意は無一剣むいちけん、門井流の極意は三段仕合さんだんのしあい、松本流の極意は一足詰いっそくのつめだと安倍立あべりゅうやタイ捨流しゃりゅうの伝書に書かれています。また、丸目はこれらの技の返し技も教えています。一足詰は現代のタイ捨流の形名にもありますね。


「鎬言集」によると、信綱に兵法を学んだ将軍義輝よしてる公は、諸国に信綱と勝負できるものはいないか?とお触れを出したとあります(信じられませんけど)。

 丸目はそれを聞いてでは勝負しよう、と思い上洛します。ちなみに海上を行くと海賊に襲われるので陸路を僧の恰好をし存覚と名乗って旅をしました。

 この時の年月日は不明ですが、永禄7年に足利将軍の前で丸目と信綱が兵法上覧しているところを見ると、永禄えいろく6年か7年、丸目が二十代前半の事だと思われます。(※4)


※4 日本武道全集で「相良文書」の丸目が19歳頃、永禄えいろく元年に上洛し信綱に入門したとあるのは、信綱上洛の永禄6年との食い違いがあると指摘されています。


 上洛した丸目はさっそく信綱の自宅に押しかけ、

「九州より丸目蔵人佐というもの弟子の望みありて来る!」

 と言ったところ、信綱も九州の丸目という上手がいる事を知っていたため、

「(あなたは高名なので)弟子になるには及ばない」

「もしどうしてもというなら先ず仕合しあいをしましょう」

 と言ってシナイを取り出した、とあります。(当然、前回説明した撓、今でいう袋竹刀です)


 この時、丸目蔵人佐ははじめてシナイを見たそうです。シナイを見た丸目が試しにシナイを振ってみたところ、木刀ぼくとうと違いよくしなります。


 丸目は

「これでは勝負がわからない」

 と言います。信綱は

「いやいや、互いに怪我をしないのが一番です。ですが、やってみればかならず一方が負けるのはわかります」

 と答えます。


 丸目も納得し、二人で縁側に出てさっそく仕合をはじめました。


 まず丸目がするすると進み出て、ぱっと真向を打ちました。ですが信綱はさっとそれを外して逆に丸目の頭上をびしっと打ちました。


 丸目は「今一度」というと、信綱は「何度でもどうぞ」と答えます。


 丸目は次はぱっと素早く飛びかかって打ちかかりましたが、信綱は先ほどと同じように外してまた同じ所を打ちました。打たれたその時、丸目は焦って「今一度」とも言わずに続けて打ちかかります。

 突然のことだったので、信綱もとっさに足を上げ蹴飛ばし、丸目を縁側から庭に突き落としました。


 転げ落ちた丸目もこの即座の対応に驚き、

「先生こそ天下の名人である」

 その場で平伏し弟子になった、という話です。


 この話自体は、丸目蔵人佐の直弟子じきのでし二名から学んだ、安倍立剣道あべりゅうけんどうの開祖安倍頼任あべよりとうが語った事を、弟子が書きとめた「鎬言集こうげんしゅう」という書物に書かれています。ただし、書かれたのは丸目蔵人の没後、かなり時間もたっているので創作や推測も入ってはいそうです。


 それでも、シナイに対する評価や、信綱と丸目の仕合の様子など、戦国時代の雰囲気が感じられます。


 入門ののち、足利義輝あしかがよしてる上泉信綱かみいずみのぶつな兵法上覧ひょうほうじょうらんした際、丸目は打太刀うちたち(※5)をし、将軍より感状を得、その感状が現在でも丸目家に残っています。(ただし、真筆であるかどうか、要研究である、というのが研究者の意見だとか)


 丸目蔵人は一度帰郷し、再度上洛した永禄10年、信綱より印可を得ます。この時、丸目は弟子を何人か連れて上洛しており、彼らも信綱より指導を受けたという話があります。


 この後、丸目蔵人佐と弟子たちが九州に新影流しんかげりゅう(九州の古い史料は影の字になっています)を、タイ捨流を創始してからはタイ捨流を広めていきます。その中には薩摩の秘剣・剛剣として知られている示現流じげんりゅうの開祖、東郷重位とうごうちゅういもいました。


