第12話 新陰流その3
続きです。
前回、言及した
個人的にはどうやって生計を立てていたのだろう?という点が不思議ですが、なんだかんだと色々な収入があったのかもしれません。
※1
それはともかく、入門側の記録が残っています。まぁ、かなり後に記録されたものなので、どこまで信頼性があるのかわかりませんが、貴重な記録です。
4、
信綱が上洛した後、上泉信綱の高名を聞いた武士、
その前に丸目蔵人佐についてですが、丸目は天文9年(1540)、肥後国の
この時、
※2
※3 有馬流は第8話で言及した
「鎬言集」によると、信綱に兵法を学んだ将軍
丸目はそれを聞いてでは勝負しよう、と思い上洛します。ちなみに海上を行くと海賊に襲われるので陸路を僧の恰好をし存覚と名乗って旅をしました。
この時の年月日は不明ですが、永禄7年に足利将軍の前で丸目と信綱が兵法上覧しているところを見ると、
※4 日本武道全集で「相良文書」の丸目が19歳頃、
上洛した丸目はさっそく信綱の自宅に押しかけ、
「九州より丸目蔵人佐というもの弟子の望みありて来る!」
と言ったところ、信綱も九州の丸目という上手がいる事を知っていたため、
「(あなたは高名なので)弟子になるには及ばない」
「もしどうしてもというなら先ず
と言ってシナイを取り出した、とあります。(当然、前回説明した撓、今でいう袋竹刀です)
この時、丸目蔵人佐ははじめてシナイを見たそうです。シナイを見た丸目が試しにシナイを振ってみたところ、
丸目は
「これでは勝負がわからない」
と言います。信綱は
「いやいや、互いに怪我をしないのが一番です。ですが、やってみればかならず一方が負けるのはわかります」
と答えます。
丸目も納得し、二人で縁側に出てさっそく仕合をはじめました。
まず丸目がするすると進み出て、ぱっと真向を打ちました。ですが信綱はさっとそれを外して逆に丸目の頭上をびしっと打ちました。
丸目は「今一度」というと、信綱は「何度でもどうぞ」と答えます。
丸目は次はぱっと素早く飛びかかって打ちかかりましたが、信綱は先ほどと同じように外してまた同じ所を打ちました。打たれたその時、丸目は焦って「今一度」とも言わずに続けて打ちかかります。
突然のことだったので、信綱もとっさに足を上げ蹴飛ばし、丸目を縁側から庭に突き落としました。
転げ落ちた丸目もこの即座の対応に驚き、
「先生こそ天下の名人である」
その場で平伏し弟子になった、という話です。
この話自体は、丸目蔵人佐の
それでも、シナイに対する評価や、信綱と丸目の仕合の様子など、戦国時代の雰囲気が感じられます。
入門ののち、
丸目蔵人は一度帰郷し、再度上洛した永禄10年、信綱より印可を得ます。この時、丸目は弟子を何人か連れて上洛しており、彼らも信綱より指導を受けたという話があります。
この後、丸目蔵人佐と弟子たちが九州に
※5 打太刀(うちたち、うちだち)は剣術や剣道で一般的に使われる用語で、兵法の技を演じる際(稽古する際)の敵役の側のこと。
5、信綱の帰郷
信綱は永禄6年(1563)頃から
関わった人物、柳生・松田・
この期間の京都は永禄8年(1565)足利義輝が殺害される永禄の変、永禄12年(1569)に織田信長の上洛などもあり、方々で合戦があり安定している時代ではありません。ですが、最初に述べたように色々な相手に兵法(剣術や
これは個人的な意見ですが、すくなくとも戦国時代の兵法・剣術というのは、学問や芸能の一種であり、合戦のための兵卒の技や、低い身分のものが自衛や戦闘のために学ぶものではなかったのだと思います。
(ただし、後世と違い、暴力・闘争が身分を問わず非常に身近だった時代ですから、単なる趣味・習い事としてだけではなく、実用性が求められていたのは間違いないと思います)
上泉が帰郷した2年後、
この安土桃山時代に名を残す人々は、
そして、今回名前を挙げた上泉信綱の弟子たち(
時代小説等に興味がある人には見覚えのある、またはお馴染みの有名剣豪たちだと思います。
ですが、次回は少し時代を戻して、
参考文献:
著者不明「鎬言集(抄)」安倍立剣道伝書,つくば大学体藝図書館蔵
今村嘉雄ほか(1966)「日本武道全集 第1巻」人物往来社
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