 ※5 打太刀(うちたち、うちだち)は剣術や剣道で一般的に使われる用語で、兵法の技を演じる際(稽古する際)の敵役の側のこと。



 5、信綱の帰郷

 信綱は永禄6年(1563)頃から元亀げんき2年(1572)までの10年近くを機内で過ごしました。

 関わった人物、柳生・松田・宝蔵院ほうぞういんは地方の有力者で、京都で関連のあった山科言継やましなときつぐ船橋国賢ふなばしくうにたかなどは貴族です。丸目蔵人佐も地方ではそれなりの立場の武士でした。

 この期間の京都は永禄8年(1565)足利義輝が殺害される永禄の変、永禄12年(1569)に織田信長の上洛などもあり、方々で合戦があり安定している時代ではありません。ですが、最初に述べたように色々な相手に兵法(剣術や軍配ぐんばい)を含む様々な芸能を教授や披露していた形跡が見られます。

 塚原卜伝つかはらぼくでんの弟子を見てもわかりますが、戦国時代、当時の兵法を学ぶ階層は、やはり乱世でもそれなりに余裕のある地位の人間だったようです。


 これは個人的な意見ですが、すくなくとも戦国時代の兵法・剣術というのは、学問や芸能の一種であり、合戦のための兵卒の技や、低い身分のものが自衛や戦闘のために学ぶものではなかったのだと思います。

(ただし、後世と違い、暴力・闘争が身分を問わず非常に身近だった時代ですから、単なる趣味・習い事としてだけではなく、実用性が求められていたのは間違いないと思います)


 元亀げんき2年(1572)に信綱は山科言継から下野国しもつけのくに結城方ゆうきがたへの書状(信綱から公方等みな軍配を学んだ、という紹介状)を受け取り、関東へ帰って行きます。この後の足取りは不明ですが、天正てんしょう5年(1577)亡くなったというのが通説です。ですが、信綱と親交のあった山科言継が編集に参加した「歴名土代」には天正てんしょう元年(1573)卒とあるので、おそらく関東に戻ってほどなく亡くなったのだと思われます。


 上泉が帰郷した2年後、元亀げんき4年(1574)に織田信長が将軍、足利義昭あしかがよしあきを追放、室町幕府はここで滅亡した形になります。この後は織田・豊臣秀吉・徳川家康の政権が登場する安土あづち桃山時代ももやまじだいとなります。


 この安土桃山時代に名を残す人々は、

外他流とだりゅう一刀流いっとうりゅう)の外他とだ一刀斎いっとうさい(伊藤一刀斎)とその弟子、小野次郎右衛門おのじろうえもん御子神典膳みこがみてんぜん)・古藤田勘解由ことうだかげゆ

冨田流小太刀とだりゅうこだち冨田越後守とだえちごのかみ長谷川宗喜はせがわそうき

天流てんりゅう斎藤傳輝坊さいとうでんきぼう

新当流しんとうりゅう師岡一羽もろおかいっぱ穴澤浄見あなざわじょうけん

そして、今回名前を挙げた上泉信綱の弟子たち(柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさい・タイ捨流の丸目蔵人佐・疋田豊五郎ひきたぶんごろう宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえい)などになります。


 時代小説等に興味がある人には見覚えのある、またはお馴染みの有名剣豪たちだと思います。


 ですが、次回は少し時代を戻して、捕手とりて小具足こぐそく腰廻こしのまわりの登場について書きます。これらは現代の柔術や柔道の元となった武術です。この武術の流派が登場するのが室町時代~戦国時代です。


 参考文献:

 著者不明「鎬言集(抄)」安倍立剣道伝書,つくば大学体藝図書館蔵

 今村嘉雄ほか(1966)「日本武道全集 第1巻」人物往来社

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